悪魔の囁き 4



「何?!」


咄嗟に声を上げたのは白石だった。
その声に星川が「しっ」と言って鼻の前に形のよい人差し指を一本立てる。
壁際まで駆け寄りたいけれど、そうじゃなくても無造作に積み上げられた本の山があちこちに存在している資料室だけに、そこまでたどり着くことは不可能だった。だからそこに立ち止まったまま耳をそばだてる。
ガタンガタンと続けざまにまた音が響き渡る。
シンと静まり返っているから余計に大きな音に聞こえてしまう。


「……泥棒ですかね?」


小さな声で星川に問いかけると「いや」と小さく首を振りながら言いにくそうに答えた。
泥棒ではない上に、星川が言いにくそうなこと……そして、その先が示すものは……と想像した白石はゾッと背筋を凍らせた。

あれなのか?
……あれだったらどうしよう……

思わず隣にいた星川の腕をぎゅっと握る。
それに星川がびっくりして体をビクンと震わせる。
それに白石がびっくりして更にぎゅっと腕を握る。
それに星川が「痛い」と言って体を引いたから、その動きに白石もびっくりしてビクンと体を震わせる。
ビクンとした白石に星川がびっくりして体をビクンと震わせる。
さらに……と何度かそんなことを繰り返していた二人の耳に「あ……あっ……いやっ……」と何とも艶めかしい女性の声が微かに聞こえ、二人同時にビクンと震えて動きを止めた。


「……」


「……」


さっきまでの空気は一気に霧散して、何とも気まずい雰囲気が漂い出す。
チラッと星川を見ると、とうに気づいていたのか、バレた?と物語る視線を向けて気まずそうな笑みを浮かべていた。
薄明かりの中、数秒見つめ合っていたけれど、このままここにいる訳にもいかないと思った白石は「戻りましょう」と星川に提案してみた。
なんせ調べていた“ラーメン構造”の説明書きも見つかったことだし、なんだかんだと時刻も1時はとっくに過ぎているだろう。早く終わらせて帰りたいし、ガリガリの身にはこの寒さも堪える。握っていた腕を、さっきの星川同様引っ張ってみたけれど、星川は動かなかった。
「星川さん!」と動かない星川に対して、小声なりにも咎めるように言うと、「待て……今、けっこう良いところっぽい」と野次馬根性を剥きだしにする。
「無粋ですって」と更に咎めると、「誰だろうな」とまったく白石の言葉を無視した発言をした。
無視されたけれど、当然白石も気になっていた。
隣は社長室だから、もちろん社長と誰かだろう。秘書を抱えるような社長ではないから、社長以外に社長室に入るような人物は一人もいない。副社長は定時があってないような感じの会社で唯一と言って良いほど、規定の時間が来たら帰ってしまうからこの時間に社内にいることすら考えられない。しかし、社長は白石が初対面で“おじいちゃん”と呼んでしまう程の年齢だ。あれから更に5年が経っているのだから、更に“おじいちゃん度”にも磨きが掛かっている。もし社長だとしたら……とんだ色ボケ爺さんじゃないか……と、咎める気持ち四割と羨ましいと思う気持ち六割。
さらに副社長こと社長の奥さんの顔が浮かび、ブルドッグにも似たあの頬のたるみを思い出し、あれなら仕方のないとググっと羨ましい気持ちが高まっていく。


「なんか……聞いたことある声だよなぁ」


冷静に誰の声なのかを分析している星川に倣って白石も声に耳を傾けてみる。
さっきから聞こえてくる声はアアンアアンと艶めかしいけれど、経験の乏しい白石ですら、どこか芝居がかっているように思う。経験が乏しいのになぜそんなことがわかるのかと聞かれたら、いつもお世話になっているアダルトビデオのお陰だからわかるのだ。乏しいなりの経験で、あの世界のままだと思ったら大間違いであることは実証済みである。女性はあんなにアアンアアンと端無い声を上げたりしない。もっと慎ましやかな感じなのだ。いや……白石のテクニックの問題なのかもしれないが、この際そんな白石の乏しい経験を考えることは無駄なことだと、遠ざかりつつあった女性の声にもう一度意識を集中してみる。
声の感じからしてそう歳が行っているような気がしない。鼻にかかる甘ったるい声は、確かに聞いたことのあるような声だった。


「……受付か」


星川がボソリと漏らした言葉に白石の心がギクリと音を立てた。


「ええっと、誰だっけ?右側に座ってる娘。……そうだ、戸田さんの声に似てないか?」


更に続いた言葉に、今度こそ本当に白石の心臓が嫌な感じに鼓動を始める。
受付の戸田リナちゃん。
白石と同期の彼女は、いわばこの会社で白石にとってのマドンナのような存在だった。不規則な勤務な故に、疲れた体と出会いのない毎日に心がズタズタのボロボロになっていることはしょっちゅうだった。そんな白石の心の砂漠に、リナちゃんは一時の安らぎを与えるオアシスのような存在なのだ。小さな体に小さな顔。ふわふわの髪の毛が何とも愛くるしい。その顔の中で一際目を惹く大きな潤んだ瞳。その瞳を細めてニコニコと笑顔を浮かべた彼女から「白石くん、お疲れ様」などと可愛らしい声に名指しで言われた日には、一気に疲れが吹き飛んでしまうほどに。受付をするべくして生まれてきたような子だ。そうであってもそうじゃないと思いたい白石としては「そうですか?似てませんって」と素っ気なく反論することしか出来ない。しかしそこは星川。何となく白石が“嫌がっている”という空気を敏感に感じ取り、「戸田さんだって」と言い切る。「そんなはずはありません!」と小さい声ながら更に反論をすると「絶対そうだって」と“絶対”を強調するように言われる。何となく星川の手に乗っている気がしないでもないが、願うような気持ちが消えたりはしない。だって、あのリナちゃんだ。可愛い可愛いリナちゃんだ。あのリナちゃんがあんな色ボケ爺さんとそんなことになっていてもらっては困るのだ。マドンナなのだ。オアシスなのだ。


「絶対そうだって」


またしても言われた言葉に、「違いますって」と幾分大きな声で反論すると、星川が「しっ」とまた鼻の先に指を立てる。「気づかれたら俺達も気まずいけど、向こうはもっと気まずいぞ」とまで言われ、「もしも、仮に、そんなことは絶対にないと思うけど」と心の中で強調しながらも、そうだったとしたら、リナちゃんはもう白石に微笑みながら「白石くん、お疲れ様」とは言ってくれないかもしれない。更に、恥ずかしさのあまり、会社を辞めてしまう可能性だってある。そうなれば、もう二度と会うことは出来ないのだ。あのオアシスは、暑い夏の日にアスファルトの上に現れる逃げ水のように、近づいても近づいても永遠に触れることのない存在になってしまうかもしれない。こっちの方がずっと現実的だ……いやいや、相手は社長だ。ひょっとしたら白石と星川の首が飛ぶことだって有り得るのだ。そうやってこの状況がいかにまずい状況かを判断し、その上断続的に艶めかしい声が聞こえ続ける空間で落ち込みかけた白石に、「だって俺、やったことあるから」と衝撃の発言を星川がした。


「………………何を?」


たっぷり3分ほど経ってから、やっと白石は言葉を発することが出来た。出来たけれど……この言葉である。
ハッと気づいて、この質問は自分を墓穴に追い込むような質問だったと気づく。はっきりと聞いてしまってはもう二度と逃げられない現実を目の当たりにすることになる。


「い、いやっ……待って、言わないで下さい!」


慌てて訂正したものの、その声に本日最高の笑みを浮かべた星川が目に入る。白石の嫌がり度がマックスであることを感じ取ったのだろう。笑みを浮かべたままの星川の口が「セッ」と言ったところで血液が通わない冷たい手のひらを押し当てた。あまりの冷たさにびっくりした星川だったが、それ以上を言わせて、自分が傷つくことをしたくない白石は必死に手のひらに力を込める。


「言わないで下さい。お願いだから」


ぎゅっと目をつむって発した言葉は幾分大きな声になってしまったけれど、隣の社長室から聞こえてくる声はまったくと言って良いほど、白石と星川がいるだなんて気づいていない様子だった。そうして力を込めていると、その手を星川が握って放そうとする。「ダメです!聞きたくないです」と更に力を込めると「ううん!ううん!」と星川が白石の腕を握って必死に腕を放そうと藻掻いた。もう一度力を入れてつむっていた目を開いて星川の顔を見ると、まるで窒息する人みたいに顔が真っ赤だと思ったところで、鼻も一緒に押さえ込んでいたことに気づく。まるでじゃない!窒息しそうなのだ!慌てて手のひらを避けた瞬間、ぷはーっと盛大な息を吸って吐いた星川に「殺す気かっ!」と潜めた声で怒鳴られたと同時に、ヘッドロックをかまされてしまう。「痛い!痛い!すみません!」と繰り返す白石に「どんだけ苦しかったと思ってんだ!」と本気で首を絞めてくる星川。さっきの星川以上の早さで酸素が足りなくなっていく白石の脳内に幻想のオアシスが現れだした頃、隣の部屋からガタンと壁に何かが当たる音と「リナ、もう死んじゃうぅぅぅ」と明白に告白する戸田リナの声が響き渡った。

その声に抵抗する気が断然に失せてしまった白石。呆気にとられて腕の力を緩める星川。

しばしの間沈黙が二人を包む。壁に当たる衝撃音と戸田リナの壁越しなのにクリアに聞こえる声。壁際ギリギリでことに及んでいる二人の姿を何となく想像してしまう……


さらば、俺のマドンナ……
さらば、俺のオアシス……


砂漠の真ん中に突然水を持たずに放り出されたような感覚で途方にくれた白石を腕に抱えたまま「リナだけにやっぱリナ。なんちって。ウヒヒ」と言った星川のギャグは当然のように聞こえていなかった。







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