可能性のはなし




ロボットのように動いていた。
明るいスーパーの灯りの下、並べられた食材、調味料をメモに書かれてある通りに手に取り、かごに入れ、レジに並ぶ。
引きずるようにしてマンションまでの道を歩いているのは、手に持った袋が重いからだけではなかった。
袋を絆創膏だらけの左手に持ち直し、痛みに耐えながら右手で鍵を回して中に入ると予想通り真っ暗だった。
壁に備えつけられているスイッチの場所は迷うことなくわかるくらいには馴染んだ壁に手を寄せ、パチリと点けて靴を脱いで上がりこむ。

「ただいま……」

漏れた声に誰もいないのに言っても仕方ないのではないのか…と自嘲する。
響いた声は返事が発せられることなく空しく廊下に吸い込まれた。
リビングにつながるドアを開け、ここでもスイッチを入れて電気を点ける。
スーパーで買い込んで来た重い袋をどさりとダイニングのテーブルの上に置いて……

限界だった。

崩れるようにして、リビングのソファーに体を投げ込んで、心の奥にしまいこんだ不安を一緒にクッションを抱えこむ。
漏れる吐息に涙の色が滲みそうになるのを何とか追いやったのに、視界がぐにゃりと歪みそうになるのを歯を食いしばって耐え、
横向きに見えたカーテンの一点を穴が開いてしまうのではないかというくらいに見つめる。

『佐藤部長、復帰するそうですよ』

外回りから戻ってきた池田が、発した言葉の威力は凄まじかった。
足元がガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。
その後のことはあまり覚えていない。
ただ、昼間にユキちゃんに教えてもらったナスの味噌炒めの材料を買い込んでくることだけは忘れていなかったらしい。
少し前にカレーとシチューしか作れないと言ったら、意外に簡単だから…というものを教えてくれるようになった。
彼女さん忙しいなら、中村さんが作って待ってくれてたらきっと喜びますよと優しく笑ったユキちゃんの顔が救いのような気がして、
彼女を高元と置き換えることを覚えた脳は、喜んだ高元の顔を思い浮かべていた。
喜ばせたら、どこにも行かないかもしれない……
子供のような思考が回り始める。
佐藤部長が戻ってきたからと言って、高元が転勤するかどうかはわからない。
それでも、その可能性がまったくなくなったわけではなかった。
佐藤部長が復帰しようがしまいがその可能性はなくならない。
ただ……転勤する確率が高くなるだけ。
不安がこみ上げる。涙が盛りそうになる。
いてもたってもいられない感情が湧き上るくせに、それと反比例するように動くことを拒絶する体がいる。
クッションを強く握り締め、その中に顔を埋める。
とうとう滲んだ涙が溢れ出し、クッションに吸い込まれる。
漏れた吐息の分だけ吸い込んだ空気に、高元と自分の吸う煙草の匂いが、微かにしていた。







最近、英太が料理に目覚めた。
きっかけは、肉じゃが。
カレーやシチューが出来るのなら、同じ材料だから…とユキちゃんに教えてもらったらしい。
それがひどくうまかった。
英太は元々不器用と言うわけではない。
ただ、やってこなかっただけで、やればそれなりにうまくこなす。
追いつきたい……最近は言わなくなったけれど、いつの日かそんなことを言っていた。
追いつくなとは言ったけれど、最近一緒に暮らすようになって、そのうち追い越されるかも…と思うことが増えてきた。
今日も昼間に英太から、うまいものを作るから、楽しみにしとけ!とメールが来た。
読んだ直後に緩んだ顔を斜め前に座る高橋に見られてからかわれた。
佐藤が復帰するらしく、社内は俄かに騒がしくなった。
部長代理……という役職上、そのしわ寄せはすべて自分に持ち込まれる。
昼間の喧騒を思い出すと、肩の辺りが重くなる。
その重荷を軽くするのは、瞼の奥に浮かぶ英太の笑顔だけ。
楽しみにしとけ!そう言うくらいだから、さぞやうまいものを作ってくれているのだろうと思うと、帰宅の足が勝手に速くなっていた。


おかしい……と思ったのは鍵穴に鍵を差し込むときだった。
英太が帰宅していても、必ずドアには鍵がかかっている。
それなのに、いつもと違う向きの鍵穴に小さな違和感を覚えた。
予想通りにするりと回るドアのノブを掴んで、玄関に入る。
壁に手をついて靴を脱ぎ、廊下に上がる。

「ただいま、英太、ドアの鍵かかってなかったぞ」

言いながら向かうリビングのドアも開けっ放し。
それなのに物音一つしない部屋の中。
電気は点いてる。
ドアの向こう、ダイニングの上に置かれたスーパーの袋には大量に詰め込まれた食材が見える。

「英太?」

部屋に入ると、ソファーの向こうに英太の足だけが見える。
眠ってしまったのか?
そう思い、近寄ったソファーの上でクッションを抱きしめる英太の寝顔。
スースーと息を吐き出す姿が子供のようにかわいかった。
力なくクッションを抱え込む手の指先には絆創膏。
包丁で切ったり、フライパンで火傷をしたり……
その手が愛しくてたまらなくなり、座り込んでそっと手を伸ばして触れようとした瞬間、気がついた。

睫毛が微かに濡れ、幾筋かの涙の跡

何か辛いことでもあったのかもしれない。
大の男が泣くほどに。
これが違和感の元か……

触れることなくそうっと立ち上がり、寝室に向かう。
スーツを脱ぎ、クローゼットにしまいながら、代わりに部屋着に着替え、ブランケットを持ってリビングに向かう。
寝ている英太にそうっと掛け、足音を忍ばせてダイニングのテーブルに近寄り、上に放り出された袋の中身を見る。

ナスの味噌炒めか……

良い匂いがすれば起きるだろうか?
起きたときにはもう元気で、俺が作ろうと思ったのに!
そう言って怒るだろうか?その可能性はどのくらいあるだろう……

怒れば良い。
泣いて、喚いて、スッキリして、またいつもの笑顔になれば良い。

そう思いながら、そう願いながら、重い袋を持ってキッチンへと向かい、冷たくなった水で手を洗った。



お題をお借りしています
『悪魔とワルツを』








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