悪魔の囁き 2




「ふう〜っ」


漸く一区切りがつき、資料通りにレイアウトが終わり、もう少し記事の文字を打ち込み、あとは写真をハメ込むだけと言う段階までたどり着いた時には既に日付が変わろうとしていた。
雑誌の記事で、今注目の若手建築家ばかりを集めて、朽ち果てた家屋を数軒リフォームした10ページほどの特集物だった。
写真は後日入れるから、今日は文字の打ち込みをして、プリントアウトをして自分で校正を入れる。
校正チェック項目は入社したとき星川がチェックシートを作って渡してくれた。
未だにそれを使っているが、大変重宝している。
レイアウトのバランスは悪くないか?「てにをは」でおかしいところはないか?誤字脱字はないか?など、10項目ほどが書かれた紙と照らし合わせながら校正をしていく。
新人研修の時、「既に覚えてしまっていると思う気持ちが、防げたはずの単純なミスに繋がる」と星川から教えてもらった通り、白石は未だに初心に近い心境でやっているからミスが少ない。
ミスが少ないから仕事が舞い込む。
舞い込むから忙しくなる。
忙しくなるから要領を体が覚え、いつの間にか同期以上の仕事ぶりを発揮するまでに成長していた。
そうして、入社して4年、もう春だから5年目を迎えようとしている今、星川からも絶対的な信頼を得ている。こうして仕事を振られるくらいに。良いように考えれば……だが。
そして、なんだかんだと言いながらも、実は白石もそんな星川に絶対的は信頼を抱いている。
決して言葉や態度に出してはいないが……。
机の隅に置かれたいちごジャムバージョンが目に入る。
そろそろ一度何か口に入れておこう。小腹も空いたし……とコーヒーカップを片手に電気の切れた給湯室に向かう。
既にフロアには誰もいなくなっていた。
デザイン会社はフレックス制がほとんどだ。
白石と星川の会社も一応は10時〜19時という定時は設けてあるが、業務に支障のない程度でその勤務体系を崩しても構わないことになっている。
決まった休日は一応あるが、仕事の依頼や進行によっては休みを取れないこともしばしばで、普段はこの時間でも一人や二人はいるものだ。
しかし、今日は誰もいない。
春先だが風はまだ冷たく、エアコンを切るとまだ寒い。
シーンと静まり返ったフロアでやけに大きくエアコンのモーターの音がウオーンと低く響いている。
広いフロアに一人でいることを急激に意識してしまい、なんだか背筋のあたりがざわざわと騒ぎ出す。

……出ないよな…?

会社は学校じゃないから、その手の話はほとんどない。あったとしても大人の集まりだ。入社してからもそんな話は聞いたことがない。昼夜問わず、誰かれがいるような会社だ。もし出るとするならば……白石じゃない誰かがとっくに遭遇しているはずだ。
そんなことを考えている間に蒸気と共に香ばしい香りが漂い出す。
変な社長だが、コーヒーにはうるさいらしく、従業員達に振舞われるコーヒーですらそれなりに値が張るらしい。
取引先にもクリエイターが多いから、味にうるさい輩も多い。
あの変な社長も元はデザイナーだったというから、世の中は不思議で満ちている。
不思議に満ちてはいるが、あれがこの会社に出没した噂は聞かないからきっと大丈夫だと白石は自分に言い聞かせた。
カップにコーヒーを流し入れ、使った器具を手早く洗う。湯気を伴ったカップを持って給湯室の明かりを消した時だった。
光を放つフロアにたどり着くまでのほんの少しの距離。
その間、シンクロするように足音が、コツン、コツンと遠くから響く。
ん?と思って足を止める。その間にも一歩一歩近づくようにコツン、コツンと廊下を歩く足音が聞こえる。
普段なら、打ち合わせにでも行っていた誰かが帰って来たのか、この時間から仕事をしようと思って来たのか、はたまた忘れ物でも取りに来たのかもしれない、と思えただろう。
だが……さっきちょっとだけ考えてしまったことが脳裏に浮かび……ひょっとして…?と思わずにはいられず、温かいカップをぎゅっと握って、近づく音の気配に耳をすませた。








ガチャリとフロアのドアが開いて、いよいよ緊張が高まった瞬間。


「白石?」


聞こえた声にびっくりすると同時にホッとする。


「白石ぃ〜?」


間延びした声に再度呼ばれて「はい」と返事をしながらカップを持ったまま出ていけば、そこには星川の姿があった。
白石の姿を探していたのか、違う方向を見ていた星川が声につられてこちらを見る。
一瞬ぎょっとしたように肩をびくつかせたけれど、星川も白石と同じようにホッと息をついた。


「なんだ……コーヒーを淹れてたのか」

「はい。一区切りついたので」


「もう!?」


予想外の出来事が起きた!と言わんばかりの声だった。


「はい……って星川さんは何をしに戻って来たんですか?まさか、いちごジャムバージョンを僕が残すことを予想して、それを食べに来たんじゃないでしょうね?ダメですよ。あれは僕がもらったんです。たとえ星川さんが返せと言ったところであれはもう、僕のものなんです」


『僕のもの』を強調しながら早口で言った言葉に「そんなせこい事は言わねぇよ」と少々呆れながら星川が返答をする。
安心した。腹が減るというのは、自覚した途端、急激に減っていることを思い知らされるものだ。
さっきからきゅるるるきゅるるるとまるでサーキットを走る車のタイヤのように腹が鳴っているのだ。
もし星川に返せなどと言われたら、持っていた熱いコーヒーの入ったカップを放り投げていたことだろう。
思わず投げつけたことを想像して、「うわっちっち!」と飛び跳ねる星川の姿に笑いそうになったのを必死で堪えた。
デスクはお互いの意志とは無関係に隣同士だった。
教育係と新人の頃から変わらないデスクの配置。退社したときと同じ、夜気を含んだ黒いコートを着たままの星川に着いて行くようにして自分のデスクにたどり着き、コーヒーカップをコトンと置くと、星川も持っていたバッグを床に置いて椅子に腰掛けた。
体格の良さに見合った、ギシリという重い感じの椅子の軋む音がガランとしたフロアにやけに響く。
デスクの下に収まっているのがおかしいくらい長い足を組むのを横目に感じながら、倣って自分も腰を掛けると、体重の差なのか、体格の差なのか……軽いミシリという音が聞こえた程度だった。
フロアには響きもしなかった。
男としてちょっぴり悲しい。
白石は細い。細いというか……ガリガリだ。ガリガリすぎて、洗濯板の代わりが出来るんじゃないかと風呂に入る度に脱いだ服を握りしめて自分の肋骨を見つめてしまう程だ。決してやろうとは思わないが。
そして、そんな白石と対照的に学生時代、モテ系の花形スポーツであるバスケットをしていたという星川は、背が高くて、手足が長い。スーツの上からでもその身体には綺麗に筋肉が覆っていることが伺えた。時折身を翻したときにチラッとスーツの上着の裾から除く引き締まったウエストは女子社員達にセクシーだと評判である。羨ましい限りだ。
反対に白石は、星川とは違った意味で女子社員たちに羨ましがられるウエストをしている。一度、忘年会の余興で女装をするのに、同期入社の経理の女の子の制服を借りて着た。
その制服はぴったりどころかウエストが少し余っていた。
白石もショックだったが、その女の子の方がかなりのショックを受けていたはずだ……あれは、申し訳ないことをした。
そんなことを考えていると、星川が白石の点けっ放しのパソコンのディスプレイを覗き込んでいた。
断りもなく。
いや、断られても「どうぞ」と言うしかないのだが。
これからもう少し文字を打ち込んだら、プリントアウトをして校正を入れるものだ。
別に恥ずかしいものでもないはずだし、いつもしていることだから、授業中にノートの端っこに書いた落書きを見られないように隠す中学生のようなことはしない。
だが、いつもしていることなのに、この瞬間はいつも少しだけ恥ずかしいと白石は思ってしまう。
自分が創りだしたのものというのは、何となくどこかに自分が入り込んでいる気がしてならないのだ。
記事のキャプションなど入力していて、うまい言葉が思い浮かんだ時に「最高だ自分!」と褒めたたえたり、「これってちょっとだけ脳内でビフォーアフターのナレーション口調で読んで欲しい」などと一生懸命なのだが、なぜか我に返ると少し恥ずかしい。いや、すごく恥ずかしいことを考えながら入力しているから、恥ずかしいのかもしれない……
恥ずかしさを誤魔化すようにして、コーヒーカップに手を伸ばして口を付けると、思った以上に熱い液体が唇に触れて「うわっちっち!」と声を上げてしまった。
さっき脳内で星川が上げていた声を、実際は自分が上げてしまったことにさっきよりも余計に恥ずかしい状況に追い込まれてしまう。
そんな白石の慌てた様子に面倒見の良い星川が瞬時に反応をする。


「大丈夫か!?」


ディスプレイを見つめていた視線を即座に白石に向け、「火傷したのか!?どこをっ!?」と言いながら、白石の顔に手を伸ばして覗き込んでくる。
その手から逃げようとするのだけれど、未だ熱い液体の入ったカップを持っているせいでそうそう派手な動きも出来ず、星川の両手が白石の顔を包み込むようにして触れてきた。


ほんのりと夜気に当たった冷たい手が心地良い……


そんな感想を思い浮かべてしまった白石だったけれど、ヒリヒリとする唇で「大丈夫です」と言うと、「あ、そう?」と意外とあっさり星川の手が引っ込む。
別にずっと触れていて欲しいなどとは思ってはいなかったのだが、こうもあっさりと引っ込められると何となくショックを受けてしまう。
そして、星川は何もなかったようにしてまたディスプレイを覗き込んでいる。
星川が何事もなかったように振舞うのなら、当然白石も何事もなかったように振舞うのが自然だろうと思い、ぎこちないながらも手を伸ばして机の隅に置いたままだったいちごジャムバージョンの入った紙袋を取った。
ガサガサと紙袋を開けて、つい、いつもの癖でくんくんと袋の中の匂いを嗅いでしまう。
う〜ん……なんて甘酸っぱい匂いなんだ……
さっきまでのショックが和らいでいくのを感じながら、袋から取り出して、はむっと齧りつく。
パンの生地と一緒に入った生クリームにいちごジャムが沁み込み、何とも言えない甘酸っぱさが口の中に広がる。
大量にかかった粉砂糖がこぼれないように気をつけたいのに、それ以上に口の中がそのおいしさを感じたくて仕方がないようで、ぱくぱくと続けざまに齧りついてしまう。
最後の一口を放りこんで、目を瞑ってしばし幸せを噛み締めた。







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