悪魔の囁き 3




「お前はおいしい物を食ってる時が最高に幸せなんだな……」


その言葉に目を開けると、さっきすんなり離れていった星川の手が伸びてきて、ほっぺに付いていた粉砂糖を取ってくれる。
白石に仕事を押し付け、女性用のほのかな香水の匂いを漂わせ、明らかに合コンに行っていたと物語っている星川だが、こんな優しい面もあるのだ。おいしいものを食べているときの白石は食べることに一生懸命で、しょっちゅうほっぺだ口の端だに何かをつけている。その度に星川がそれを取ってくれる。最初こそぎょっとした行動だったが、今ではいつものことだと思っている。だからそんな星川の行動を特には気にしない。

「はい。おいしいものは僕を裏切りません。おまけに僕に仕事を押し付けることもないし、僕を傷つけることも辱めることもありません。星川さんのお陰でおいしいものが食べられて僕は幸せです!ご馳走さまでした」

白石が満面の笑みで礼を伝える。
辱めていたのは、星川ではなく白石自身の思考なのだが、そんなことを星川に伝える必要はまったくない。
「可愛気がねえな……」と白石の嫌味に対する感想を言った星川が、指先をペロっと舐めて「甘い」と言った。
そこで、今度こそ反論だと言わんばかりに、先ほどから熱心に見ていたディスプレイを舐めとった指で指し示す。


「ここ、変なスペースがあるけど……なんで空いてんだ?」


「そこは……僕の知識ではわからなかったので……」


ちょっとだけ憂さ晴らしの気持ちで言った言葉にうっひっひとしてやったりな気分だっただけに、空いていたスペースを指摘されて、もじもじとしてしまう。
別にやましいことなど何一つないのだが。
大掛かりな中層の雑居ビルのリフォームは、今回の特集のメインのようだった。写真がないから詳しいことはわからないけれど。
戸建てでも同じだが、廃屋となってしまった建物のほとんどは現在の建築基準法よりも耐震強度は低い。基礎の段階からやり直しをしないといけないものが多かったようで、このメインの雑居ビルも例に漏れることなく、基礎からのやり直しをしていた。その中で出てきた“ラーメン構造”という言葉に、建築用語に詳しくない白石は引っかかってしまった。これは決して白石が腹がへった上に食いしん坊で、行きつけの屋台のおやじの顔を思い出したからではない。命を掛けても誓えるかと問われれば答えはノーだが。26年間平凡に暮らしてきた白石が聞いたこともないし、わからないと言うことは、多分ほとんどの人がわからないだろうと勝手に決めつけてみた。だからその説明が欲しかった。ネットで調べればちょちょいと出てくる内容かもしれないが、ひょっとしたら『そんなことは世間一般の人々はみんな知っている』とクライアントから言われてしまっては無駄な作業になってしまう可能性もあるし、ネットで調べた内容が一概に正しいとも限らない。その裏付けをするためにちょちょいと調べるはずが、膨大な数の説明を読むハメになるかもしれない……と思った結果、そんな手間をするくらいなら恥をしのんでクライアントに聞いてみようと思い、スペースを空けていたのだ。それを星川に説明すると、視線を宙に漂わせてから思い出すようにして話し出した。


「ラーメン構造か……確か、秋くらいに出た倉橋さん達のやってた本に詳しいのが載ってた気がするぞ」


こう答えると言うことは、星川もその言葉を知らない可能性がある。
じゃっかんホっとしながらも、先輩のデザイナーが手掛けていた仕事を白石も思い出す。
紙媒体を主に扱う会社だから、ティーンズ向けのファッション誌のページなどからあらゆる分野、各業種の専門書なども手がけている。詳しい人物がいなくても「人が作り出すすべてのものはデザインである」というと聞こえが良いが、単にがめつい社長がどんなことでも利益になればやってしまえ的な何でもありのデザイン会社だから、建築関係の用語集などの書籍のページのデザインなどももちろんある。あるにはあるが……その数もまた膨大なのだ。捨てることなく会社で保管をしているが、この不況下にそれ専属の部署を設けているわけではないから、資料室の中は煩雑になっている。当の白石とて、自分が手がけた書籍が宅配で届けられても、余程の大作でない限りは、一度目を通した後フロアに設置された本棚に置いてしまう。その本棚は、月に一度、白石ではない誰かが資料室に本を置きに行っているようだった。やったことがないから、誰が置きに行ってくれているのかはわからないのだが。ただ、一度星川に頼まれて行った資料室で、目当ての資料を見つけるのは大変な苦労を伴った。だから今回も資料室に行って、それを探すくらいなら、ネットで適当に調べてしまった方が早いような気がする。いや……それが不確かな情報になってしまう可能性があるからクライアントに聞こうと思っているのに。
そう思って白石が口を開こうとした瞬間、「資料室に行こう」と星川が白石の手を取った。


「え……あの中から、探すんですか……?」


明らかに嫌だというニュアンスを存分に含ませた口調で答えると、その返答に満足気な顔で星川が「うん」と頷く。
優しい面を持つ星川だが、その反面、少しだけ白石が嫌がることを無理にやろうとする悪癖がある。「嫌ですよ……」と言うと更に満足気に甘い声で「何で?」と即座に返事が来た。


「だって……すごい量なんですよ……おまけにきちんと分野ごとに分けられている訳でもないですし……」


「秋くらいの出版なんだから、そう奥の方に仕舞われている訳じゃないさ」


もっともな返答を返され「それはそうですけど……」と次の手を考える。
何かないか……星川が納得するような良い言い訳が……と既に“ラーメン構造”に関する疑問よりも星川に対する言い訳の方を真剣に考えているこの時間こそが本当は無駄な時間なのだが、与えられた問題に対し、真摯に向き合うことに一生懸命になってしまう。しかし、神は白石を見捨てたりはしなかった。とっても良い考えが浮かび、ニマニマしながら星川に向き合う。その姿に「どうぞ」と星川も笑みを浮かべながら聞いてくる。ちなみに未だ、白石は星川に腕を握られたままだ。


「じゃあ、星川さんが探してきて下さい。その間に僕は文字の打ち込みを終わらせてしまいますから」


今度こそ、どうだ!これは良いアイデアだろう?と得意気に胸を張って言ってみた。
時間も無駄にならなければ、原稿を進めることも出来る。経費削減で蛍光灯の傘は存在するのに当の蛍光灯は一本しか存在しない暗い空間で、更に言えばエアコンなんて重宝なものがない寒い空間でもあるのだ。探しに行きたいと言っているのは星川なのだから、思う存分、一人で探しに行けば良い。
素晴らしい考えに「じゃあ、行ってくる」と星川は言うに決まっている、と椅子を移動して机に向き直ろうとした瞬間、握られたままの腕を引かれてしまい、変な体勢で「却下」と言う星川の声を聞いた。

「え?」

咄嗟に星川の方を向くと、思った以上に近くに顔があって、びっくりしたけれど、そんな白石のことなど気にしない風に星川は言葉を繋ぐ。


「嫌だ。一人では行きたくない。それに一緒に探した方が早いし」


笑顔を浮かべたまま、そう言うや否や星川はそのまま立ち上がる。腕を掴まれたままだった白石もそれにつられるようにして立ち上がってしまう。そうしてそのままズンズンと進み、温かいフロアから寒くて暗い廊下へ連れだされてしまったのだ。















「ありました?」


「いや」


「見つかりませんねぇ」


「……うん」


大の男二人が手を繋いで……正確には白石は腕を掴まれていただけだったのだが、給湯室でちょっとだけ怖いことを想像してしまった白石がその手を離さないでと祈っていたのもあって、ちょっとしたカップルのように寄り添って寒さをしのぎながら、第三者が見たら「あんたたちホモだったのか?」と別の意味でも寒い状況で訪れたのは社長室の隣の資料室。どうして社長室の隣に資料室があるのか未だに不思議だが、なんせこの世は不思議で満ちているのだから、社長室の隣に資料室があったって別に構いはしない。構いはしないが……学校の教室ほどの広さのある部屋の中、暗い蛍光灯の明かりの下、無造作に積み上げられただけの書籍の数々が山のような影を作り出していた。一見、賽の河原で積み上げた石の山のようだ。その本の山の束を手に取っては別の山に積み上げていく。根っからのきれい好きな白石としては、片付けたい!という衝動に駆られてしまうけれど、そんなことをしていたら原稿は出来上がらないどころか、朝を迎え、昼を迎え、また夜を迎えても終わりそうにない。だから手にとっては別の山に積み上げていくのだが、せめて切り崩した部分だけでもと簡単な分類をしながら整え、白石と星川はさっきから倉橋の手掛けた書籍を探していた。


「題名……なんでしったけ?」


「うー……ん、忘れた。けど、素人でも家が建てられるとかなんとかって感じの名前だったと思うぞ」


「確かあれって、ネットでも有名になった一般の人が、長い年月を掛けて自分で家を建てちゃったってやつでしたよね」


「ああ、そんな感じ。……おっ!この辺が秋くらいかな」


星川の声に、「本当ですか!!」と喜びの声を上げながら別の山を見分けていた白石も近寄る。
近寄ろうとするけれども、白石ほどきれい好きではない星川が積み上げた本はあまりに無造作極まりない上に星川を取り囲むように積み上げられている。まるで、本にかごめかごめをされているみたいだ。本の向きもあちこちと向き、それが今にも崩れそうな感じで積み上げられているのだから、そうそう星川に近寄ることは出来ず、おまけに部屋の暗さも相まって触れて倒さないようにと慎重になってしまう。
途中、「早く来いよ」とベッドに女性を誘うような星川の声に、「あんたがこんなに積み上げてるから行けないんだよ!」と心の中で悪態を突きながら本の山を積み替えてスペースを作り出し、やっとの思いでたどり着いた時、星川が「あった」と目当ての本を見つけ出した。


「……これですか」


「ああ、これだな」


そろそろ寒さがガリガリの身にしみ出した白石はてっきりフロアに戻って見るものだと思っていたら、「俺の記憶も曖昧なんだ……“ラーメン構造”について書かれてなかったら無駄足になるから…ちょっと待て」と衝撃の事実を言われ、唯一の光を放つ蛍光灯の下へと移動した。
A4版の薄っぺらい書籍を星川が広げ、それを覗き込むようにして白石も目を走らせる。
パラパラと捲っていたページの右上に『建築用語集』という文字を見つけ出し、白石はゴクリと唾を飲み込んだ。
これで見つからなかったら……


少し緊張していたけれど、はっ気づく。
よくよく考えれば別に唾を飲み込むほどに緊張することは何もない。元通りに戻るだけだ。
この時間がかなり無駄になってしまうけれど。
そうして、あいうえお順に書かれた説明書きの“ら行”のところに、二人の目当てであった“ラーメン構造”は存在していた。


「俺の記憶に間違いはなかったな」


どこか誇らしげに言う星川に「そうですね」と白石がじゃっかんうんざりした口調で答えようとしたその時、誰もいないはずの隣の社長室からガタンという音が響き渡った。







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