窓際の席 先輩の中村と少し早い時間ではあるが、会社の近くの店にランチに来た池田は午後からの訪問先の件で相談をしていた。 池田の担当はそのほとんどが元々中村の担当だったところで、入社して3年目が訪れようとしているのだが、 時折厄介な注文を投げかけてくる取引先が何件かあり、今日の午後から行く予定になっているそこも、その一つだった。 「俺としては、先方の言い分もわからなくもないんですけど…それにしたって、酷くないですか?」 と、見せたのは先日届いたFAXで、春の進学・新入のシーズンのセールに合わせた発注は、 とても期限に間に合うような内容ではなかった。 これからメーカーに発注をして、在庫があれば間に合うのだが、中には品薄なものもある。 その品薄なものを、現在取引しているところから下げて来てでも、自分の店に入れるのがそちらの仕事だろう! と、FAXの返信をした後で、先方がかけてきた電話の内容がそれであった。 わからなくもない… だが、他の取引先だって、この時期に売れるからという理由で入れてくれているのだ。 それを下げてまでそちらに入れて良いものなのか…下げてくる取引先にも何て言って下げてくれば良いのか… ほとほと困り果てていた池田を見かねた中村がランチに誘ってくれたのであった。 「ま〜な〜。あの社長、いっつも無理ばっか言うからな」 春の日差しの入る窓際の席に着いて、そうじゃなくても色素の薄い中村の髪がキラキラと茶色く光る。 その下の色の白い顔が、社長の顔を思い出したのか苦い笑いを作っていた。 「で?どの商品が足りないんだ?」 と言われ、子供が叱られてすねたときのような態度で、FAXの用紙を指差す。 「これか?この間、沢田物産に大量に入れなかったか?後で聞いてみろ。あそこなら分けてくれるよ」 以前同じような無理を言われた経験からか、中村がすんなりと解決策を出してくれる。 少し安心して、 「じゃあ、後で、電話入れて聞いてみますよ」 と言ったとほぼ同時に、急に空腹感に襲われる。 少しでも心配事が無くなれば、げんきんなもので、腹の虫が騒ぎ出したのだろう。 先ほど注文しておいたパスタが早く来ないかとそわそわしてしまう。 会社に程誓いこの店は、どちらかと言えば女性客の方が多い。 だけど、ランチの時間は限られ、落ち着いた雰囲気で話が出来そうな店と言えばこの店くらいしかなかった。 年齢的には青年と呼ばれる歳になったものの、胃袋の方はまだまだ少年の域。 その胃袋を満たしてくれる量と、良心的な金額であると教えてもらったのは、店に入る5分ほど前だった。 運ばれてきた大盛りの菜の花とツナのクリームパスタに食らい付き、平らげ腹の虫も漸く収まった頃、食後のコーヒーが運ばれて来た。 プレートに乗ったコーヒーばかりに目が行っていたが、 それを持つウェイターの顔が視界に入ったとき、 一瞬にして目が奪われた。 コトっと音がして、コーヒーの入ったカップが自分の前に置かれ、 「ごゆっくり、どうぞ」 と声を掛け、この場を去って行くまで、目が離せなかった。いや、まだ離せてなどいない。 黒のベストに黒のスラックス。白いシャツがこの店の制服だという事は、他のウェイターを見ればわかることだ。 だけど、ピンと伸びた背筋に、縁のない眼鏡をかけたその人は、男性なのにどこか色気を纏っていた。 その後、中村の提案通り沢田物産に連絡を入れれば、担当の高元さんが在庫を確認してくれ、問題となっていた商品も確保できた。 無理を言ってきた先方に電話でそのことを告げれば、 「それが当たり前だろう?」 と皮肉めいたことを言われたが、そんなことが気にならないくらい頭の中では、昼間見たウェイターの事が気になっていた。 おかしい…。 自分は女性が大好きで、沢田物産の高橋さんを筆頭にバイトのユキちゃん、総務課の木村さんの事が気になっていたのではなかったのか? 男性に対して初めて抱いたこの感情を、何と呼べば良いのか、池田にはわからなかった。 その感情の正体を突き止めるべく、池田はその日から2日と空けずその店を訪れる。 いくら良心的だとは言っても、入社3年目を迎えようとすうるお財布の事情は結構切羽詰っていた。 だけど、どうしても彼の姿が見たいのだ。 自分の抱く感情が何なのかと彼の姿を目に映すほどに、心臓がドクンと打ち、キュンと胸を締め付けられるような感覚が襲ってくる。 そして初めて会ってから10日も過ぎた頃、この感情が「恋」であることを知ったのだった。 その「恋」は高橋さんやユキちゃん、木村さんに抱いていた感情とは比べ物にならないほどに大きなものだという事も。 そうすると、今度は自分という人間を知って欲しくなる。 どうにか彼に自分を覚えてもらうべく、何か良い方法はないものだろうか?と真剣に考えていた。 仕事ですら、これほど真剣に考えたことはない。 良い方法も見つからないまま、今日もその店行くために、少し早めのランチタイムと会社を出た。 どこか陽気な空気を含んでいるのは優しい日差しのせいだろう。 会社の近くの中学校で卒業式があったようで、胸に白い花をつけ、楽しそうに、どこか寂しそうに笑い合い、はしゃぎ合うセーラー服と学生服の集団とすれ違う。 10年ほど前の事ではあるけれど、その光景に胸の中が甘酸っぱいもので満たされた。 そのままいつもの調子で店に入って、ごった返す人に一瞬戸惑った。 いつもはランチタイムでもどこか静かな雰囲気を纏う店の中は、中学校の卒業式のお陰か、たくさんの子供達や父兄達で埋まっていた。 近くにいたウェイトレスの女の子が、 「いらっしゃいませ。只今、このような状況でして…お待ち頂けますか?」 「…どうしようかなぁ」 「もし、お待ち頂けるのでしたら、こちらの方にお名前を…」 と言って差し出される用紙を見て、学生の時にした悪戯を思い出した。 「あ…待ちます!」 そう言い、「お名前欄」に漢字一文字を書く。 待つために用意された椅子に促され、背もたれ深く腰をかける。 既に2組が待っていた。 どちらも女性の二人連れで、男性一人で来たことを少しだけ恥ずかしく思い、顔を俯けた。 これがうまく行きさえすれば、きっと彼は自分を覚えてくれる。 そう確信する。 だけど…それは彼が空いた席が出来たときに案内をしてくれなければならないのだ。 チラッと見た限り5人。 彼がここへ呼びに来るのは5分の1の確率…。 神様、どうかお願いします!彼が来てくれますように…。 これからすることを棚にあげ、そんな都合の良いことを願う。 がやがやと騒ぐ子供達や、いつもより少し化粧の濃いであろう父兄達。 その一角がガタガタと席を立ち上がり、店を後にして行った。 その一角が片付けられると、 「お待たせ致しました、山田様。どうぞ、こちらになります」 メニューを片手に持つウェイトレスに促され、先に待っていた女性がそれに着いていく。 少しすると、 「お待たせ致しました。田中様。どうぞ、こちらへ」 別のウェイターが次の組を案内する。 次は自分だ。 と思っていると、中村と一緒に来たときに座った席の客が帰るような動作をし、伝票を持ってレジへと向かう。 その瞬間、池田はぎゅっと目を閉じ、膝の上で握りこぶしを作った。 どうか、どうか、彼が来てくれますように… そう強く思い、固く閉じた瞼を明ける。 その目に、彼がこちらに近づいてくるのが見えた。 やった! 近づいてきた彼が、先ほどの用紙を見て、眼鏡の奥の目を一瞬張った。 もう一度用紙を見て、間違いのないことを確認したのか、自分の方へと目を向け、にっこりと微笑んだ。 「お待たせ致しました。神様。こちらになります」 自分の前を歩く、ピンと伸びた背筋が、笑っているのか、少しだけ小さく上下しているのを確認する。 これで彼は自分を覚えてくれただろうか? そんなことを思いながら、春の日差しの差し込む窓際の席へと、案内された。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |