最低の夜





何をしていても、何を言われても顔がにやけて仕方ない。
朝一番に佐々木さんの事を考えて、夜、眠りに着くまでに佐々木さんの事を考える。
夢の中でも佐々木さんが出てきて、正に寝ても覚めても佐々木さん一色だった。

「気持ち悪い…」

隣に座る中村から、そんな言葉が出てきても、

「へへへ」

と笑って答えると、うわ〜マジでキモイ!と言われてしまった。

「彼女が出来て嬉しいのもわかるけど…もう1ヵ月だろ?そのにやけた顔はどうにかならないのか?」

彼女…という言葉にちょっとしたひっかかりを覚えるけれど、
俺は知られても良いけど、佐々木さんが男とどうこうなったという事を嫌がるかもしれない…と思うと、聞き流す。
先輩である中村には、あの日、会社に行って早々にバレてしまった。
首筋にあった情事の跡を見つかってしまったからだ。

「なりません。へへ」

「あ、そう…にしてもそんなにゾッコンって事は、どんな子?可愛いのか?」

「ゾッコンって…言い方が古いなぁ。
そりゃあ、もう!可愛いし、綺麗だし、年上で、経験豊富で、エッチだし…
だけど、恥じらいとかもあって〜、大好きなんですよ〜」

「エッチって…そりゃ、嬉しいけど。…年上なのか、何歳?」

「あれ?何歳だろ?」

「何してる人?」

「飲食ですよ。あ!これ以上はお答えできません。中村さんも惚れたら困るから…」

「ああ?そんなことある訳ねぇだろ?」

「わからないじゃないですかっ!すっごい綺麗なんですよ。会ったらきっと惚れちゃいますよ」

言いながら、胸の中にツクリと刺さるものと、足元がぐらりと揺れる感覚があった。
実際中村は会っているのだから、そんな心配はない。
刺さったものは違うこと。もっと根底のような気がした。
目線を手元の資料に向けながら、恋人である佐々木さんの事を思う。
揺らいだ原因を探る。
朝晩のメールと、火曜の夜と週末に会っている。
時々外で飯を食うこともあるけれど、それでも食った後はもつれ込むように佐々木さんの部屋に行く。
どこに住んでいて、どこで働いているかは知っている。
どこに触れると感じるだとか、どういうところが弱いだとか、好きな食べ物や飲み物も知っている。
会うたびに、体を求め、求められる。
その付き合いに何の疑問も持たなかったけれど、中村のような深い付き合いではないような気がした。
一緒に暮らすことを夢見ることはあっても、暮らすという生活の面において、何も知らないことに気づく。
大好きだと言いながらも年齢すら知らない。
付き合いだして1ヵ月も経つのに…
佐々木さんが何歳で、どんな家庭環境で、どんな学生時代を送り、どうして今の仕事をしているのか…


見ている資料の字面は撫でるだけで、滑っていく。
その様が、自分の置かれている立場のような気がした。

求められることに喜んでいたけれど…
体を求められるから自分の事が好きだと思っていたけれど…
相手は同じ男。
気持ちがなくても気持ちがいいって言うだけで、体を繋げることは簡単に出来る。


そこで漸く、言葉で何かを伝えて貰っていないことに気づいてしまった…
単純な一言。

自分のことを「好きだ」。

その一言を言ってもらっていなかった…
それが、自分の足元を揺るがし、ぐらりと傾いたような気がした。




木曜日の夜だから、明日まで待てば良かった。
そう思ったのは、佐々木さんのマンションの前まで来てからだった。
ここのところ、週末の金土と佐々木さんのマンションに入り浸っている。
約束をしていたのだから、明日の夜に来れば喜んで迎え入れてもらえたはずのドアは、
インターホンを押しても、部屋の中から虚しい音を響かせるだけだった。
メールをしてみようか?電話をしてみようか?と上着のポケットの中に手を入れて携帯を掴んでみるも、
それをすることに躊躇する自分がいる。
自分と会っていないときの佐々木さんの行動がわからない。
エレベータが開く音がして、佐々木さんかも…と勢いよくを向けた目に入って来たのは、
同じ階に住んでいるらしい女性だった。
廊下の壁に凭れて、ポケットに手を入れている自分のことを不振な目で見て通る。
その目に、居心地の悪さを感じ、逃げるようにエレベータへと乗り込んだ。
だけど…このまま帰ることに不安を覚える。
自分の部屋に戻ったところで、暗く沈んだ気持ちはきっと浮上しない。
会って、顔を見て、俺のこと好きですよね?って聞いて、好きですよ…と言ってもらえるまでは、
安心なんて出来ないような気がした。
エレベータを降り、通りに出る。
暗い夜道に街灯と競うように灯りを放つ自動販売機に近寄り、缶コーヒーを一つ買う。
マンションの横にある公園のベンチに腰を下ろし、プルタブを引いた。
口をつけ、一口流し込む。
思いのほか冷えすぎたコーヒーが喉を通って、すきっ腹に染みる。
頬を湿気の孕んだ風がなでた。


やっぱりメールをしてみよう。
そう思い、ポケットから取り出した携帯を開く。
月明かりと薄暗い電灯の明かりだけだった周囲が一瞬、眩しく光った。
何て打とう…
そう思った耳に、聞きなれた声が入る。
パッと上げた目に、通りを歩く二つの影が入って来た。

聞きなれた声は佐々木さんのもの。
もう1つの影は、大きくて、何となく自分と似ているようなシルエットだった。

佐々木さん…?

携帯を閉じて、その影を追おうと立ち上がった瞬間。
マンションの入り口付近まで来ていた二人の影が、入り口の明かりで鮮明になる。
酔っているのか、入り口の段差に躓いた佐々木さんの体を大きな男が支える。

「何やってんだよ」

呆れたような男の声が聞こえ、それに佐々木さんが甘えるような仕草で両腕を男の首に回す。
佐々木さんが男の耳元に何かを告げる。
はははと笑い、佐々木さんの腰をしっかりと抱く逞しい腕が見え、
それがひどく慣れた仕草であるのを物語って、マンションの入り口へと消えていく。


そんなことはない…


そう思ったのに、目に焼きついた光景は取り払われることはなかった。
最高の朝だ…
先日、何度も振り返って、何度も手を振ってくれた廊下に再び現れた二つの影。
それが重なって、さっき自分がインターホンを押した部屋のドアに吸い込まれるようにして消えて行った。

明日になれば約束をしている。だから、きっと大丈夫。

そう思うのに、天国からいきなり地獄に突き落とされたような気がして、目の前が真っ暗になる。
真っ暗になれば、それだけ鮮明にさっきの光景が浮かんでくる…


最低の夜だ…
やっぱり来なければ良かった…


遠くで車が走る音が聞こえる。
その音を聞いているのに、月の灯りも街灯の明かりも見えているのに、心の中に出来てしまった闇が、
目の前を真っ暗にして、たった一人でいるような疎外感を味わわせていた…







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