Storyteller ichi





 毎週同じように巡ってくる花の金曜日。歓送迎会やお花見と、何かにかこつけては宴会を催そうとするサラリーマンの性。私情や後ろめたい気持ちで断り続けるのは胸が痛いのだが、今日の俺はまったく違う。それは誘ってきた相手にも分かるほどだったらしい。

「白石、彼女でもできたか?」

「えっ!?」

 必死に首を振って否定すると同僚に笑われた。いつもなら「付き合い悪いぞ」って一言なじられるのに、今日は「また今度な」ってあっさり解放された。
 頬に手を当てる。どうやら浮かれていたらしい。気を引き締めようとしても弾む胸は落ち着かず、駆け出したい思いを我慢してゆっくりビルのエントランスを出た。
秘密のバイトは昨日付けで辞めた。手取りが目標の額に達したからだ。酒屋のオヤジさんは「いっそ転職しないか」と真面目に聞いてきた。横にいた女将さんが「馬鹿言ってじゃないよ」と親父さんの肩を叩いた。バイトの先輩は唇を尖らせて「ちぇ〜、もういなくなっちゃうのか」ってちょっと寂しそうで。みんなが「困ったらまた来いよ」って気持ちよく送り出してくれた。本職持ちで短期希望。その上借金持ちという痛い事情を抱えていた俺。始めは忙しくて猫の手も借りたいから仕方なく雇ったって空気が満ちていたけど、バイトだからといって手を抜かず必死になって働いていたらいつの間にか認めてもらえていたようだ。
人の温かさが有り難い。勇気と明日に続く元気が湧いてくる。
世の中は一人じゃない。知らないところで、見えないところで、誰かに助けられながら生きている。
借金を肩代わりしなければならなくなったとき、正直この世は地獄だ、と思った。借金取りには身に覚えのないことで責められ、貯金、保険だけに限らず日々の生活費まで根こそぎ持って行かれた。貧乏=不幸なんて勝手な偏見だと思っていたけれど、金がないのはとてつもなく怖くて不安なことなんだと初めて知った。友人との付き合いはめっきり減った。外食をするのでさえ百円単位の金額を気にするようになった。営業の外回りで喉が渇いても喫茶店には入れない。煙草をやめた。休み前の楽しみだったDVD観賞、周りがやってるからなんとなく始めたロト6にFX、気晴らしのパチンコ、全部やめた。改めて思い返すと生活が180度変わってしまっている。以前の自分はどこにもいない。普通に生きているつもりだったけれど、随分と贅沢な生活をしていたようだ。
 今の状況を不幸と言えば不幸だし、損をしていると言えば損をしていると言える。けれどそれは以前と今を比較しているだけであって、見方を変えれば大した苦労に思えなくなる。

『ホントーにお前はつくづくお人好しだな』

 まだ冷たさの残る春風に乗って聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
 そんな昔に聞いたわけではない。あの人が心底呆れて俺を詰るようになったのは最近のことなのだから。でも、いつ言われたか思い出せない。一昨日、昨日、一週間前? それとも今日だっただろうか……?
 そういうふうに考えてみると、これまでほとんど接触のなかった星川さんと近頃は毎日のように話をしている。話なんて些細なものだけど、隠さず気取らず日々の生活について吐き出せる場所はとても有り難かった。
 星川さんは意外と世話焼きだ。そしてシンプルに世渡り上手だ。だから不器用でお人好しな俺の話を聞いているときはいつも眉間に皺を寄せて呆れている。それでもなんだかんだで話を聞いてくれるのだから、本当に世話焼きでお人好しなのは星川さんではないかと、秘かに思っている。
 心を開かない姪っ子のためにオルゴールを買ってやりたい。だから本職とは別に深夜のバイトを続ける俺に星川さんは躊躇いもなく言う。

『そんな金があったら俺なら豪遊する』

 星川さんの背景に煌びやかなネオン街が一瞬見えた。でもそれは俺の思い違いで、『ガキならガキらしく遊園地とか連れてったら喜ぶんじゃねぇの』。言葉は悪いが、彼なりのアドバイスだったようだ。
 楽しませてあげるのも一つの手だろう。少しの間だけでも現実世界を忘れて楽しめるなら彼女は笑うかもしれない。しかし束の間の楽しさを得るために、束の間の夢世界で紛らわすのは違うのではないだろうか。お金で得られる幸せではなくて、人が与える幸せを彼女には知って欲しかった。

『それで金が必要となるんじゃ世話ねぇなぁ』

星川さんが言うことはもっともだ。こういう方法しか思いつかなかった己の発想の乏しさに苦笑する。でも後悔はない。

『その子がヨメに行くまで世話するつもりか?』

星川さんはフィルターぎりぎりまで煙草を吸い続ける。細い指を焦がしかねないそれを銜えながら厳しい一言を投げてくる。

「あの子と生きていくつもりです」

身内のよしみとか、大人の責任とか、同情で決めたわけではない。辛いことや我慢することはこの数ヶ月たくさんあった。けれど彼女の存在が支えであり勇気でもあった。だから乗り越えられたと、今の自分があるのだと思える。今は、彼女と一緒にいたいと素直に言える。だから後悔はない。
 『お人好し』星川さんは小さく吐き捨てた。その横顔は眉間に皺を寄せていて、窓から見えるオフィス街に厳しい視線を向けていたけれど、心配してくれている気持ちはよく伝わった。
 後ろから春風が吹き抜けていく。コートの裾を巻き上げながら背中を押す。早く、早くと急かされる。それはきっと自分の心だった。
 会社から歩いて10分。銀座中央通りの一画にあるアンティークショップに着いた。全体的に薄暗い照明の中、目を瞠るほどの細工が施されたアクセサリーや骨董品にスポットライトが個々に当てられ光り輝いていた。
気もそぞろで落ち着きを失っていた。店内の品物を物色することなく狙っていた商品に足を向ける。オルゴールが飾られている棚から目当てのものを見つけ、堅物そうなおじいさんが座っているカウンターまで大事に運んだ。

「これください!」

 高ぶる俺を、カウンター越しにおじいさんが視線を向ける。そしてカウンターに置かれたオルゴールを見た。体は細いけれど酒屋の親父さんより頑固そうな目を器用に動かし、俺とオルゴールを交互に見た。

「あの、」

 会計をお願いしようとしたら、おじいさんの新聞紙を畳む音に遮られた。頑固で几帳面な性格らしく、端と端をきちんとそろえてハンカチをアイロン掛けするかのように綺麗に畳んでいく。しばらく待つことになったが、その間に俺は鞄の中から茶封筒を取りだした。日々の深夜バイトで貯めたお金。今日購入するオルゴール代のちょうど18万720円が入っている。

「19万2720円」

 おじいさんの厳つい目が俺を見ていた。

「………………は?」

「19万2720円」

 俺の面食らった顔なんて興味ないと言わんばかりに、おじいさんは表情を変えず繰り返した。
 俺は慌てた。用意した茶封筒には18万720円しか入っていない。財布の中は昼に一万円札を崩したばかりで、小銭を足しても一万に届かないはず。
 今日とばかりに意気込んできたのにオルゴールの価格を間違えていた……!

「………………」

 ショックと失望感で声が出せず、立ち尽くした俺の目にオルゴールの値札がちらりと見えた。手書きの札には「¥180,720」と記されていた。しかもカッコ書きでご丁寧に税込の文字まで見える。

「どういうことですか!?」

 俺の思い違いではない。オルゴールは「¥180,720」だった。
 クレームと難題をふっかけるクライアントさながら、俺はおじいさんに強く詰め寄った。
 おじいさんはまず俺が見つけた値札を見た。そして次に俺の顔をまじまじと見つめた。

「19万2720円。それがこいつの価値だ」

「さっぱり分かりません。ちゃんと説明してください」

 店主がはっきり言うからって納得できるわけがない。
 店主にとってはあっさり言える「19万」かもしれないが、俺にはやっとの「18万」なのだ。簡単に引くわけにはいかなかった。
 挑むような目を向けても若輩と年輩の差であろうか、おじいさんは軽く受け流す。表情を変えないまま今度はカレンダーに目を向けた。

「よー、いつ、むー、今日で六日だからな。間違いはない」

 カレンダーを数えて頷く。そして機械的に愛想のない言葉が続いた。

「そいつには今、一日2千円の手付けがついている。今日で六日目だ。あんたにそれを売るとなると今までの手付けを返さないといけないから、そのオルゴールは19万2720円だ」

 世の中は本当に厳しい。お金と商売が絡むと人はもっと厳しくなる。
 営業マンたるもの「あなたが受け取った手付金を返せばいいのでは?」までは言えなかった。商品が売れなかったことで生じた損害を倍額で請求されかねないから。ここはそういう街なのだ。







- 5 -




[*前] | [次#]

≪戻る≫


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -