悪魔の囁き 5





しかし……女性が思わず「死んじゃうぅぅぅ」と言ってしまうようなテクニックとは如何なるものなのか?


呆然としていた白石の脳内に夜空を染める電飾の看板のようにキランと光る疑問が突如として浮かんできた。経験が乏しい上にアダルトビデオの好みもうるさい白石。いや、経験が乏しいがために、アダルトビデオの好みにうるさいのだ。経験が豊富であれば、アダルトビデオのお世話になることなんてしなくても良いのだから。そんな白石のような男性のために、欲望を解き放つと同時にバイブルでもあるアダルトビデオも肝心なところはモザイクがかかっていて良く見えない。無修正なるものが出回っていることは百も承知だが、すべてが見えてしまうより、想像を掻き立てられる分、修正版を好んでしまう己の美学をどこか誇らしくさえ思っていたのだ。が……この状況。声は聞こえるけれど姿が見えない。姿が見えない分、自分の好きなように想像してしまう。最も白石の好むこの状況。そして、拍車をかけるようにさっきからヘッドロックの体勢のまま、星川のスーツ越しではあるけれど、人肌を間近に感じているのも良しくない状況……のような気がしてくる。その星川と言えば、なにやらさっきから「俺、超おもしれぇ」と言ってはウヒヒヒと不気味な笑いを漏らしているのだが。


『あっ……ダメぇ……あっ、ああんっ』


聞こえた声に、体がカーっと熱くなってきた。心なしか、星川の体も熱くなっているように思う。いや、実際には窒息騒ぎとその後のヘッドロックなどで血行が良くなって温もっただけのような気もするが……
また壁越しに甘い声が聞こえる。外国人からは日本人女性の最中の声は猫の鳴き声に聞こえると言われているらしい。だが、日本人男性である白石からすれば、猫の鳴き声などには聞こえない。リナの声がどんなにわざとらしくても、まったくの最中の甘い声にしか聞こえないのだ。おまけに最近ご無沙汰だ。徐々に鼓動が高まって覚えのある感覚が背筋を通って下半身に集まり出す気配。このままではヤバい。


「ほ、星川さん」


「ん?」


「あ、あのっ……」


今度こそ、この用事のなくなった空間から……正確には白石の体の変調が気づかれないうちにと、続けて「戻りましょう」と言おうと思った白石の言葉を遮って、星川が「知りたい?」と問いかけてきた。ゾクリとするほど星川の色気のある掠れた声。さっきまでの不気味な笑い声など存在しなかったかのような変わり様だった。それが耳のすぐ横から聞こえてきた。残業を頼まれた時とは比べ物にならないくらいの極上の秘密を隠した甘い匂いを撒き散らす掠れた声……その奥に隠したものが何なのか。星川が問いかける「知りたい?」というものの内容に、もしも興味がなかったとしても、その声だけで何なのかが知りたくなってしまう……それくらいに甘い声だった。


「……何を?」


「お前、戸田さんのこと好きだろ?」


白石の質問に答えることなく続けてされた質問に繋がりがわからなくてクエスチョンマークを頭に浮かべたまま星川の顔を見上げる。薄闇の中でも十分に整って見える星川の目としっかりと視線が合う。
リナちゃんを好きかどうか……違う気がする。白石は即座に思った。去ってしまったからではない。リナちゃんは白石にとってこの荒みきった現代社会を砂漠に喩えるならばオアシスではあるけれど、それが好きだという気持ちに結びついてはいない。オアシスは潤いを与えてはくれるけれど、彼女にしたい、独り占めしたいと思うほどの強い執着はないように思う。時折ふわんとした笑顔を向けてもらって、その笑顔に張り詰めていた気持ちがほにゃんと癒して貰えれば十分なような気がする。だが、それを説明しようとした白石の言葉を待つことなく星川は「どんな風に彼女が乱れるか……知りたくない?」と、とんでもないことを殊更ゆっくりと聞いてきた。


「何を言ってっ!」


「わ!バカ!」


星川の質問に瞬時に大きな声を出して反論しようとして、まずいと思った星川がヘッドロックの体勢から立ち直って急いで白石の口を手で塞いだ。咄嗟のことだったからもごもごと続きの言葉を星川の手に吐き出しながら、さすが……と思わず思ってしまったのは、白石と違ってきちんと鼻を避けていてくれたところだった。


