たいせつなガラクタ 3




くらくらと眩暈がする状況を引き裂いたのは、ブルブルと震える機械的な羽虫の羽の音だった。

「……ちっ」

小さく舌打ちをした新田さんが、ズボンのポケットから取り出した携帯に応じる。

「もしもし?」

不機嫌な声とは別に、そっと体を離そうとしたら、優しい動きでそれを制し、更にぐっと引き寄せられた。
夏の夜に汗ばみ、潮風でべたついた体が密着する。
普段なら気持ちが悪いその行為も、新田さんという人だからか、心地が良いと感じてしまう。

『どこにいるの?』

「まだ海」

携帯から漏れ聞こえる声は、新田さんの彼女の声だった。

『もう大丈夫よ。あたし今、角のセブンにいるから送ってってくんない?』

「あー……無理」

『なんでよ?』

「つーか、そこまで帰ってんなら家すぐじゃねぇか。自分で帰れ」

『は?』

「はじゃねーよ。無理、自力で帰れ。じゃーな」

パタンと携帯が閉じられる。
小さなディスプレイから放たれていた灯かりは、暗闇の中ではかなりの威力があったらしい。
閉じられた瞬間、闇に大きく支配され、一瞬何にも見えなくなった。

「面倒くせぇな……女って。な?」

ぐっと力を入れられて同意を求める言葉に、そうですねともそうですか?とも発することは出来なかった。
本心ではもちろん、そうですねと同意をしたくてしかたなかったけれど、
それを言うには自分は経験がなかったから……

続けて鳴り出した携帯を見て、新田さんがまた小さく舌打ちした。
けれど、すぐに開いて電話に出る。

『いまどこだ?』

男の声だった。

「まだ海」

ルミさんと同じ返答なのに、こちらは穏やかな声だった。藤堂さんだからだろう。

『2年がうまく巻いてくれたみたいだ。そろそろ出てきてもいいぞ。俺はそのまま帰る』

「おう」

『あ!あと、サトルもそこにいるのか?』

「あ?……うん」

『中西が心配してたから、メールでもしてやれって伝えてくれ』

「わかった」

『じゃあな』

「ああ」

通話を切ってそのまま電源を落とした携帯はまたズボンのポケットにねじ込まれた。
また一瞬暗闇に支配される。
だけど、すぐに引き戻す声が聞こえた。

「だって、聞こえたろ?」

「はい」

「そろそろ行くか」

来たとき同様、腕をぎゅっと掴まれて砂浜とは反対側の岩場を抜けて連れて行かれる。
逃げているときは必死だったからわからなかったけれど、岩にはびっしりと貝殻が張り付いて、
その先が鋭利に波で磨かれているのか、キラキラと光っていた。
掴まれた腕に電流が走る。

「いてっ…」

小さく声を上げたつもりだったけれど、先を行く新田さんには十分に聞こえていたらしい。

「ん?」

振り返って掴まれた手を引き寄せ、月明かりに照らされる。

「切ってんじゃねーか……」

「大したこと無いですよ」

月明かりに照らされた腕は白く浮かびあがり、その途中に5センチほどの赤い筋がまっすぐに走る。
浮き出た赤い血液が新田さんの指の形に後を残していた。

「悪い……痛かったろ?」

「あ、いや、さっき気づいたくらいだから、そんなに痛いわけじゃ……」

そう言って、月明かりの中、新田さんの顔を見れば、俺の血のついた指先をペロリと舐めていた。
ズクンと背筋を駆け抜けるものがあった。

「そんな顔すんな…」

夜になっても冷めることのない熱が体に纏わりつく。

「家帰って消毒だな」

「いや、ホントに大したこと無いですから…」

「何言ってんだ?フジツボがはえてきたらどうすんだ?」

「ふじ、つぼ?」

「知らねーの?ま、いっか。とにかく家で消毒!」

さっきまで纏わり着いていた熱を払うような明るい声に救われた。
傷の部分を避けるようにして握られた手首が、それでも熱を生み出して、じわりと汗が滲んだ。



気持ちいい……

街灯の明かりも、自動販売機が放つ灯かりも、通りを行きかう人も何もかもが目に入っては後ろに流れていく。
バイクのエンジンが伝える小さな振動ですら、体を突きぬけ快感に変わる。

公園の駐車場の奥にある駐輪場の奥。
隠されるように止められ、闇の中ですら月明かりを受けて輝く流線型の黒いボディー。

「お前が初めてだな…」

小さく発せられた言葉と同時に被せられたメットの紐を締められ、
嬉しさで心が満たされた。
約束どおり、後ろに乗せてもらって連れて来られたのは新田さんの家。
住宅街の角にあるコンクリートが打ちっぱなしの家のガレージに入り込み、
さっきと同じようにしてメットが外される。

静まり返った住宅街の遠くで犬の遠吠えの声が聞こえた。

「こっちから来たら、玄関通らずに俺の部屋に来れるから」

ガレージの横に取り付けられた家と同じようにコンクリートで作られた階段を登って行くと、
勝手口の横に鉄製の階段が取り付けられていた。

その階段をカンカンと音を立てながら登ると、中西の家とは比べ物にならないくらい綺麗なドアがあった。
ポケットからじゃらじゃらと音をさせながら取り出された鍵でドアを開け、ぱちりと電気が点けられると、
そこは新田さんの部屋だった。

「どうぞ」

「お邪魔します……」

招き入れられるようにして入った部屋はフローリングの20畳ほどの部屋。
昼間の熱気がこもっているのか、むわっとした部屋の中はタバコの香りがした。
今年高校に入ったばかりの俺からすれば、大人っぽい部屋。
新田さんのイメージ通りの部屋は変に落ち着かなかった。
エアコンのスイッチを入れ、ポケットの中身を部屋の中央に置かれたガラステーブルに置きながら新田さんが居心地の悪そうにしている俺に声をかける。

「そこ、座ってろ。消毒と飲み物持ってくるから」

「は、い」

ガラステーブルの横を指差されて腰を下ろした。
テーブルの上には、さっき新田さんが置いた鍵と携帯。
吸殻であふれる灰皿に、バイクや車の雑誌が雑然と置かれ、部屋の壁にもたくさんのバイクのポスターが貼られているのを首だけ動かしてきょろきょろと見回す。

がちゃりと音がして、開けられたさっき来たときとは反対のドアが開き、片手に救急箱、片手にはビールの缶が6本一まとめにされた半ダースが握られていた。

「ほら、手、出せ」

俺の前にしゃがみ込んだ新田さんに手を取られた。
貝殻で切ったからか、暗闇では1本の赤い線だったそこは、引っかかれたように何本かの浅い傷があった。
救急箱から取り出された消毒液は滲みると有名な消毒液。
温い液体を傷口に垂らされる度、目を瞑ってやり過ごすしか方法がなかった。
ばい菌が入っているのか、垂らされたところは白い泡を作り出した。

「滲みるか?」

「……少し」

消毒液を垂らされてはティッシュで拭き、また垂らす。それを数度繰り返した。

「よし、終わり!」

最後に大きな傷に絆創膏を貼られ、どうやら治療は終了したらしい。

「ありがとうございました」

礼を言うと、海辺でやられたように頭を撫でられた。

「飲むぞ」

新田さんのその声に、冷えた缶が渡される。
隣に座り込んだ新田さんの手から、プシュっと炭酸の抜ける音が聞こえた。
スイッチの音。
自分では知らなかった自分の体の変化に、このとき初めて知ることになった。


お題をお借りしています
『悪魔とワルツを』






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