彼の世界を変えるひと 2





その日は朝から、糸のような雨が降り続いていた。
雨が降ると客足に響く。
そんな中、やって来て下さるお客様が絶えないという事は、店に取って本当に有り難いこと。

いつものように池田さんを窓際の席に案内して、ホッと一息。
彼はあの席に座るべきお客様で、彼につられて入ってくるOLがいることも知っている。
その視線に気づくことなく、自分に向ける彼の熱い視線に優越感を覚える。

水を取りにカウンターまで戻り、キンキンに冷えたグラスをプレートに置き、
池田さんの席に戻る途中、店のドアが開く音がした。
ふと見た視線の先、既に閉まったドアの前で、濡れそぼって雫を落とす傘を傘立てに入れている人物を認めて、一瞬にして足が止まる。

「…ど、どうして…?」

「悪いか?この間の仕返しだ」

言って、にっと笑う顔は、悪戯を思いついた子供のような笑顔……
何度も肌を重ねたけれど、お互いのテリトリーに足を踏み入れることは今まで一度もなかった。
それなのに、何故?仕返し?この間の…?

「ここに来るのはルール違反でしょう?!」

カツカツと踵を鳴らしながら近くまで行き、声を潜めて阪口の行動を咎める。

「ルールなんて元々ないじゃないか。ゲームじゃあるまいし……」

言われた言葉に、それもそうだと思う。
だけど、納得の行かない自分の顔に浮かぶ眉間の皺を見て、阪口が言葉を繋いだ。

「じゃあ、お前が働いていると知らなかった。
腹が減ったから、たまたま入っただけだ。
……いらっしゃいませも言えないのか?この店は…」

どこまでも俺様な物言いに腹が立つ。

「いらっしゃいませ。生憎お席が空いておりません。申し訳ございませんが、他のお店に…」

そう言って店の外に出そうとするのに一歩も動かない。
席が空いていないというのは口の先から出たでまかせだ。
そんな事は見ればわかると言う風に阪口の口から言葉が出る。

「どこがいっぱいだ。ほら、あそこの席が空いてるじゃないか?」

言って指した先を見て、更に焦る。
窓際の一番奥…池田さんの前の席…

「申し訳ございませんが、相席をご希望されておりませんので…」

「あぁ?聞いてもいないくせに……あれ?あれって、ひょっとして、お前が入れあげてる若造じゃないか…」「あっ!」

すり抜けるようにして自分の横を勝手に進み始めた男の歩みを振り返って目で追う。
今ここでアーチェリーがあれば一矢で仕留めて息の根を止めてやりたいと本気で思った。
更に言えば、私は入れあげてなんかいない!池田さんが私に夢中なだけなんです!
咄嗟なことに最初の一歩を遅れてしまい、阪口が先に池田さんの前に立ったと思ったらおもむろに籐の椅子を引いてドカリと音がしそうな勢いで座った。

「…あの…」

「席がいっぱいらしいから、ここに座らせてもらった」

漸く追いついた耳に聞こえた声に、咄嗟に高い声が出る。

「ちょ、ちょっと!」

思った以上に声が響いて、店の中の注目を一身に浴びる。
他の席のお客様に愛想笑いを浮かべて、その視線を外させた。
……ここで動揺してはいけない。
そう思い、息を吸い込んで落ち着きを取り戻す。

「お客様、あちらの席が空きましたので…」

どきやがれ!そんな気持ちをこめて送った視線に阪口の口の端の片方だけが器用に上がり、いびつな弧を描いた。

「席がいっぱいだって言ったのは、知己じゃないか?」

してやったりの男の顔とは逆に、自分の眉間にすっと皺が寄るのがわかった。
この男は楽しんでいる。
この状況で下の名前で呼べば、池田さんが自分との関係をどう思案するのかを…
だから敢えて言ったのかと思うと、腸が煮えくり返りそうだった。
それでも抑えて、次の言葉を言おうとした途端、

「……ともみ?」

聞こえた声に、視線を池田さんに向ける。
訝しむような視線が阪口に向けられているのを認めて、
背中にひやりと嫌な汗が浮かぶような気がした。

なんで…

その感覚は覚えのないものだった。

「あぁ、こいつの名前」

「知ってます」

きっぱりと言い放つ目の力は強い。
眉間に皺も寄っている。
見たことのない池田さんの表情に、どこか気持ちがふわふわと落ち着かなくなった。
いつも自分へ向けられる目線は柔らかい。
今、最大に優越感に浸かれる、自分にだけ向けられる視線……
それなのに今は……
自分へ視線を向けることなく、阪口に向ける強い眼差し。
その視線を受けても尚、どこか余裕を持った阪口の笑み。
二人の醸し出す空気に不穏なものが漂い始めたのがわかる。
いつもの自分なら、こんな状況になれば二人まとめてさようならだ。
なのに、どうしてこんなに胸の中が騒ぐのか……。
味わったことのない感情に、ぐらりと足元がゆれ、崩れ落ちそうな気がした。

そこへ、すみませんと店員を呼ぶ声がする。
振り返ってみれば、フロアには自分しかおらず、一瞬どうしようか…と思案する。
その表情を見て取ったのか、

「行って来いよ。俺は坊主と話をするから…」

「ぼ、坊主!?」

「俺から見りゃ、お前なんか、まだまだケツの青い坊主だ」

「くっ!……佐々木さん、良いですよ。お客さんをお待たせしちゃダメです。
俺も、今、この人に話すことができたみたいなんで」

「ほら坊主もこう言ってんだ。さっさと行け」

犬でも払うような仕草で、テーブルから遠ざけられる。
再び背中にすみませんと女性の声がする。
昼からも仕事があるであろうお客様のランチタイムに、これ以上お待たせすることも出来ず、仕方がないと諦めプレートに乗っていた露を滴らせるグラスを乱暴にテーブルに置き、その場を後にした。

その頃から、店は戦場のように忙しくなった。
こんな雨の日にいらして下さるなんて…いつもならそう思うところが、今日という日は思えなかった。
カウンターとお客様の席を優雅に振舞っているように動く。
時々視線を二人に向ける。
二人の事が気になるのに、タイミングが悪く、テーブルに近づけない。
パスタやドリアを運び、食後のドリンクを運んでいる間に、阪口が席を立って、出ていくのがわかった。
ホッとしたのも束の間、すぐに池田さんも店を出て行く素振りを見せる。
それを認めてレジに行こうとすると、先ほどの空気をどう読んだのか、
アルバイトの女の子が視線を寄こして代わりにレジに行ってしまった。
池田さんのレジは私だと決まっていたのに……


そうして、そのまま、一度も自分を見ることなく色とりどりの傘に埋もれて行く池田さんの背中を呆然と見つめた。

………彼が私を見なかった。

それがこんなにショックだなんて…



ショック?

私が?

連れて歩くのに丁度良い。
若いから体力があって、存分に楽しませてくれる。
それだけの存在であったはずの池田さんの行動に、どうしようもなく左右されている自分に腹が立つ。

気になるけれど、自分から連絡なんてしてやるもんですかっ!
どうせ、今日の夜にでも連絡があるだろう…

そう高を括っていた自分の携帯が、
その日は一度も池田さんからの着信を告げることはなかったことに、
今までの自分では有り得ない感情が渦を巻き始めることを、止めることは出来なかった。


お題をお借りしています
『悪魔とワルツを』





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