金曜日の朝 迎えた金曜日の朝。 昨日の夜、いつも通りに送った「おやすみなさい」のメールに返事はなかった。 梅雨らしい灰色の重たい雲の間から顔を出した太陽の光りは、夏独特の強烈さを持っていて、 寝不足の目に突き刺さるように入り込んできた。 湿気を多く含んだ満員電車の車内の空気は、むわっとするほど濃度が濃く、 化粧の匂いと、隣に立つ中年のサラリーマンからは顔を背けたくなるような特有の匂いが鼻を刺し、一瞬吐き気がこみ上げる。 それがその匂いから来るものなのか、それとも精神的なものなのかは、自分でもはっきりとはわからなかった。 瞼の裏に焼きつく光景は、夜中に何度も夢の中に登場し、夢なのか現実なのかわからなくなる。 電車の揺れに身を任せていれば、昨日感じた足元がぐらつくような感覚が戻って来て、現実なのだと自分に知らせているような気がした。 いつもより少し早く着いた社内には既にクーラーが入っていて、背中がひやりとする。 汗と一緒に吐き気も引いていくような感じに、気持ちが少しだけ浮上する。 自分の席に向かうと、隣の席には既に中村の姿があった。 恋人と一緒に暮らすようになって、身なりにも気をつけて貰っているのだろうか? 以前なら後頭部に寝癖がついていたり、ネクタイが微妙に傾いていたり、遅刻ギリギリにやって来ていたのに、最近はそんなことすらなくなっていた。 仕事も頑張っているようで、どこか垢抜けた先輩の姿に、置いていかれるような気がして、小さく溜息が漏れる。 「おはようございます」 告げた言葉に、書類に目を向けたまま、 「おはよ。今日は早いな」 そう言ってから顔を上げた中村の目が、下から自分を覗きこむ。 茶色い眼球と視線がぶつかった瞬間、眉間に皺が寄るのがわかった。 「目、赤いぞ。何かあったのか?」 どこか抜けているようでも、目聡い人だ。 「…ムシムシして、寝苦しかっただけですよ」 言葉を返すと、そうかとつぶやく声が聞こえた。 席に座って、パソコンの電源を入れる。 ここ1ヵ月浮ついた気持ちでしていた仕事と久しぶりに向き合うと、 色々とやっていなかったことが浮かび上がってくる。 アポは午後からだから…手帳を見ながら確認をしていけば、月曜日までに提出しなければならない書類が三つもある。 作成するための資料を慌てて鞄の中から取り出した。 今日中に作成…間に合うのか? 自分で自分に聞いてみたけれど、やらなければならないのだ… そう思うと、今日の夜の佐々木さんとの約束をキャンセルしても良いのではないだろうか? そんな考えまで浮かんでくる。 会いたい。むちゃくちゃ会いたい。 でも、会いたくない。 きっと会ってしまえば、自分は昨日の事を根堀葉掘りと聞きたいと思ってしまうだろう。 実際会っていない今だってそう思っているのだから。 だけど…聞き出したくても聞けないのではないだろうか… 好きだといわれていない以上、付き合っているとは言えない、…のかもしれない。 俺は付き合っていると思っている。 だけど…佐々木さんからすれば、俺の事なんてちょっとした遊びなのかもしれない。 そんな男から、あれやこれやと聞き出されるという行為は、鬱陶しいだけで、嫌われてしまうかもしれない… ふと思い出したのは、初めての夜のことだった。 男は初めてではなかった。慣れてもいた。 最近では色々と教えてもらって、回数をこなさなくても佐々木さんをそれなりに満足させられるようにはなってきた。 だけど、彼の男としての初めては自分ではなかったのだ… まったくの初めて…なんて大それた考えは持ってはいない。 詳しい年齢は知らないけれど、佐々木さんくらいの顔をしていて、女性との経験もない、だなんて有り得ない。 それでも、男性同士のそういう経験が初めてではなかったという事に、顔も知らないその男に嫉妬にも似た感情が持ち上がってくる。 昨日の男の体格から言って、あの日借りたスーツはあの男のものだったのではないだろうか… あいつが初めての男だったのか? そこまで考えて考えを打ち消す。 いやいや、そんなことはない。 仲の良い男友達かもしれないじゃないか。 高校や大学のときからの友人で、単に、本当に単に飲みに行って、酔いつぶれたから送って来てくれたのではないだろうか? 親しげに寄り添っていたのは、仲が良い証拠だ。 だけど… だけど、そう思うことが酷く自分の都合の良いような気がして仕方ない。 本当のところは佐々木さんにしかわからない。 なのに、本人に聞く勇気がない… じゃあ、自分はどうすれば良いのだろう? 考えは巡り巡って、結局もとの位置に戻ってくる。 好きだと言ってもらっていないからだ… 自分に自信が持てないからだ。 「おはようございます。池田さん」 聞こえた声にはっとして顔を上げると、ユキちゃんだった。 アルバイトのユキちゃんは10時からのはず… 左腕にはめた時計で確認すると、10時5分前。 「お、おはよ。もう、そんな時間だったんだ…」 どこか抜けている…といつも中村に言われている自分にしては、いつもの行動だったようで、 ユキちゃんが肩を小さく揺すりながらクスクスと笑う。 その笑顔につられるようにして、力なくはははと笑った。 それなのに、 「顔色、良くないですけど…コーヒーじゃなくて、お茶にしましょうか?」 そんな優しい言葉をかけてくれる。 「ありがと。そうしてもらえる?」 「ええ、じゃあ、池田さんはお茶で」 ふわりと石鹸のような爽やかな匂いを撒き散らしながら、 ユキちゃんが隣の中村やまだ社内に残っている営業に挨拶をしてはお茶かコーヒーかを聞いている。 小さくて可愛い。 笑った顔も癒されるような笑顔でホッとする。 佐々木さんと出会う前は、いいなと思っていた時期もあった。 だけど、ダメなのだ。 自分には佐々木さんという人しか今は見えていないのだ。 改めて、そう実感する。 手元の資料とパソコンの画面をにらむように見つめる。 目と手は資料の作成をしているように見える。 だけど頭は、昨日メールをくれなかった薄情な男の事を性懲りもなく考える。 仕返しのように朝の「おはようございます」のメールは送っていない。 その事を咎めて欲しいと思う。 気にして、怒って欲しいと思う。 そうしてくれれば、自分のことに一生懸命なような気がするから… 自分のことを好きなのだと、言葉にしなくてもわかるような気がするから。 ランチも行かなければ、もっと気にしてくれるだろうか… 昨日の夜まで、会えるのを楽しみにしていた頭で、そんな事を思っていた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |