Storyteller ichi





 限界まで回したネジから手を放そうとしたとき、「待った」の声がかかる。飛び跳ねるように立ち上がったその子の手によって部屋の照明が落とされた。「いいよ」弾む声を合図に手を放すと、オルゴールが光りを帯びて回りだした。美しい音色と光りにその子の表情が和む。光りの弱さで泣いているようにさえ見えたが、オルゴールから顔を上げた彼女は愛らしい笑顔を見せてくれた。



 土日を挟んでもあの時聞いた音色が耳の奥で鳴っている。あの子はオルゴールを大事な物だと言ってくれて、二回だけ回した後は箱の中に戻してしまった。だから耳に残るほど聞いたわけではないのに。苦労の末に手に入れた物だから感慨深いのかもしれない。けれど、暗い部屋でそこだけスポットライトを当てたように華やかに回るオルゴールを眺めている間、脳裏にはずっと星川さんの顔がちらついていた。
 重厚な鉄の扉を開けると、目の前に大きな青空が広がった。雲一つない空に、強い風が吹き抜ける。燦々と降り注ぐ陽射しは温かく、眩しく、ビルの屋上は心地よい開放感があった。剥き出しのコンクリートにフェンスで囲まれた貯水漕などが雑多に配置されている。普段は立ち入り禁止のこの場所に足を踏み入れたのには訳がある。

「星川さん」

 コンクリートブロックの上に大の字で横たわっているのは珍しく早い時間に出社して密やかに社内を騒然とさせた人物、だらしないけど本気を出せば仕事ができすぎると有名な星川さんだ。呼びかけると顔だけを動かし、薄く開いた目でこちらを確認した。

「メシ食べましたか?」

「食べたよ〜」

 正午はとっくに回っていた。コンビニに行って、オフィス内を廻っていたせいで、昼休みは半分が過ぎていた。
 星川さんは胸ポケットから煙草ケースを取り出すと、そこから一本を抜き取り寝転がったまま火をつけようとした。星川さんの唇に挟まったそれを俺は手早く奪った。

「嘘」

 星川さんは目を細く開いて俺を見上げる。眩しそうな目がちょっと不機嫌そうにも見えたが遠慮する気はなかった。

「昼食を抜いていたら体が持ちませんよ。星川さんの分も買ってきたので食べて下さい」

星川さんの顔の上でコンビニのビニール袋を揺らすと、星川さんは少しだけ目尻を下げた。

「食べたって。ここでは昼寝してただけだよ」

 強い陽射しを遮るように目を腕で覆ってしまった。腕を伸ばしたことで体内が動いたのか、風が強くても星川さんの腹の虫ははっきりと聞こえた。

「無理しないでください」

 俺は呆れ半分で星川さんの横たわる隣に腰を下ろした。買ってきたおにぎりの封を破く。

「違う。これは消化している音だ」

 星川さんは強情に食べたと言い張るが、その最中も腹からは悲しい音が鳴っている。

「腹空いてんでしょ。意地張ってないで起き上がって食べて下さい」

「食べたからいらねぇって言ってるだろ。意地張ってんのはどっちだ」

「昼飯が摂れないほど金に困ってるの知ってんですからね」

「何言ってるのお前。俺は……」

 星川さんは驚いていた。目を開けたら目の前にお金が差し出されていた。この程度で驚く人はいないだろうけど、1万2千円という金額は星川さんを黙らせるには十分だった。

「お返しします」

「……いらない。てゆーか、何それ? 知らない」

 一度は起き上がりかけた星川さんだったが、すぐにまた倒れ込んで顔を腕で覆った。しかも体を横に転がして俺に背中を向ける。

「先週の金曜日、例のオルゴールを買いました。でも、俺が買えるように、オルゴールが売れないように手付けを毎日払っていたのは星川さんですよね?」

「知らないってば。何の話をしてるのかさっぱり分からねぇ」

「しらばっくれても意味ないですよ。全部、お店のおじいさんに聞いてますから」

 星川さんから小さく舌打ちが聞こえた。
 手の中には今すぐにでも噛み付けるおにぎりがある。空腹のはずなのに食欲が湧いてこないのは、腹の虫を鳴らしている星川さんが俺に背中を向けているからだ。

「どうして手付けを出したりしたんですか。本業とは別にバイトをしていたのはともかく、オルゴールのことは星川さんには関係ないはずでしょう。売れてしまったとしてもあの店には代替品がたくさんあったじゃないですか。星川さんがそこまでしなくても俺は、」

「あのさ。お前素直に『ありがとう』ぐらい言えないの?」

 横たわったまま顔だけ向けた星川さんは眉間に皺を寄せていた。体勢がきついとかではない、星川さんが口癖の「めんどくさい」という文字が表情から滲み出ていた。
 感謝の気持ちがあれば真っ先に伝えている。それができなかったのは星川さんの考えや行動の意味が分からなかったからだ。礼だけを求める星川さんが急に押しつけがましく感じられた。

「俺のことさんざんお人好しだとか、不器用だとか、考えが低俗だとか言ってたくせに、結局は同情ですか? 借金肩代わりさせられて、バイトで細々と金を貯めている俺が可哀想だとでも思ったんですか? 大きなお世話ですよ!」

「どうした、急に……」

 激昂した俺に星川さんは驚き上体を起こす。
感情的になるつもりはなかった。星川さんが悪いわけじゃないのに。礼を言えば済む話なのに、納得できないものが身の内にあって空回りしている。

「あなたには同情されたくなかった」

「……」

 己の弱い部分と知りながら、本当に見せたくないのだと怯えながら、もはや止めることができなかった。

「俺の事情を聞いて哀れみを見せなかったのは星川さんだけです。バイトを始めた当初は本当に辛かった。ビールケースを運びながら『なんでこんなことをしているんだろう』って何度も考えた。疲労して努力しても金が消えていく。自分は本当についてない、人生呪われてるとも思いました。でも人生ここで終わらせるわけにはいかない。こんなことで負けてたまるか、立て直してみせる、今の苦労を笑ってやる!って、自分を励まして……。優しくされるのは痛い。自分が可哀想な人間みたいで……。でも星川さんの言葉は厳しいからこそやる気が出たんです。馬鹿だ、馬鹿だと言われ続けても、自分の力でオルゴールを買ってやろうって思えた」

 甘えだな、と思う。俺は星川さんの優しさと厳しさと強さに甘えている。
 責めるつもりも困らせるつもりもなかったのに星川さんはぽつりと呟いた。

「ごめん。俺が悪かった」

 違う、と心が叫ぶ。でも星川さんを見ることも、首を振ることもできなかった。

「余計な世話だったな。だからその金はいいよ。俺が勝手にやったことだし」

 剥き出しの札は俺の左手に握り締められていた。

「これは星川さんのお金です。星川さんが支払った手付けは没収されたけど、店のおじいさんが手付金の1万2千円は星川さんに渡せって」

 アンティークショップの店主はオルゴール代の18万720円しか受け取らなかった。『自分が欲しいわけではなく他人のために手付けを払う奴がこの現代にいるなんて』堅物そうなおじいさんが流暢に話した。『あんなお人好し見たのは初めてだ』
 星川さんをあんな風に言うなんて、社内の人間が聞いたら誰もが驚くだろう。実際に自分もかなり驚いてしまった。

「じゃあ何? お前が余分に1万2千円多く出してんの? あのじじぃ、ホントにケチくせぇな。いいよ、その金は。はなっから捨てたもんだと思ってるから」

「俺の前で金を捨てるとか言わないでくれませんか。本当に怒りますよ」

 星川さんはバツの悪そうな顔になり、渋々と俺の差し出した金を受け取った。
 星川さんの手付けを返したことでわだかまりが一つ消える。けれど疑心暗鬼は膨らむ一方だった。星川さんは渡した金を注視して黙り込んでいる。冴えない表情に不可解さが増した。星川玲という人物が分からなくなっている。

「随分と、らしくないことをするんですね」

 物思いに耽る星川さん。同僚のために手付けを払う星川さん。気にしない素振りをしながら実は気にしてくれている隠れたお人好しの星川さん。
 悪くないと思う。疑うのは失礼だと分かっている。星川さんにそういう一面があってもいいはずだ。でも『星川さんだからこそ』嫌味や叱咤をぶつけながら静かに見守っていて欲しかった。
 星川さんの真意を探りたくて何気なく投げかけてみたのだが、星川さんからは思いがけない反応が返ってきた。

「俺らしいって何?」

「え……?」

「俺らしいって何だよ……」

 星川さんは身を縮めて俯いた。幼子が落ち込むような仕草に似ていて、見ているだけで痛々しかった。真剣な顔、厳しい眼差し。その奥に誰も知らない、隠された星川玲がいるような気がした。
 完璧だ優秀だと称えられていた星川さんが自分自身を見失っている。自らふしだらに陥落したのには何か理由があるのかもしれない。本当に強い人間なんていないのだろう。

「悪い。今の忘れて」

 とてもじゃないが簡単に忘れられそうにない弱々しい声を残して星川さんは立ち去ろうとした。俺は咄嗟に星川さん腕を掴んで引き止めた。今の状態で別れたら近くなった距離が前よりももっと離れてしまうような気がした。

「どうして……」

言葉が繋がらない。あんな声を聞いた後では何と言っていいのか分からなかった。
すると思いのほか星川さんから話し始めた。

「なんで気にかかるのか俺にも分からないんだ。でもあの日からずっとオルゴールをチェックして、他の奴に先を越されるとなると居てもたってもいられなくなって。毎日店に通って手付け払ってさ、何やってんだ? って自分でも思ったよ。でもさ、お前があのオルゴールで姪っ子の笑顔を見たいと言っていたように、俺も同じものが見たかったんだと思う」

 屋上を吹き荒れる強風がいたずらに星川さんの髪を乱すから表情がうかがえない。でも、今まで見たことのない星川さんが目の前にいたのは確かだった。

「同じ、もの? それって……」

 先を追求すると星川さんは眉間に皺を寄せた。目が泳ぐ。唇をきつく結んだ。話したくないという意思が見えたが、今更ここで引くわけにはいかない。

「答えてくれないと腕放しませんよ!」

「お前って意外と強情なのな」

「俺みたいな若輩で取り柄のない男は相手を追い込まないと契約が取れないんですよ」

 厳しい顔だった星川さんから少し笑みが零れる。それだけで緊迫した空気が少し和らいだ。
 星川さんは柔らかい声で「おっかないな。ほどほどにしとけよ」と言う。本題から反らされている気がして腕を掴む手に力がこもった。

「星川さん、はぐらかさないでください」

真剣な眼差しを向けると、星川さんは目を逸らしてしまった。そして「こんなはずじゃなかったんだけどな」と意味ありげな言葉を吐いた。

「白石」

「はい」

「笑ってみ」

「は……?」

 唐突な申し出に不可解な顔になった。そんな俺を見ていた星川さんは柔らかい目で苦笑する。「やっぱりダメか」なんて自暴自棄な言葉を吐くから、余計に分からなくなった。

「なんですか、いったい!」

 からかわれているのか? 弄られているのか? ただの気まぐれだったとか? 不可解すぎる星川さんの笑みに暴れ出したい気分になる。
 憤慨寸前の俺に、星川さんはとうとうと語り始めた。絡まった糸が解けていく。
 きらきら輝いていたんだ。
 いいな、と思った。
 オルゴールとあの子の話をするとき、苦労とか不幸とか思わないぐらいいい顔をしていたんだ。
 いいなぁ、と思った。
 俺も誰かを思ってそういう風になりたいと思った。
 俺も誰かにそういう風に思ってもらいたいと思った。

「お前の笑顔が見たかった。それだけなんだ」

 星川さんの腕がするりと俺の手から離れていった。
 日溜まりの中、星川さんの背中が小さくなっていく。
 手の中から転げ落ちたおにぎりには気付かず頭を抱えていた。不思議と胸が苦しかった。
 どんな顔をあの人に見せればいいのだろう。強ばって笑顔なんて作れそうにない。第一作り物の笑顔なんてあの人は望んでいないだろう。
 思われるってこういうことなのかな。コンクリートブロックの上に仰向けになり青空を見上げた。案外悪くない。いや、かなり悪くないよ。温かい陽射しに恵まれて、自然と笑みが零れていた。


Fin




最後まで読んでいただきありがとうございました。
「深夜残業」というテーマで作りましたが、テーマに沿えているかどうか、はたまたBLと呼んでいいものかどうか、心配であります。(自分としてはBLのつもり、汗)
楽しんでもらえて、また作品を通して何かを感じ取っていただけたら幸いです。
最後になりましたが、企画を立ち上げ、準備から宣伝までお一人で頑張ってくれたひろさんには感謝をしております。
お待たせして本当に申し訳なかったです。この作品をひろさんに捧げます。
happiness child



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