「大きな声を出すなって……さっきも言ったけど、俺らも気まずいけど、向こうはもっと気まずくなるだろ?」


星川の言葉に未だ口を塞がれたまま、コクンコクンと頷くと、そっと手が離された。熱い手のひらだった。


「知りたくなんてないです」


「何が?」


「いや、さっき星川さん聞いてきたでしょう?リナちゃんの……そのっ……あれを」


「ああ。だってお前彼女のことが好きだろ?」


「違います。好きではないです。いや、好きか嫌いかのどちらかに分類しろと言われれば好きになりますが、恋愛感情を伴う好きかと言われれば答えはノーです」


「え?マジで?」


「はい。マジで」


「悔しいからとかじゃなくて?」


「なんで僕が悔しいんですか?」


悔しい。そりゃあ悔しいに決まっている。けれど、それは世間一般的に言って、「あんな可愛い子と良いことしやがって」ってくらいの感情であって、決して好きだった子を寝取られたとか、弄びやがって!と憤怒するような感情ではない。さらに言えば、ここで“悔しい”などと言ってしまっては、また同じ説明をしなくてはならない。それは面倒だった。そして、星川の言っていたリナちゃんのことも知りたくはない。本心だ。リナちゃんだって絶対に言われたくないだろう。そういうことは言っちゃダメなのだ。二人だけの秘密でなければならないのだ。白石が学生だった時分、当時付き合っていた彼女が友達にその手の話しをしていたと別れた後に回りに回って白石の耳に入って来た時には、白石は立派な変態に仕立て上げられていた。いや、確かにちょっとだけバイブルであるアダルトビデオで興奮した場面を引用させてもらったのだが、彼女には少し耐え難い要求だったのかもしれない。と今になっては思える。だからこそ、アダルトビデオ通りに事に及ぶと大変なことになると身を持って知ったのだ。
だが、そんな学生時代の辛い思い出を思い出しながらも、白石には1つ知りたいことがある。電飾の看板のようにキランと光ったあの疑問。『女性が思わず「死んじゃうぅぅぅ」と言ってしまうようなテクニックとは如何なるものなのか?』だ。そして、今、白石の肩を抱き、至近距離でも耐えうる整った顔を持ち、女子社員の羨望の眼差しを受け、更には毎週末に合コンに引っ張りだこになっている女性遍歴の華々しい星川先生がここにいらっしゃる。最適な答えを与えてくれるに違いない。白石とは違って、実践で培ってきたテクニックなのだから。


「あの……星川先生」


「何だい、白石くん」


こういう乗りの良さが星川の良いところだ。聞きにくいことでもこうやって乗ってくれると聞きやすいではないか。


「後学の為に一つお聞きしたいことが……」


「うむ。私でわかることであれば、何でも聞き給え」


かけてもいない眼鏡を押し上げるようにして言う星川先生。その言葉に甘えることにして、白石は意を決して聞いてみることにした。


「では、遠慮無く。……女性が思わず「死んじゃうぅぅぅ」と言ってしまうようなテクニックとは如何なるものなのでしょうか?」


少し見上げるような形で問いかけると、「ほっほう。白石くんは言わせたことがないのだね?」と少し勝ち誇ったような笑みを浮かべて先生口調のままで星川が尋ねてくる。
あるわけがない。
そう思っていると、勝ち誇った顔のまま星川が信じられないことを言った。


「俺もない」


「は?」


「いや、だから俺もないよ」


「何で?」


「何でって聞かれてもそういう経験がないんだからしょうがないだろ?」


星川先生はあっと言う間になりを潜めてしまった。そして、いつもの星川が顔を出す。いささかムッとした声で言われ、白石はまたも呆然としてしまう。星川が言われたことがないと言うことは、余程のテクニシャンじゃない限り言わせることが出来ないのだろうか……。では壁の向こうの人物……おじいちゃん度に磨きをかけた社長は余程のテクニシャンなのか?まぁ経験の成せる技であれば、年齢を重ねた分テクニシャンであっても不思議ではない……いやいや、あれはリナちゃんが社長を喜ばせるために必死に演技をしているのだ。と。そこでまたしても白石の大好きな想像の世界に入り込もうとしていた。だがそれをさせまいとするかのように、抱かれたままの肩をグッと星川に寄せられたと思ったら、さっき同様ゾクリとするほどの甘い声で吐息と一緒に「男にならあるんだけど」と耳に吹き込まれる。さっきの「リナちゃんとやっちゃった」発言以上の衝撃の発言に白石は今度こそ石のように固まってしまった。そうして固まってしまった体の中で、脳だけがぐるぐるといつも以上に回り始める。

男にならある?
男にならあるってどういうこと?
ねぇそれって星川さんって……ゲ、イってこと?
いやリナちゃんともやっちゃった訳だから、バイってこと?

と実際にはこの4つの文章がスロットマシーンのようにランダムに脳内で回っているだけなのだが、パニック寸前の白石には大量のデータを処理させられているパソコンのようにフリーズしてしまっている。今、白石の頭をパカリと開けて見ることが出来るとすれば、きっと砂時計が表示されていることだろう。


「俺、どっちもいけるんだけど……男の方が燃えるかな?」


白石が固まっているのを良いことに、肩を抱いている方じゃない星川の腕が、白石の細い細い腰に回される。そうされると、正面から抱き合っているような体勢になる。その動きを緩慢な動きで見つめていると、星川の顔が徐々に近づいてきた。そうじゃなくても暗い空間なのに、それ以上に白石の顔が影に覆われる。そして、あと少しで鼻先が触れてしまう至近距離で、


「俺好みの腰なんだよな……お前って」


悪魔の甘い囁きと同時に、白石の唇は星川の唇によって塞がれてしまったのだ。







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