Storyteller zero





 週明けの月曜日。朝から雲一つない青空が広がっているせいか目覚めがとても良かった。いつもより30分も早い電車に乗り、競歩のごとく我先にと急ぐ人混みのなかをゆっくり歩いても始業前に余裕で会社へ到着した。
 早い時間からオフィスにいる俺を見て同僚達は一様に驚いていた。些か居心地が悪い気がするが、それもしばらくの我慢だ。
 デスクで手持ちぶさたにしているせいか、喫煙ルームに誘われる、営業先のことで妙な相談を持ちかけられる。俺はそれらをテキトーにあしらいながらデスクに留まり続けた。
 何をするでもない時間。とても長く感じた。
 退屈してきたところに女の子がコーヒーを運んでくれた。ドリップの香りが鼻孔の奥に届く。そこで落とされた一言に、俺は浮かれていたことに気付いた。

「誰かお待ちですか?」



 ―――休日の土曜日。休みの日まで会社近くまで出向きたくはないものだ。しかし俺は比較的早起きして11時には銀座中央通り沿いのアンティークショップにいた。
 店の隅っこに移動していたオルゴールが無くなっている。
 無愛想なじーさんは新聞から顔を上げずに言った。「来たよ」

「お人好しそうな優男が来たから売ったよ」

 その日は、陽射しが強いのに薄手のジャケットがないと肌寒かった。それでも体の芯はほんのり温かく春心地になった。色に例えると清楚な純白、柔らかい薄桃、お日様の黄色。陳腐な言葉では表現できないきらきらの光りが瞼の裏に輝く。それは繁華街のネオンでも高価なオルゴールでもなく、アイツと見知らぬあの娘の笑顔かもしれない。



 コーヒーを運んでくれた女の子に「いや、誰も待っていない」と否定しようとしたとき、白石の快活のいい声が聞こえた。出社したばかりの白石は爽やかな笑顔と挨拶を周囲に振りまく。その姿を見た瞬間、気恥ずかしくなった。
 誰も待っていない。何をするわけでもないけど、早起きをして、いつもより早く出社してしまうほど胸が高ぶっていたのは確かだ。言葉にするにはあまりに陳腐で、愚かで、恥ずかしすぎる。
 考えていることが表情に出る方ではないけど、思わず顔を両手で覆っていた。視界は真っ暗になる。でも白石の声は耳に届く。いつも通りの元気さ、明るさ、陽のエネルギーに周囲が引き寄せられる。
 恥ずかしさの整理もつかないのに顔から手を外していた。一瞬でも見逃すのは惜しいと思った。春心地で浮つく胸に白石が本当の春を与えてくれる、そんな錯覚に陥っている。きらきらすぎて潔白すぎて近付いてはいけないと思っていたけれど、誰よりも今その笑顔を求めていた。
 休日前にオルゴールを手に入れた白石は、休日中もずっと笑顔で、ご機嫌で、出社したら俺に駆け寄ってきて、頬を緩みっぱなしで報告するに違いない。そう思っていた。
 白石と目があった。ふいに表情が変わり凛々しい顔立ちになった。白石はいつでもどこでも誰に対しても笑顔を振りまくわけじゃないけど、そのときは違和感を持った。

「おはようございます」

 すれ違い様の素っ気ない挨拶。社交辞令の笑顔さえ見せてくれなかった。
 俺の期待と高ぶりは空中で分散する。煙草を吸って吐き出した煙のごとく、空気と混ざり合うと無になった。
 横目で白石を盗み見ると、いつも通りに働く姿があった。でも俺に近付く素振りは見せない。オルゴールを買ったはずなのに何も言わない。俺にとってはいつもと違う白石。春の到来はまったくの勘違いで、暦外れの寒さが戻ったような気分だった。








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