彼の世界を変えるひと 5





年齢の高い男性ばかりが数名、池田を取り囲むように集まっている。
皆、そろいの病衣を着ているから、ここの患者なのだろう。
その池田の真正面に位置する、既に彼の祖父くらいの年齢の男性が差し出しているのは、饅頭の箱。
そこに集まる皆の視線を一身に浴びているけれど、タクシーの中で思い描いていた光景とのあまりの違いに、
信じられなくて、言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
食べていた饅頭が喉に詰まりそうになったのか、どんどんと胸を叩く。
池田の周りに集まっていた男性の一人がお茶を差し出す。
頭だけでお礼をして、一口含んで饅頭を胃の中に無理矢理押し込んだ。

「んぐっ!はぁ〜…来てくれたんですか!?」


その声に、徐々に、ゆっくりと思考が動き出す。


……無事だった。

そう思った途端、掴んでいた引き戸が指から離れ、するすると勝手に閉じる。

「あ!あ!待って、佐々木さん!帰っちゃダメっ!」

怪我人とは思えない早さで、ベッドから飛び降り、駆け寄ってきた池田が、咄嗟に閉まろうとする引き戸を押さえた。

「何で?何で帰るの?もう少し待ってて下さい。俺もすぐに帰れると思うんで」

そう言って、手を引き、病室の中に招き入れられる。
引かれる腕には白い包帯がしてあり、良く見れば、頭にもガーゼとネット。
足も少し引きずっているように思う。

「ここ、座って」

差し出されたパイプ椅子を見つめていると、肩を押されて無理矢理に座らされる。
池田はベッドに腰掛けるようにして少し高い位置に向かい合って座った。
その途端、他のベッドからはシャッとカーテンを引く音が続けざまに聞こえる。
気を使ってくれたのかもしれない。
そんな自分を小首を傾げ、不思議そうに見る目は、いつもの通り、切れ長ではあるけれど、黒目がちの目。
その目は、タクシーの中で思い浮かべた通り、まっすぐに自分に向いている。
確かめるように、そろそろと差し出した右手で、彼の頬に触れ、肩を掴み、手を取り、ギュッと握ってみる。

「……生きてる」

「そうりゃあ、そうですよ。自転車同士がぶつかったのに、巻き込まれただけですから」

「自転車……」

「あれ?中村さん、そう言ってくれませんでした?」

「言ってない……いや、聞いてないのかも…」

「え?」

「だって……だって……事故に巻き込まれたって言われて、それでっ」

言葉が詰まる。どうして詰まるのかわからない。頬に温かいものが触れて、顎まで伝った。

「えっ!待って!佐々木さん、泣かないでっ!あっ…あぁ〜どうして」

言葉にならないような声を出しながら、何か拭くものはないのかと焦って探す池田の姿に、心底ホッとした。
カーテンの隙間からヌッと出てきた箱ティッシュをすみませんと受け取り、
乱暴に拭われて初めて、眼鏡もつけずにやって来たのだと知った。

「ごめんなさい。心配させちゃいましたね」

そう言いながらも、よしよしと子供をなだめるように、大きな手が頭を撫でる。
撫でていた手が、そのまま頭を抱きこんだ。

「ごめんなさい」

何度も何度も謝る声と、うっすらと香る消毒薬の匂いに抱き込まれて初めて聞こえたトクントクンと言う心臓の音に、
安堵し、涙が止まらなくなった。
そこに、

「池田さん!検査の結果が出ましたよ〜」

看護師の声がし、そっと体が離される。
隣のベッドのカーテンの陰から出てきた看護師は、いかにもベテランといった感じの、中年の女性だった。

「特に異常はありませんでした。ただ、頭を打っているので、
今日、明日くらいは激しい運動はせず、おうちで安静にしていてください」

「じゃあ、今日は帰っても良いんですか?」

「ええ、結構ですよ」

「良かったぁ。佐々木さん、家に帰れるって」

そう言われても、何だかぼうっとしていた。

「あっ、あなた…廊下は、走らないで下さいね」

言われて、自分がここまで走ってきたことを暴露される。
「はい」とは返事をしたものの、恥ずかしくて顔が真っ赤になって、しばらく上げることが出来なかった。




着替えを済ませ、受付を済ませ、どちらが病人なのかわからないくらい憔悴しきった自分を池田に支えてもらいながらタクシーに乗って、池田の家に行く。
着いたところは、郊外にあるからか、自分のマンションよりも少し広い作りのマンション。

「佐々木さんとこほど綺麗じゃないけど…、上がって」

ドアを開け、先に通される。
至って普通の1DKの部屋。

靴を脱ごうとして、サンダルだったことにびっくりした。
そのまま、サンダルを見ていると、

「慌てて来てくれたんですね…今日、休みだって知ってたから、
中村さんが来たついでに連絡してもらったんですよ」

そういいながら、奥の部屋へと通される。
ダイニングにあるソファに座らされ、お茶の用意をしだす。

あっ、彼は怪我をしている。

そう思い、慌ててキッチンに向かう。

「池田さん、座っててください。私がしますから。怪我をしてるんですから、安静にって」

「大丈夫ですよ。それに、佐々木さんが初めて家に来てくれたんですよ。
嬉しくって、じっとなんかしてられませんよ」

「じゃあ、……二人で」

ただコーヒーを淹れるだけなのに、その間も離れたくなくて…
出来上がったコーヒーを手に、二人で一緒にダイニングへ戻る。

「はい」

目の前に置かれたコーヒーは、いつも自分が淹れているものよりも、ずっと薄くて、香りもほとんどない。
それなのに、彼が淹れてくれたと思うと、それだけで、おいしく感じた。

テーブルにカップを置き、その手で池田さんの手を取った。
右腕には包帯。左腕の肘にはガーゼ。そこにそっと触れる。

「痛いですか?」

「まぁ、多少は。右手は5針縫ったらしいです。
頭打っちゃったから、脳震盪起こしたらしくて、気を失って……。それで、今日は検査をしてて……」

「事故は、……今朝ですか?」

「いえ……昨日の夕方です」

「昨日……」

昨日の自分を思い出して、腹が立つ。
あのまま、連絡していれば、ひょっとしたら、事故に巻き込まれなかったもしれない…

「昨日、佐々木さん駅前にいませんでしたか?」

「え?いま、したけど…」

「やっぱり。そうかなぁと思って、追っかけてて、それで、自転車が来てるのわからなくて……」

原因は自分にあった。
あんなところをふらふらとしていたから…と罪悪感が沸いてくる。

「ごめんなさい」

「あっ!佐々木さんは悪くないです。俺が、阪口さんと変なことをしなければ……」

「阪口?…変なこと……」

「あっ……怒らないで下さいね」

急に出てきた阪口の名前と変なこと……

「事と次第によってはわかりません」

「えっ……あっ…あぁ…はぁ〜、あの日、阪口さんが言ったんですよ。
「知己がいつになく入れ込んでるから、少し連絡せずに様子を見てみろ」って
その、面白いものが見れるぞって……それで、最初は嫌だって反対したんですけど、
俺も、佐々木さんから連絡とかあると嬉しいかなぁと思っ……て」

「……それで?」

「あっ……あ、それで、その、連絡をしませんでした……
あ!でも、昨日、見かけてどうしようもなく、その、会いたくなって、追いかけて…」

「えぇ、それで」

「だから、そのっ……俺が、阪口さんの提案を受けなければ、
事故には巻き込まれなかったっていうか……自業自得っていうか……」

「……それは、自業自得ですね」

「……はい」

でも、何故阪口はそんなことを?

「阪口が何故そんなことを言い出したかわかりますか?」

「それは……手帳です。あの日、テーブルの上に置いていたのを阪口さんに見られてしまって……」

「手帳?」

言いたくないなら、言わなければ良いのに、池田さんは律儀に手帳を取りだし、
テストで悪い点数を取った子供のように差し出した。

パラパラと捲って行くと、春ぐらいから、赤丸がしてある箇所が出現し、徐々に増えてくる。
それが、火曜日と週末に限定されて、その欄に赤丸が二つとか三つとか…

「これって……」

「はい、……セックスの回数です」

「なっ!!!」

「わぁ〜怒らないで下さい!
これは俺と佐々木さんのメモリアル的なもので…、帰って思い返してるだけですから!」

「何でそんなものを記入してるんですかっ!!!いちいち思い返さなくたってっ」

「だって、佐々木さんとのことは何一つ忘れたくないんです!
ずっと一生、覚えておきたい、残しておきたいんですよ…」

ずっと、一生……

「だって……佐々木さん、そのうちふら〜っといなくなったり、誰かのところに行ってしまいそうで……
そうなっても、これがあれば、思い出だけで俺は生きていけるかなって……重いですよね…こういうの」

本当の本当に彼は自分のことが好きなのだろうと伝わる言葉を、いくつもいくつもくれる。
その言葉に、少しずつ感化されて、侵食されて、
いなければまともに生活できなくなりつつある自分を受け入れることが怖かった。
いつものスマートな振る舞いをする自分。
誰かを好きになったことがない自分。
振り回されることなく、振り回す自分。
そんな自分が……今は思い出せないくらい……
それくらい……

「池田さん」

「……はい」

「私は……人を好きになったことが、ありませんでした」

「……はい」

「だから、わからないんです」

「何がですか?」

「池田さんから、連絡がなかっただけで、夜もまともに眠れなくて……
仕事でもミスをして、泣いたり喚いたり、情緒不安定で……
事故に巻き込まれたって聞いただけで、怖くて、震えて、
ただただ無事でいて欲しいってタクシーの中で願って、願って……
眼鏡も忘れて、おまけにサンダルで……、
病院の中を注意されても走って………

これが、……人を好きになるってことですか?」



沈黙が怖かった。
たった一瞬だけだったかもしれない。
だけど、それはすごく長く感じて……


ふわりと漂ってきたうっすらと香る消毒薬の匂いに包まれたかと思うと、ぎゅっと力を入れて抱きつかれる。

「はい……佐々木さん、俺のこと好きですか」


「これが好きだと言う感情なら……きっと……ものすごく、大好きなんだと、思います」

言うなり、自分を閉じ込めるように回された腕が、一層強く締め付けてきた。
でも、それは、痛くなくて、心地よい締め付けで…


「……やっと言って貰えた」

小さな声だったけれど、それでも聞こえて来た声は、嬉しそうで、泣いているような声だった。






「ねぇ、佐々木さん」

「はい」

「セックスは、激しい運動になりますか?」

「……今日は……多分、そうなるんじゃないですか?」

「えぇ!それは……」

「良いじゃないですか?
これから、いくらでも出来るんだから……、今日くらいしなくたって」

「そう、ですね」

そう言って笑った顔に、胸の辺りがほんのりと温かくなる。
今ならわかる

これが、人を好きになるって事だって。

その夜は、二人で池田さんの小さなベッドで、手を繋いで、久しぶりに、
そして初めて体を合わせることなく、ゆっくりと眠りに着いた。




お題をお借りしています
『悪魔とワルツを』





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