金曜日の夜 1 「おい、池田。お前だけだぞ、提出してないの」 窓ガラスを背にした奥の窓際の席から梅雨の晴れ間の日差しが入り込んできて、 眩しい位置にいる…若干額が後退しつつある課長から言われた言葉で、体中を駆け巡っていた佐々木さんへの思いは、 書類を提出しなければならないという焦りに追い出されてしまった。 今日中には何とか…と返事をし、下半期の売り上げ予想を入れていく。 元々持っている得意先自体は少ないけれど、沢田物産という大手があるだけに、数字自体は大きなものになる。 営業ごとの数字にバラつきがないようにと配慮されている得意先。 新規の開拓をやっている中村に比べれば、自分なんてルート営業のようなものだ。 だからこそ、売り上げを落とすわけにはいかなかった。 中村から池田に代わって、数字が落ちた…なんて言われたら、目も当てられない。 大まかな数字の提出は新年早々に起こしていたので、微妙な調整を加えながら、一件一件丁寧に見ていった。 それが終わると、上半期の売り上げ動向、つまりどの得意先にどんなものが売れたのか、逆にどんなものが売れなかったのかを調べてまとめる。 その作業の途中に、昼を過ぎ、取引先に行かなければならない時間になる。 行かなくても良いのなら電話だけで済ませたかったのに、昔気質のその店は現金で支払いをする。 振り込んでくれれば、行くこともないのに… そう思いながらも、午後からする書類の内容を思い出し、渋々と社を出た。 社を出た途端、感じる風は生ぬるい。 引き締まっていた毛穴が緩んで汗がじわりと滲んで、持っている鞄がいつも以上に重く感じられた。 乗り込んだ電車の車内は、そう混んでなく、冷やりとした空気にホッとする。 取り出した携帯電話に、今はまだランチの時間で、すぐに見ることは出来ないだろうと思いながら、メールを送る。 諦めたような感覚と、ホッとする感覚。 打ち込んだ文字は、今日は仕事で行けません、それだけだった。 何が売れる?何が欲しい?自分ならどんなものが欲しいと思う? 考えているうちに時間はどっぷりと過ぎた。 昼に行った得意先に何となくリサーチを兼ねて聞いてみたものの、たった一件では出来上がらないことに、 自分の準備のなさに情けなくなった。 夏至も過ぎ、一日の割合で昼の方が長くなったフロアには、薄く赤い日差しが入り込む。 気がつくと、フロアの中は自分と課長の二人だけになっていた。 「まだかかるのか?」 時計を見ながら問いかけられる声に、責められるような雰囲気を察し、 「あ…はい。提出して帰るので、先に帰ってください。すみません…」 その声にそうかと言い、ごそごそと帰り支度を始める課長の気配を感じた。 責められるのは仕方ない。 だけど、そんな雰囲気の中するくらいなら一人でやった方がはかどるような気がした。 「あまり遅くならないように…知ってると思うけど、帰る時は下の警備員さんに一声かけて…」 「あ、はい。お疲れ様でした」 「お疲れ」 苦笑いを浮かべながらも帰っていく課長は、怒っているとばかり思っていたけれど、そうではないようだった。 一人きりになるとフロアの中は妙に広く感じる。 クーラーの唸るような音と、前の通りを走る車の音がどこか遠くに聞こえる。 口寂しくなって、コーヒーを入れに給湯室に入る。 自分のマグカップを棚から取り出し、一人きりで粉から落とすのも面倒なので、 棚の奥の方に仕舞いこまれている誰のだかわからないインスタントコーヒーを淹れる。 熱いコーヒーを啜りながら飲んでいて、濃く香り豊かなコーヒーを思い出した。 佐々木さんの淹れてくれるコーヒーは格段に美味しかった… そういえば…と昼に送ったまま、携帯を見ていなかったことを思い出した。 営業鞄の外ポケットに突っ込んだままにしていた携帯を取り出しながら、ドキドキと胸が逸る。 どんな風に返事が帰って来ているのかとビクビクしながら、画面を覗き込むと、メールの受信が2件あった。 一度深呼吸して、メールを開く。 どちらも佐々木さんだったことに安心する気持ちと、どんな返事なのだろうと怯える気持ち。 そのままじっと携帯を見ていると、怯える気持ちの方が大きくなって、パタンと携帯を閉じた。 仕事が終わってからにしよう…。 そう思い、パソコンの画面に向き直ろうとして、隣の中村のデスクの上に広げられた書類に目が行った。 今回提出しなければならない書類の中村の分だった。 細かなリサーチが書かれていて、悪いと思いながらも目を通す。 一件一件書かれたものを見ていると、仕事の質の違いに焦りにも似た感情がせり上がってくる。 その事にうわぁと声を上げながらも最後まで目を通すと、空いているスペースに小さな文字で書き込みがされていた。 『体調悪そうだから、早めに帰れよ。何かの役に立つといいな』 どう考えても自分に対してのメッセージのような気がした。 思い返して、今日の自分の行動がイライラしたり、上の空のような態度を間近で見ていて、体調が悪いのかと心配してくれていたのかもしれない… 心配されていたことに恥ずかしいやら、嬉しいやら。 悔しくないかと言われれば、正直悔しい。 こんなことをやってのける先輩に、多少なりとも腹は立つ。 だけど、いつか自分もこんな風に後輩が困っているときに、手を差し伸べられる社会人でいたいと思った。 中村のお陰で、午後8時半と思っていたよりも早くに書類も出来上がり、課長のデスクに提出して、 帰り支度を始めた。 一階の警備員に一声掛け、駅へと向かう途中、携帯を取り出し、メールを送る。 まずは中村に一言、礼を言いたかった。 金曜日の夜で、恋人と良い感じの時に、自分の電話で雰囲気を台無しにしてはいけないと思い、メールにした。 簡素な礼だけを述べたメールを送り、次に受信されているメールを開く。 午後3時過ぎに来ていたメールはわかりましたの一言だけだった。 そして、続いて5時過ぎに来ていたメールを開くや否や、駅に向かって駆け出した。 金曜日の夜とあって、駅前に人の姿は多かった。 連れ立って歩くから、横に広がる人々を疎ましく思いながらも、足は速まる。 何度か人にぶつかり、謝りながらも、切符を買い、駅の構内を走り抜ける。 丁度来た電車は混みあっていて、やっと見つけたスペースに体を滑り込ませた。 つり革に掴まりながら息を整える。 『遅くても良いです。会いたい…』 頭の中に浮かんでる来る文字に、電車の窓に映った自分の顔は、気持ちが悪いくらいに、にやけていた。 自分勝手に思いを巡らし、ダメなのか…と思っていたところに、『会いたい』という文字はそれだけで天にも昇る気持ちにさせる。 電車の中でいくらもがいたところで、早く着くわけがない。 タクシーにすればよかったと思ったのは、乗り込んですぐだった。 日はとうに沈み、窓から見える景色は夜の街だった。 電車を降りて、佐々木さんのマンションへ向かう街並みも金曜日の夜特有の浮かれた空気が漂っている。 以前ならきっと目をむけていた薄着の女の子の集団と行き違っても、まったく興味を示すことなくひたすらに早足で歩く。 じわりと滲む汗が気持ち悪く、スーツのズボンが太ももに張り付いているような気がしたけれど、 構わず足を動かした。 先日嫌な思いをした公園の横を通り過ぎ、明るい光りを放つ自動販売機を横目にエレベータへと乗り込む。 一階で止まっていたことに、電車といい、エレベータといい、今日ここに来ることは自分に取って必然であり、運命で決まっていたようにさえ思えてくる。 が、部屋の前まで来たときに、連絡を一つもしていなかったことに気がついた。 会いたい…そうメールで送ってきたのだから、いつ来ても良さそうな気もしたけれど、行くとも行かないとも返事をしていない自分が急に来てしまっても良かったのか… そう思うけれど、ここまで来てしまったのだから、今更電話もないだろう…思いながらインターホンを押した。 ピンポ〜ンという軽快な音が響き、中からくぐもったはいという佐々木さんの声が聞こえる。 にやける顔をどうにか抑えて、ガチャリと音と立ててドアが開いた瞬間、待ち切れないと外側に自分からドアを開く。 くつろいでいたのか、部屋着に眼鏡を外したびっくりした佐々木さんの顔を他所に、素早く体を滑り込ませると、細いその体を抱きしめた。 後ろにバタンとドアの閉まる音がすると同時に、確かめるようにぎゅっと力を入れた。 「…来ないかと思ってました」 肩口から漏れてきた声は自分の腕に圧迫されているからか、くぐもって苦しそうな声だった。 少し腕を緩め、 「どうして?」 と問いかける。 「だって…返事がなかったから…」 はにかむような声に嬉しさがこみ上げてくる。 気にしてくれていた…そう思うと、返事をしなかった罪悪感が、優越感に変わる。 自分のことを好きなのだろうと言う気持ちすら湧き上がってくる。 ふっと胸に圧迫感があって、体が離れる。 「夕飯は?」 下を向いたまま言われているから、表情まではわからなかった。 「まだ」 言葉を発すると同時に、上を向いた佐々木さんが、 「じゃあ、支度をするので、シャワーでも浴びてください」 笑みを浮かべながら言われた言葉に、先に佐々木さんが欲しいと言いたかったけれど、言えなかった。 つられるようにして笑みを浮かべると、手を引いて浴室まで連れて行かれた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |