Soif 〜渇き〜 かばんから合鍵を出し鍵穴に差し込む。 開けたドアの向こうは予想に反して暗かった。 出かけているのかと思い、靴を脱いで勝手に上がる。 マフラーを解き、コートのボタンをはずし、部屋につながるドアを開けて俺は固まった。 真由子の上に男が… これって、何だっけ、ほら、えっと…こういう時って普通なんて声を掛けるんだっけ… いや、普通こういう状況にはならないから、ほら、えっと… 頭はフル回転に回っているのだけれど、言葉として、とか、口に出してとかの行動がまったく出来ない。 焦りに焦ってもがもがと考え、口をパクパクと動かしているところで、 これは夢だと気づく。 一晩で何度も見た夢。その度に、黒い感情が持ち上がり、汗を大量に掻いていることにも気づく。 着替えるなんて面倒なことはしたくない。 何もかもがどうでも良くなった俺は、とうとう、今年残り3日あった仕事の全部を休んだ。 真由子からの連絡は一切なかった。 ベッドの中で一日を過ごし、飯すら食ったかどうかも定かではなく、 ハンカチ男の警告虚しく、ご丁寧に風邪まで引いた。 悔しさと情けなさで涙も枯れた。そんな暮れも押し迫った30日。 不意にインターホンが鳴った。 真由子かも… やっぱり俺が良いって戻って来てくれたのかという甘い期待半分と、 会いたくない、引導を叩きつけられるのかという恐怖心半分で、 熱でなのか、食ってないからなのか、ふらつく体で、インターホンに応答すれば、 「中村さんのお宅ですか?〇×運送の者ですが、宅配をお届けに上がりました!」 とやたらとハイテンションな男の声が部屋に響いた。 何だ、田舎の母親からか?とふらつく体のまま玄関に行き、受け取った小包を見て驚愕した。 差出人は、真由子。 掌より少し大きなその箱に、何が入っているのかは考えなくても分かる。 そう来たか… 笑うことしか出来なかった。 28にもなって受けた失恋は、予想以上に俺を落とし入れ、どこまでも暗い井戸の底に引きずり込んでいく。 箱をソファの上に放った。 そのまま、また、ベッドの上の生活に逆戻りをし、更に風邪は悪化の一途を辿った。 心が渇いて渇いて、涙すら出なくなった俺に、この先、潤うことなんてあるのだろうか… ベッドに頭まで潜り込んで膝を抱えた体勢で、脳の中で聞こえたのは、 「初雪を一緒に見ると結ばれる…」 という、妙に響きの良い声だった。 今は何でも良い。縋れるものなら何にでも縋って、とにかくこの状況を脱したいと思った。 引きずり込まれた井戸の底から見えたのは、あの日見上げたビルの間をちらちらと降る真っ白な雪だった。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |