彼の世界を変えるひと 4





背中を撫でる大きな掌と、額に感じる硬い胸板に後押しされるように、流れ続けた涙が、
阪口のシャツの肩のあたりに大きな染みを作るころ、後ろでドアの開くギイという音と、数人の話し声が聞こえ、瞬間腕を伸ばして遠ざけた。
居心地が良いと感じる気持ちを名残惜しむようにその場に佇む阪口の腕を意識的に無視して、眼鏡の位置を直す。
その視界の端に、バーテンが奥からそろりと姿を現し、入ってきた客の足音と話し声に時間が急に動き出す。
つられるようにして羞恥も沸き上がってきたから、悟られないように下を向いた。

「…出よう」

阪口の言葉に、一つコクンと頷いた。
正直、泣いて腫れてしまった瞼も、赤い鼻の先も誰にも見られたくなかったから、助かったと思った。
肩を抱かれるようにして、まだ日が落ちきらない雑多な街へと足を踏み出す。
喧騒を聞きながら、阪口と一言二言落とすように話をしながら駅前まで行き、足を止めた。
今までの付き合いからすれば、このままどこかに連れ込まれて抱かれるのだろうと思っていた。
大変不本意であるその行動からすれば、有り難いことこの上ないけれど、この男が何の見返りもなく親切なことをするようには思えなかった。
足を止めたことを不思議に思い、見上げると、

「……なんだ?抱かれたいのか?」

「……いえ」

「ふっ…はっきり言うなぁ。まぁ、珍しいもん見れたからな……」

そう言っていつも通りの嫌味な笑みを浮かべる。
その顔を見て、思い出した。

「池田さんになんて言ったんですか?」

「それは坊主に聞け」

「は?」

「坊主に聞け」

「だから、それは……」

またしても沈みかけたその思考にかぶせるように更に言葉が降って来る。

「いいか、知りたいんなら、自分で聞きに行け」

「自分で」のところを強調され、自分で?と反芻する。
自分で?私から?池田さんに?

考えている間に、更に阪口が言葉を繋ぐ。

「あ、礼は、坊主の前に手なずけてた奴いたろ?あいつの連絡先寄こせ、ほら」

さっきまで自分の背中を優しくなでていた掌が差し出される。

「携帯」

言われて、渋々と取り出した携帯で、池田さんと出会うまで可愛がっていた男の名前と連絡先を呼び出した。
その連絡先を自分の携帯に登録する阪口を見ながら、思い出そうとした。
可愛いだけの節操のない男だった……ように思う。

「こいつ、結構、可愛かったろ?」

「ええ、まぁ」

うろ覚えの顔は、はっきりとは浮かんでこなかった。

「可哀相なもんだよな。お前が相手にしてくれないってこの間会った時に言ってたんだ。
連絡先、聞きそびれたから…と。ほれ、ついでに消しといてやった。
有り難く思えよ。それから、坊主に宜しくな、じゃあな」

言葉と一緒に携帯を私の掌に返すなり、阪口が踵を返す。
ひらひらと手を振りながら、その背中が駅へと消えていく。

意味がわからなくて、少しの間ボーっとその場に立ち尽くした。

自分から…池田さんに、連絡をする?

何で私が!

この期に及んでもなお、自分から連絡をすることにどうしても納得が出来なかった。

だから駅へと足を向けた。
腫れた瞼を隠すように、重い気持ちを引きずるように……
下を向いていたから、改札に入って行く前、
息を切らしながら追いかけようとしていた人影に、気づくことはなかった。





相変わらず鳴らない携帯と、重い気持ちを引きずったまま迎えたのは、休みである水曜日。
朝から重い気持ちのままだったから、店に出なくて良かったと思ったものの、昼前にはその考えも虚しく消えうせた。
こんなことなら、店に出て、仕事をしていたほうがよっぽどマシだった。
考えないようにしていても、池田さんの事を考える。
仕事をしていたのなら、こんなことを考える暇はなかっただろう……と思って、その考えもすぐに消した。
昨日の自分は結局使い物にならなくて、厄介払いをされたではないか、と。


徐々に脳を侵食するかのように支配し始める言葉を呪文のように繰り返す。

自分から…

連絡する。

意を決して、ええい!と握り締めた携帯のアドレスから池田さんの番号を呼び出し、通話ボタンを押そうとして、指を止めた。
いつもあったメールがないのに、自分から連絡して、出てくれるものなのだろうか?
もし出なかったら……

そう思うと、怖くて携帯に連絡することも出来なくなった。

どうしよう……

どうしよう……

どうしよう……

落ち着かない気持ちを表すように、部屋の中を携帯片手にうろうろと歩きまわる。
逃げ出したい衝動に駆られて、部屋を飛び出そうとしたとき、掌にあった携帯が激しく震えだした。

「ひゃっ!」

びっくりして、思わず携帯を取り落としそうになり、慌てて開いた画面に見えた名前に心臓がドクリと跳ねる。

鳴り続ける携帯の通話ボタンを震える指で押し、耳に当てた。

『もしもし?』

聞こえてきた声に違和感を感じた。

『もしもし?佐々木さんですか?』

「は、はい」

『俺、池田と一緒の会社に勤める中村と申します。あの…池田が事故に巻き込まれまして…』

「事故!?」

『はい、あ!それでぇ』

相手が何か言おうとしていたけれど、被せるように言葉を発した。

「あ、び、病院!ま、ま、待って下さい、今、メモを…メモを用意しますから、」

そうじゃなくても震えていたのに、事故と聞いて更に大きな震えが体中を走り抜ける。
左手で携帯を耳に当てたままで、中村という男が何かを言っているけれど、まったく聞いていなかった。
ガタガタとサイドテーブルを引っ掻き回し、
メモとペンを取り出し、告げられた病院名と病室を記す。それだけ聞くと、相手が何を言っているのか理解しないままに電話を切った。
とにかく急がないと!
その気持ちだけで、ミミズが這ったような文字で書かれたメモをメモ帳から破り取り、握り締め、財布だけを掴んで外に飛び出す。

丁度通りかかったタクシーを半ば強引に引きとめ、後部座席に体を滑り込ませた。

乗り込んで、運転手にメモを見ながら震える声で行き先を告げた。
自分の状態を見て、怪訝に思いながらも、急いでいると感じ取ってくれた運転手が、
スピードを上げ、裏道を駆使して急いでくれる。
激しく揺れる車内で、

無事でいて……

強く思いながら、指を組んで祈ることしか出来なかった。


後悔という文字が何度も何度も浮かぶ。

連絡すれば良かった。
変なプライドなんてとっとと捨ててしまえば良かった。


もし……、もしこのまま池田さんがいなくなってしまったら……

最悪な考えばかりが浮かんで、その度に、後悔し、
悔やんでも悔やんでも悔やみきれない悔しさに組んでいる指をギュッと握る。
そして、自分に見せた色々な顔が浮かんでくる。
隣で笑う大型犬。少し頭が足りないところはあるけれど、それも愛嬌で片付けられた。
まっすぐに佐々木さんと呼ぶ声も、その笑顔も正しく自分に向けられていたのに……

「お客さん、着きましたよ!」

運転手に肩を揺さぶられて、気がついたときには、大きな病院の入り口だった。
ずっと硬く指を組んでいたからか、うまく指先が動かない。
それでも何とか震える指で、支払いを済ませた。
釣りはいらないという自分の顔があまりにも蒼白だったのか、

「きっと大丈夫。気を確かに!」

全然関係のない運転手に、そう声を掛けられ、うんと頷きはしたものの、
もつれる足でメモと、案内表示を見ながら病室までを急いだ。

途中、病院関係者に何度も走らないで下さいと告げられたけれど、すべてを無視して、病室の前に行きつく。
気を落ち着けるために、清潔そうな白い引き戸の前で大きく深呼吸をした。
ドクンドクンと激しく鳴る心臓は、走ったからだけではないような気がした。
喉もカラッカラに渇いて、押し出し、吸い込まれる空気でさえ、通りが酷く悪かった。
意を決して、ノックもすることなく引き戸を引いた。

ギュッと閉じたままの目をゆっくり開け、じわじわと見える目の前に広がる光景に、

……唖然として立ち尽くした




お題をお借りしています
『悪魔とワルツを』





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