悪魔の囁き 1 目の前に差し出されたふわふわの生地の中には、ブルーベリージャムと生クリームが入っている。 こんもりと丸く、大きさのわりに重みのあるそれは、てっぺんにこれでもか!というくらい粉砂糖がかかっている。 ちょっと間違って息をしようものなら、辺り一面が白い世界に様変わりさせられるかもしれない…… それくらい近くにかざされ、甘酸っぱいブルーベリーの香りが鼻腔に微かに入り込み、口の中に唾液が溜まり出す。 ……一度だけ食べた。 文句なくうまかった。 そのうまさを思い出した白石一はごくんと唾を飲み込んだ。 思わず手を出してしまいたい衝動に駆られるけれど、この辺りで有名なパン屋の新作の向こうに見える女子社員たちにレモンの香りが漂ってきそうだと大人気の星川の爽やか過ぎる笑顔と、反対の手に握られた資料の入った封筒が白石の手を出すことを阻んでいる。 「……欲しいだろ?……食いたいだろ?食ってもいいんだぜ?」 潜めた声は少し掠れていて、まるで悪魔の囁きのように甘く聞こえる。 「白石も食べたことあるんだろ?なら分かるよな?このパンのうまさを……しかも……」 「……しかも?」 これが奴の手だということを知っているのに思わず止めた言葉の先を聞いてしまう。 その返答に満足したようで、星川の端正な顔がずずっと耳の横に寄せられた。 ついでにずずっとパンも寄ってくる。もう鼻についてしまいそうだ。 そうして極上の秘密を打ち明けるように更に潜めた甘い掠れ声が続く。 「しかも、この時間になると」 「なると……」 白石もつられて思わず声を潜める。 いや、正確には粉砂糖がぶわっと飛んで星川のスーツを汚すことを恐れたのだ。 「パンの生地の中にブルーベリージャムが沁みこみ」 「しみ、こみ!?」 「生クリームと」 「生クリームとっ!」 「混ざりあって」 「混ざりあってっ!!!ってもう嫌!それ以上言わないでくださいっ!!!」 両腕を伸ばして星川のスーツの上からでもわかる固い胸板を押しやって距離を取ると微かに粉砂糖が舞った。 だけどそれ以上に耐え難い状況に耳を塞いでジタバタと悶絶する白石を「まぁ落ち着け」とスーツについた粉砂糖を軽く払いながら星川が宥めている姿を、いつものことか……と同僚達が苦い笑いを送りつつ、帰宅していく。 「人の話は最後まで聞くもんだ」 落ち着いて、ようやっと耳を塞ぐ手を退けた瞬間に星川が極めつけの一言を言い放った。 「いちごジャムバージョンとマンゴーバージョンもある」 結局、誘惑に負けた堕天使は、悪魔の囁きの餌食になるのだ…… 受け取ったパンにむしゃぶりつく様にして齧った直後、荒い鼻息に飛ばされた粉砂糖が雪のように舞う中、星川は爽やかな笑顔を振りまきながら「頼んだぞ」と言い、封筒を押しつけて早々に帰って行った。 悪魔だ……でも、うまい! しばしがっついて食べていたけれど、残り少なくなってハタと気づく。 何とも言えない酸味とクリームの甘さがまったりと口の中に広がる。 せっかくのブルーベリーバージョンを一息に食べてしまうのはもったいないと思い、コーヒーと共にゆっくりと味わいながら資料を見ると、週明けには先方に初稿の確認をしてもらう手はずになっている。 今日は金曜日。時刻はもう夜の8時を過ぎている。 つまりは……急ぎの仕事だった。 くそっ!やられた! 悔しさを噛み締めながら、初めて食べるマンゴーバージョンに手を伸ばし、袋から出してはむっと一口齧りつく。 ブルーベリーバージョンとは打って変わって、爽やかな酸味と濃厚な甘み。それを後押しするようにクリームが包みこむ…… うまい!と心の中で感嘆の声をあげた瞬間、さっきと同様に粉砂糖が雪のように舞ってしまい、ウェットティッシュで色々なところを拭きながら、どうして急ぎの仕事もせずに帰るんだ?!と思わずにはいられない。 だけど、それ以上に餌を与えられて引き受けた自分のマヌケさを悔やんでしまう。 どうせ星川のことだから、どっかの女の子達と楽しく合コンでもしているのだろう。 そう思うと、なんだか胸の中がざわつきだし、考えることを放棄することにした。 いちごジャムバージョンを袋のままそっと机の隅に置く。 これは、夜食だ。 たかだかパン三つで持つような時間で出来上がるものではないけれど、引き受けてしまった以上はやるしかない! そう意気込んで、資料に書かれた通りに図面を配置し、記事を起こしていくことに専念した。 この不景気に白石が中規模のデザイン会社に入社出来たのは奇跡のようなことだった。 入社試験の日、駅から試験会場に向かう道で一人の初老の男性がお腹を押さえてしゃがみこんでいた。 入念に下調べをして最短距離を行くための裏道を歩いていたから他に道行く人もおらず、そのまま放っておけないと思った白石は駆け寄って声をかけた。 しかしその男性は土気色の顔にうっすらと汗を貼り付け、苦痛の色をにじませたまま、話すことすら出来ないような状態だった。 鞄から急いで携帯を取り出し、救急車を呼ぶ。 余裕を持って出てきたつもりでも、呼んだ救急車が訪れた時には既に入社試験ギリギリの時間だった。 「一緒に乗られますか?」 そう救急隊員に訊ねられたとき、一瞬迷ったものの「おじいちゃんの家族が来るまで付き添います」と救急車に乗ってしまったのだ。 ここで見捨てて、死なれでもしたら寝覚めが悪いと思ったからなのだが。 病院に着くまでの間「手を握って話しかけてあげてください」と処置をしながら言う救急隊員の言葉の通り、白石は男性の手をぎゅっと握り「大丈夫ですよ!もうすぐ病院に着きますからね!」と励まし続けた。 まるでドラマのシーンで大切な恋人が不慮の事故に見合ったときのように必死だった。 朝の渋滞に巻き込まれながらもやっと病院にたどり着いた時には、痛みに苦痛を訴えていた男性も汗だくだったが、白石も一緒に汗だくになっていた。 男性の持ち物から病院の職員が家族に連絡を入れてくれ、男性に言った通り、家族が来るまで白石は病院で処置室の前のベンチに座っていた。 駆け足でやって来た家族の人々に深々と何度もお礼を言われて外に出てから入社試験のことを思い出した。 良いことをしたんだ。後悔はしない!……………たぶん… と、その時思った通り、最初の1,2社は何とも思わなかったが、その後次々とやってくる不採用の通知がとうとう20を超えた頃、後悔というものが通知と一緒にどんどんと積み重なっていく。 あの日受けようとした会社だって入社試験を受けていたとしても内定をもらえたとは限らない。 しかし、忘れようとしても忘れられない悔しさを持ち続けたある日、携帯に見知らぬ番号から着信があった。 普段は絶対に出ないけれど、何となく履歴書やエントリーシートを書くことに飽きていたので、変な勧誘の電話だったら、このもやもやとした気持ちをぶつけてやろうと思って出た電話は、あの日受けようとしていた会社の社長からだった。 そう。あの初老の男性は、今、白石の勤める会社の社長だったのだ。 かけて来たくせに最初に名前を確認され、訝しんで「どなたですか?」と臨戦態勢を悟られまいとしたけれど、どこか滲み出てしまった少しの刺々しさを含みながら聞き返すと、携帯の向こうの男性は、あの日受けようとしていた会社と自分の名前を言った。 ひょっとして、そういう詐欺が流行っているのではないだろうか?と不安になりながらも「そうです。僕は白石一です」と答えると、『あの時はありがとう!助かったよ、本当に』と言うところから、『妻に聞いたら名前も聞かずに帰してしまったと言うじゃないか』という所までの繋がりを聞いて、やっと安心したのだった。 しかしその後『それで何の気なしに妻と一緒に不採用にした人たちの履歴書を見ているとき。ああ、妻は副社長をしているんだがね、君の履歴書の写真を見て、この子だ!と叫んだんだよ』と言われ、やっと納得が行き「そうですか」と言おうと思った瞬間、『この肩幅の狭さと言い、何となく要領の悪そうなところが君以外に考えられない!と言い出してね』と続く。 なんでお礼の電話で貶されなければならないのだ?と徐々に悲しい気持ちになり、男性が話すがままに時折うつろな相槌を打っていた。 『あの日は前の晩に少し傷んだ肉を食べてね。ほら、肉は腐りかけが一番うまいって言うだろう?』というあの日、自分が如何にしてあのような状態になったのかという経緯から、『あ!そういえばあの時、私のことを“おじいちゃん”と言っただろう?私はまだそんな歳じゃないんだよ、まったく失礼な奴だな』と抗議の言葉に変わり、創業時代の苦労話になり、子供時代のちょっとしたいたずらまで遡った社長の生い立ちにそろそろ飽きて「ええ」と「はぁ、そうですか」のいかにもやる気のない相槌を繰り返していた白石の耳に『だから、うちで働かないか?』と言う言葉がいきなり入ってきた。 いきなりの言葉だったので「はい?」と聞き返すと、『ほら、やっぱり要領が悪いじゃないか……何回も同じことを言わせるんじゃないよ。だから、うちで働かないか?と聞いているんだよ』と言われ、しばし呆然としていたけれど、その言葉に「はい」と答えたのだった。 ようやく携帯を切ったときには3時間が経過していて、充電もギリギリのところだった。 そうして、入社して早4年。 能力を買われて入社したわけではない白石は、案の定、同期から一歩も二歩も遅れたスタートを切った。 一歩も二歩も遅れを取った分を、会社はどうやって帳尻を合わせようかと考えた末、仕事が出来て面倒見が良く、要領の良い星川を教育係としてあてがうことにしたのだった。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |