彼の世界を変えるひと 3





昨日とは、打って変わったように晴れた空。
見上げる目に飛び込んできた夏の日差しは、ただただ眩しくて暑かった。
マンションを出て、駅まで歩く。
通い慣れた道が暑さで歪んで見えた。
うだるような湿気の重さを感じ、額に張り付いた湿った感触の前髪をかきあげる。
眼鏡の隙間を抜ける風が、腫れた瞼を優しく撫で付けるけれど、
どこか不快な感じがするのは、湿気のせいだけじゃないような気がした。
止まることのない感情の渦を、それでもやり過ごす術を持ち合わせていない自分に腹が立つ。
夜の間中、鳴らなかった携帯を開いては閉じを繰り返す行為に、携帯ごと捨ててしまえば、
すべてから解放されると思うのは浅はかな感情だと知っている。
だから、それを行動に移すことはしなかったけれど……
そして、待ちに待った朝のメールも、…来なかった。

まだ薄暗い店内に足を踏み入れると、既に厨房に来ていたスタッフからおはようの声が飛ぶ。
いつもの店の風景。おざなりに挨拶を返しながら奥の更衣室に向かった。
纏わり着く服を脱ぎ、制服に腕を通す。
エプロンの紐をぎゅっと腰の前で結んでも、いつものようには引き締まらず、
だらけてうな垂れる気持ちを引きずっているような気がした。



あっと思った時には手のひらの中から滑り落ちたグラスが重力に逆らうことなく落ちていく途中だった。
一瞬遅れて響いたガラスが砕け散るガシャンと言う音が店内に響き、
続いてフロアにいたスタッフ全員が「失礼しました」と客にわびる声が聞こえた。

何を、して…

昨日から、浮ついた感情が仕事に支障をきたす。
厨房の奥へ行き、ほうきとちりとりと持って、カウンター前の割れたグラスの破片に近づき、しゃがみこんだ。
その作業も、実は今日は二回目だった。
大きな破片を拾い集めていると、指の先にちりっとした痛みが走る。
皮膚の避けた間から、ぷくりと血が滲むのが見えて、急いで指を銜える。
それと同時に口の中に広がる鉄の味。

これが現実であると言われているような気がした。

何でこんな事に……なっている?
たかが連絡がなかったくらいで……

そういえば、前にも確かこんなことがあった。
あの時は……昼間にメールが来て、会えないと言われ、
それでも、会いたいとメールを返したら……


会いに来た!
そう思うと、黒い渦を巻いていた心の中に、ほんの少し光りが差すような気がした。




体調が悪いのでは?と勘違いをしてもらい、早々に店を後にする。
決して体調が悪いわけではなかったけれど、寝不足で赤くなった目や、
いつもは有り得ない些細なミスを繰り返されれば、
そのうちお客様に迷惑を掛けてしまうのでは…という店長なりの考えなのかもしれない…

ランチタイムが終り、急いで見た携帯には、結局池田さんからのメールの着信を知らせることはなかった。
日の高いうちに、素直に家に帰ることも気持ちが進まず、足は勝手に街の方へと導かれる。
人通りが多いなと思ってみた時計の針は、午後5時過ぎ。
帰宅する学生服に混じって、スーツを着たサラリーマンの姿も多い。
その姿を見ていて、池田さんを思い出す。
鳴らない携帯も思い出す。
家に帰っても夜と同じように鳴らなかったら…
そう思うと、やはり足はマンションには向こうとはしなかった。
そろそろ開いているだろうか…そう思い、向かった先はいつものバーだった。

古く重厚な感じのする黒いドアの前に立つとOPENの文字が書かれた札が下がっている。
予想通り開いていた薄暗い店内に足を踏み入れてすぐ、
カウンターに腰掛ける人物を見て、一気に血液が頭に上った。
ズカズカと踵を鳴らして近づき、目の前で体を止めた。

「よう!」

激昂しているであろう自分を認めてもなお、口の端を上げるいつもの嫌味な笑顔を崩さない。

「あなたのせいでっ!」

「坊主から連絡が来ないんだろ?」

「っ!」

自分で言うのと、言おうと思っていたことを言われるのとでは大きな違いがある。

「池田さんに何を言ったんですかっ!」

「連絡が来なくなるようなこと」

「どうしてっ!?」

「…まぁ、掛けろ」

そう言ってすすめてくる隣の席に腰掛ける気などまったくない。
それなのに、阪口は自分を無視して、バーテンダーにいつも私が飲んでいるカクテルの名を告げた。

「突っ立ってないで、早く座れ」

正直、座りたくない。だけど、池田さんが連絡をして来ない理由を知りたくない訳がない。
鼻からふんっと大きく息を吐き出し、渋々と行った感じをありありと見せつけながら腰を掛ける。
途端、するりと自分の前にグラスが現れる。
薄いグリーンの液体の名前は、ジンバック。

一口含むと、さっぱりとしたライムの味とはじける炭酸が舌を刺す感じに少しだけ気持ちが落ち着いた。
すぐに話してくると思いきや、阪口は手馴れた仕草で煙草を取り出す。
頭に血が上っている自分を少しでも落ち着けようとしての意図があるなら、まったく持って逆効果だった。
キッと音がしそうな勢いで睨み上げると、

「まぁ、そんなカッカしなさんな」

軽くあしらわれた感じが更に不快感を増していく。

「何を言ったんですか?!」

声が高くなったけれど、早い時間だからか、自分たち以外に客はいなかった。
バーテンダーの姿がそろりとカウンターから奥に消える。
阪口もそれを見ていたのか、消えた途端に口を開いた。

「いつものお前らしくないねぇ…」

そんな事は自分が一番良くわかっている。
いつもなら、連絡があるかないかなど、まったくもって気にもしない。
例え、1週間連絡がなくても、あぁ、そうだったの?と思って終わる。

それなのに、一人の人の事を思い続ける。
抱えたことのない感情や思考を、すっぱり捨てられたら……どんなに楽なのだろうと思う。

手の中にあるグラスを掴んで一気に飲み干した。
途端、炭酸が気管に入り、ゴホゴホと大きく咽る。
その背中を、大きく厚い掌が撫で擦る。

「大丈夫か?」

言いながら、徐々に意識を持った手の動きをされ、肩をグッと寄せられたことで、
一気に鳥肌が立ち、その手を払った。
一瞬の間、払い避けられた手を見つめた男は、急に笑い出した。

「はは、お前、相当きてんのな?」

「だ、誰がっ!」

「そんなんじゃ、苦しいだろ?遊んでやるよ、楽になれ」

「……結構です」

「そうか?俺には、遊んで欲しそうに見えるけどな。
……坊主以外は、願い下げか?」

言われた言葉は的を射ている。
だからこそ、余計に腹が立つ。
腹が立って、腹が立って、仕方がないから、体はその熱を放出しようとして、頬が熱くなっていく。



「なに、泣いてんだよ……」

グッと寄せられた肩と、言葉に、初めて自分が頬を濡らすほど泣いていたのだと知った。
さっきほどの嫌悪感は沸いては来なかった。

誰かを思って泣いたことは、小さな子供のとき、母親を求めて泣いたのが最後だったように思う。


「……池田さんは…」

「ん?」

「……連絡をしてくれるでしょうか?」

「さあな」

元凶であるはずの男の肩に顔を埋めながら、池田さんを思う。
どうしたら良いのだろうと、消化出来ない思いを飲み下すことも出来なくて、
ただただ流れる涙を、阪口のシャツに滲みこませた。




お題をお借りしています
『悪魔とワルツを』





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