天使か悪魔か…1 約束をしてから、地に足が着かず、ふわふわとした感覚で、どこか落ち着きがない。 小さなミスも何度かした。 そんな中迎えた今日、待ち合わせの19時が近づくにつれ、ドキドキと動きだす心臓の動きとは逆に、 ちっとも進まない時計の針ばかりを目で追っては、焦燥を吐き出す溜息ばかりを繰り返した。 何かあっては遅れてしまう…という気持ちから、最後のアポを16時にして、予定通りに会社に戻ると、 ほとんどの営業は戻っておらず、定時の17時半になったと同時に、どこか後ろめたい気持ちと鞄を一緒に抱え込み、飛び出すように会社を出た。 一度部屋に戻り、軽くシャワーを浴び、約束をした月曜日から寝る間を惜しんで決めた服に着替え、車のキーを握り締めて、部屋を出る。 昼間とは違う風に肌を撫ぜられ、車に乗り込んだ。 帰りのラッシュに巻き込まれることは想定内だった。 だけど、のろのろと動かない車の列に苛立ち、信号待ちで先頭に止まっている動きの鈍い車に心の中で何度も遅れたら訴えてやる!と思った。 その甲斐もあってか、約束の時間の15分も前についた。いや、早く着きすぎてしまった。 思い人の佐々木さんの姿はまだなく、人が溢れているから見過ごしていないだろうか?と目を凝らしたけれど、 15分前に来ている訳もなく、車をロータリーの隅に止め、車内で待つことにした。 車で来たのは、郊外に新しく出来た複合型の映画館に行きたいと佐々木さんが言ったからだ。 いくら貰ったチケットだとは言っても、タダで見るのだ。それでは気が引けるので、車を出すと言うと、最初は断って来たけれど、無理矢理に押した。 それは…帰りに送っていけば、家の場所がわかるだろうと思ったからだ。 ひょっとしたら、送ったお礼にお茶でも…と言われるかもしれない… そんな事を言われたら…と思うと、ニヤニヤとして情けないくらいに顔が緩んでしまう。 緩んだままの顔で車に設置されている時計を見ると約束の5分前。 おっと!と気を、いや顔を引き締めなおし、車外に出て、駅の出入り口付近へと向かう。 たくさんの人が出て、入って行く中に、待ち焦がれた思い人の存在を認めた途端、嬉しくて駆け出した。 徐々に縮まる距離に、はっきりと見える彼がいつもの制服とは違う服装にドキリした。 春らしい装いはいつものストイックに感じるものではなくて、柔らかいイメージになっていた。 俺に気づいた佐々木さんの表情が、ふわりと優しくて綺麗な笑顔になる。 …ダメだ。今日の俺は、もうダメかもしれない。 意味もなく、何がダメなのかもわからない。 だけど、はっきりと思う。この人が好きだ、と。 「佐々木さん!」 弾んだような声になったけれど、気にならなかった。目の前に彼が来るとクラリと眩暈がしそうなほどだった。 はあはあと肩が上下するくらい息が切れる。 大した距離ではなかったから、運動量が凄いとかじゃない。 心臓が、胸が、嬉しすぎて苦しいからだ。 「池田さん。お待たせしてしまって…」 「いえ、僕もさっき来ましたから。車、そこに止めてるんで」 「ありがとうございます。車を出して頂いて。申し訳ない」 「そんな事ないですよ。気にしないで下さい。タダで映画が見れるんですから…あっちです」 車に乗り込んで、目的の映画館に向かう。 映画はレイトショーでその前に夕飯を食べてからとしていた。 複合施設のそこには、服やアクセサリー、雑貨のショップと一緒に結構有名なイタリアンの店も入っているらしい。 社会人になって大学の頃に付き合っていた彼女とは早々に別れて以来、恋人は出来なかった。 思った以上に仕事が忙しかったからだ。 おまけに先輩の中村さんが年明けから急に仕事に燃え出したのも相まって、そういった所謂デートコースというものに縁遠くなっていた。 2年ぶり、いや3年ぶりのデート。それが佐々木さんと出来るなんて… まぁ、佐々木さんからすれば、デートだなんて思っていないだろうけど。 そのイタリアンの店にも佐々木さんは行ってみたかったらしく、電話をしたときにそう言われれば、叶えてあげたいと思うのが自然な流れでそこに決まった。 緊張してうまく話せないかもしれないと思っていたけれど、意外に共通の趣味も多く、今回誘ってくれた映画も本や雑誌で見たと時に見たいと思っていたものだった。 お互いに下調べした内容や店の事を話しているとあっという間に着いてしまった。 渋滞に巻き込まれたときはあんなに苛立ったのに、佐々木さんが隣にいるというだけで、同じような渋滞に巻き込まれても先頭の車をうらんだりはしなかった。 先に映画の席の予約をして、目当ての店に入る。 少し落とされた照明が落ち着いた雰囲気を出していた。 21時過ぎからの上映に間に合うように食べなければならないから、あと1時間ほどしかない。 急いでとまでは言わないけれど、そう流暢に構えて良い時間でもなかったから、一品ずつ注文した。 すぐに注文されたものがテーブルに並べられる。 俺の目の前に魚介類のクリームパスタが来ると、佐々木さんは堪えていたのを堪えきれなくなったといわんばかりに笑い出した。 どうしてそんなに笑っているのかと目で訴えると、 「ごめんなさい。池田さん、うちの店でもクリーム系を注文されることが多いから…」 言われて初めて自分がクリーム系が好きだったのか、と気がついた。 そういえばそうかもしれない。 だけど、自分のことを覚えてくれているのが嬉しかった。 「へぇ〜、客の好みまで覚えているものなんですか?」 そう問うと、 「まぁ、常連のお客様はほとんど覚えていますけど…池田さんのクリーム系率は結構高いですからね」 今度こそ言われた言葉に頬が赤くなったような気がした。 まるで子供みたいじゃないか…クリーム系が好きだなんて… 「あ!うちのクリーム系はおいしいでしょう?女性が多い店なので、どうしても女性受けの良いものばかりに力が入るんですよ。 ほら、ぺペロンチーノやトマト系は以外ににんにくが利いてるから、どうしても匂いは気になりますからね。 だから、池田さんも営業と言うお仕事柄そういうのを好まれるのかと…」 あぁそうか。そういう見方もあるのか… まったく考えてなかったけれど、それに便乗させてもらって、 「そうなんですよ」 と返しておいた。 自分でも気づいていなかったけれど、本当はクリーム系が好みらしいけれど… ホッとしてクルクルとフォークの先にパスタを巻きつける。 「あの、おいしいですか?」 「あ、はい」 「うちのと、どう違います?」 「どうって…う〜ん、食べてみますか?そのほうがわかりやすいでしょ?」 「宜しいですか?」 そう言われて、皿を差し出せば、 「あ、その巻きつけているので良いです」 と、手の中にあるフォークを指差す。 え?と思っていると、佐々木さんが腰を少し浮かせた。 掴んだ右手ごと佐々木さんの少し冷たい手に手を取られて、俺の目の前で巻き付けられたフォークがパクリと口の中に消えていく。 そのときにチラッと見えた舌の先に心臓が有り得ないくらい早鐘を打つ。 じくりと腰の辺りも疼いた気がした。 呆然としていると、手が引かれて、フォークだけが視線に入り込む。 スープの一つも残っていないフォークが… さっきまでただのフォークでしかなかったフォークが… この瞬間に特別なフォークになってしまった… 「うん。おいしいですね。うちのより…少しチーズが濃い…塩味も…」 一生懸命味の分析をしている佐々木さんの声は聞こえているけれど、うまく聞き取れない。 特別な意味を持ったフォークと、一瞬見えた真っ赤な舌先… やっぱり、今日は、色んな意味でもう俺はダメだと、再認識した。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |