それぞれの思い 2




復帰した佐藤が一番にしたいと言ったのは、得意先への挨拶回りだった。
入院している間に、取引先が次々と来てくれ、随分と励みになったらしい。
奥さんが持たせてくれたお見舞いのお礼の品を後部座席に載せ、一緒に回ることにしたのは、
今後のことがあったからだ。

「高元」

「はい」

「そこを右に曲がってくれないか?」

大きな交差点を過ぎ、行き過ぎてしまいそうになる小さな路地を指差しながら佐藤が告げる。

「少し早いが、昼にしよう」

そう言った佐藤を横目でチラッと見れば、入院する前よりは頬がこけてしまったが、
それでも入院しているときに比べれば、随分とふっくらとしていた。
食欲があるのは元気な印。

「…わかりました」

告げると、こけた頬を緩ませる。
佐藤のことだ。
きっとうまい店を知っているのだろうと思い、思わず高元の頬も緩んだ。



通された部屋は狭いながらも個室で、古い民家を改造して作られたらしいこの店は、
ランチの時間ともなれば、限定の日替わり定食に長蛇の列が出来るのだそうだ。
町の中にぽっかりと昭和の風情を残した古民家。
部屋から見た庭は子供の頃に訪ねた祖父の家を思い起こさせた。
車の喧騒は聞こえるのに、それが酷く遠く感じ、静かな雰囲気を纏っていた。

「35年が過ぎたなぁ…」

人気の日替わり定食ではなく、定番の天丼の定食を注文し、それを待つ間、
出された温かいお絞りで手を拭きながら、佐藤がぼそりと呟く。
高校を卒業し、営業一本で上り詰めた佐藤の功績は大きなものであったろう。
沢田物産は江戸時代に呉服問屋として開業された。
その後明治維新の波を受け、多くの呉服屋が着物に拘る中、洋服や靴やカバンを扱うようになり、
そのうちに繊維産業から商社へと変わり、色々なものの流通に携わるようになり、
今の形になったのは戦後のことだった。
そして迎えた高度経済成長。それを支え、巨大な組織へと変わって行く。
その功績を支え、身を捧げた結果、病気を患い、戦力外だと認めた会社は佐藤に早期退職を言い渡した。
それでも佐藤は会社に定年まで勤めたいと願い出た。
そして、ゆっくりと働きたいと穏やかに語ったのは先日の人事異動の会議の時だった。
それに対して会社が出した答えは、降格と佐藤の地元支社への転勤だった。

「……あれで良かったのか?」

その声に、何とはなしに庭を見ていた高元の目が向かいに座る佐藤に移る。
何を聞かれているのかすぐにわかった。

「はい」

「お前なら、もう2,3年色んなとこに周って経験を積めば、もっと上を目指せるだろう?」

「…そうですね」

その答えに奢りはなかった。
今の空いたポストに高元、もしくは同期の松下を……そういう声は事実、多かった。
だけど、この場所に転勤してきた時から……いや、英太に出会ってしまった時から、ずっと疑問に思っていた。
あの日、佐藤の病院を訪ねた雪のちらつく凍えるような風の吹く通りを歩いた日。
企業の中で働くということについての意味を考えた。
――駒の一つ
自分はそれになりたいのではないと思った。
思い描いていた未来が、急に薄っぺらなものに思え、これから先を面倒だとも思った。
けれど、独立するほどの勇気もない。
駒の一つは嫌だけれど、会社員と言うのは自分にあっている気がした。
だったら何かを変えなくては……
そう思った。
そして、後押しをしたのは、あの日の英太だった。




ナスの味噌炒めが出来上がっても英太に起きる気配はなかった。
泣き疲れたようで、ぐっすりと眠る英太には悪いと思ったが、
一緒にいるのに一人で食べるという寂しいものを想像して、起こさずにはいられなくなり、
そっとソファに近寄った。
すっかり乾いてしまった頬に、それでもうっすらと残る涙の後。
そこにそうっと指先を這わせると、ううんと唸って、狭いソファの上で英太が器用に寝返りを打ち、
力なく抱えていたクッションが足元に転がった。
背中を向けられて、面白くない感情が浮かび上がり、そっと肩に触れようとした俺の耳に入ってきた英太の小さな寝言。
それが、すべての後押しをした。
その準備。
ここ数日、ゆっくりと顔を合わせることがなく、帰ると玄関の明りだけが灯された部屋は酷く冷たい印象がした。
ほんの半年前なら電気すらも点いていないのが当たり前だったにも関わらず。
眠ってしまった英太を起こさないようにそっとクローゼットにスーツをしまい、音を立てないように風呂に入る。
出てきてからも寝息を立てる英太の寝顔に、もう少しだから……そう言い聞かせていた自分を思い出す。

「自分で望んだことです」

「高橋が、代理は鬼の首でも取るのだろうか?と冗談交じりに教えてくれたよ」

「…そうですか。折角推して下さったのに、すみませんでした」

「いや……女でも出来たのか?」

「……そんなところです」

「そうか……」

続いて佐藤が口を開きかけたところで、襖の外から失礼しますという声が聞こえる。
佐藤の声に、スッと音も無く襖が開き、盆の上にどんぶりの蓋から飛び出した大きな海老天の尻尾が見えた。

「すごいだろ?」

子供のように目をキラキラと輝かせ、得意気な顔をする佐藤の顔に頷くと、満足そうに笑っていた。




いい店を教えてくれた……そう思いながら車に乗り込み、次の得意先に行く途中。

「高元に相手がいなかったら、うちの娘を貰ってもらおうと思ってたんだがな……」

さっき言いかけたのはこれだったのか、と思うと、思わず苦い笑いが浮かんできた。

「お嬢さんはまだ大学生でしょう?」

「そうだ。だかな、松下が会いたがってる。あいつはどうも虫が好かん」

言い草があまりにも佐藤らしくて噴出すようにして笑いが出てきた。
俺よりもずっと野心の強い男。
社内でいつもライバル視されてきた。
仕事は出来るが、一癖も二癖もあるような男だった。

「見舞いに来ては、お嬢さんはお元気ですか?だの、今度お食事でも、だの言いやがる」

「そうですか」

「結婚はしないのか?」

唐突に突きつけられた質問に笑っていた顔から笑みが消えた。
出来るものならとっくにしている。
養子縁組……それも考えた。
けれど、会社員として働き、うちと高木商事に取引がある以上、それをするのはカムアウトをするようなものだった。
それを世間は受け止めてくれるだろうか?
従業員にゲイがいる……と言うことを大らかに咎めることなく受け止めてくれるものだろうか?
怖かった。
ただ単純に。
確かに法律的な終局ではある。
紙切れ一枚であろうが、その紙切れの上に多くのものが乗っかることも知っている。

「事情があって、出来ません」

歯切れの悪い返答に、不倫か?と訪ねられ、そうではないと答えたけれど、佐藤は納得していないようだった。
車が大きな交差店に差し掛かり、ちょうど高木商事のある通りに出ると、助手席に座っていた佐藤が声を上げた。

「中村くんがいたな!」

探し物を見つけたように喜ぶ佐藤に、

「彼には恋人がいますよ」

と言った自分は意地悪だろうか?
英太に全うな未来が訪れるかもしれない可能性を摘み取ってしまっているのだろうか?
酷く自分勝手な気がしたけれど、英太もきっとそれを望んでいる。
そう思うだけの確証が自分にはあった。


『……行かないで』


ソファの上で眠る英太の口から出た言葉は、その一言だけだったけれど、
俺には十分過ぎるくらいの言葉だった。

だからこの地で踏ん張ると決めた。
出世も正直惜しいと思った。
だが、それ以上に、お前でなければならない……その言葉を取引先から聞くために。
英太の口から、はっきりと聞くために……





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