仕返し





あたりはすっかり日も暮れて、等間隔に見える明かりと家々の窓から漏れる暖かい灯りを見ながらの帰り道。
どこかの家で作ったカレーの良い匂いがほのかに漂っていた。
住宅街の中にあるここは、建物のお陰なのか比較的風の影響も少ないので、然程寒さを感じない。
仕事を頑張るとは言っても、そうそううまく行くはずもない。
今日は結局、取引先を怒らせてしまって、新人じゃあるまいし、何をやっているのだと自分で自分を叱咤していた。
暗い帰り道を歩きながら思うことは、悔しいけど高元ならもっとうまくやってのけたのだろうということ。
あの男をもっと知らなければ近づけない!と胸のポケットに入っていた携帯を取り出す。
変なプライドは逆に自分を追い込んで行く。あの日学んだことだった。
素直に欲しいものを欲しいということの方が、難しいようでいて、やってみれば、意外に簡単なものである。


数回のコールを聞いて、応答したのは留守番電話の女性の声。

まだ仕事をしているのだろうか?

漸く見えた自分のアパートの階段を一段ずつ登る。同じドアをいくつか通り過ぎ、自分の部屋の前で止まる。
廊下の目隠しの隙間から漏れて吹く風に肩をすくめ、後からかけ直してくれるだろうと思い、携帯をコートのポケットに入れるのと交換のように部屋の鍵を取り出した。
出した鍵を鍵穴に差して、ひねろうとした時に、異変に気づいた。

開いてる…?

急いで頭の中で、色々なシチュエーションが駆け巡る。

部屋の鍵を持っている人物を照合システムのように、並べていって行き着いたのは…


真由子!


いやいや、先日のあれがあるから、それは無いだろうと自分に言い聞かせた。

母親…?

いや、こんな中途半端な時期には来ないだろうし、来るなら連絡をよこすだろ。
じゃあ、誰だ?

……泥棒?

そう思うと一気に背筋に緊張が走った。
身を屈め、冷たいドアに耳を押し当ててみたけれど、特に音は聞こえない。

きっと、端から見れば今の俺の方が泥棒だと思われはしないかといった感じで、ゆっくりとドアノブをまわして、
手前に引こうとしたところで、内側から勢い良く開かれたものだから、
ゴンッという音と共に、額を押さえてしゃがみこんだ。

「ってぇー!」

「あ、悪い。音がしたから、帰って来たなぁと思って」

痛さに悶絶する俺の耳に聞こえてきた声は、明らかに低い響きで、
涙目で上を見上げれば案の定半笑いの高元だった。
痛さに思考を持って行かれて、この状況がいまいち飲み込めない。

「おかえり。痛かったろ?見せてみろ。とりあえず、入って」

ってここは俺の家だ!

と思いながらも額を押さえた手を引かれて、玄関の中に入る。少しだけ上から俺の額を見る高元の手が、少し冷たい。


「あぁ、大丈夫。ちょっと赤くなって腫れてるけど」

「大丈夫じゃねぇし!何で、ここにいるんだよ!ってー…」

「さあ、何でだろうな」

そう言って含んだ笑いを向ける高元の肩を狭い玄関の壁に押し付け、靴を脱いで部屋に上がる。
グワングワンと響く額を押さえながらも部屋着に着替え、ソファに腰を下ろし、背もたれに頭を預け、天井を見る。そこへ、

「冷やしとけ」

濡れたタオルを持った高元がやってきて、額にそれを置く。

「冷てぇ!!」

「我慢しろ」

「いや、お前のせいだし…どうやって入ったんだよ……」

「これ」

笑いながら長い指に挟んだ鍵を見せる。

「あの、箱の中に入ってた」

ああ、真由子から届いた箱か。鍵も入ってたんだな。

「あと、これも」

そう言って差し出されたのは、白い封筒に入った手紙だった。
急いで奪うようにひったくった。タオルはスウェットをはいた太ももへと落ちていくが、気にしてはいられない。

「読んだのか!?」

と問えば、

「読むわけないだろ。ほら、ちゃんと冷やせ」

濡れたタオルを再度額に置かれる。若干目にかかる位置に置かれ視界が狭くなる。
だが、今はそんなことよりも、

「本当に読んでないか?」

「当たり前」


ふーんと言いながらも、読むわけないとわかってした質問だと思った。
この男はこういう男だ。自分の取った行動のどこで人が信用するのかをきちんと知っている。

「飯は?」

「食ってきた」

「せっかく作ってやったのに」

「何を?」

「鍋の中。カレーだけどな。明日にでも食え」

そう言えば、帰って来るときも匂いがしていた。
こいつ、料理も出来るのか…

「あ、うん、ありがと。……また差つけられたな…」

小さくこぼれた声。
それを聞き逃す高元ではない。

「そういうことか……」

隣から納得したような声が聞こえた。
タオルがあって視界は悪いが、横目で見れば、口の端をあげて笑う高元と目があった。

「英太。…忙しいのはわかるけど、ちょっとは構ってくれよな」

そう言って、背もたれにある俺の頭を引き寄せる。
それは、いつか俺が言った言葉。
休日に仕事を持ち帰った高元が、ほとんど俺を構わなかったことに対して言った…

「仕返し…」

寄せた頭から直接流れて響く笑いを含んだ声が、頭に口付けを1つ落とす。

「…だって、追いつきたいんだ…高元に……」

体を起こした高元の腕がソファの背もたれに俺の頭を挟むように置かれる。

近づいた高元の顔が部屋の電気の逆光になって、うまく見えない。
タオルを取られ、赤く腫れているであろうところに、触れるか触れないかでキスを落とす。
目を瞑って意識をすれば、まだズキズキと痛むそこを離れた唇が、

「…まだ、追いつくな」

この距離だから聞き取れる掠れた声を出し、瞼に、頬に、鼻の頭にとキスを落とし、
漸く辿りついた俺の唇に重なる。

徐々に深まる舌の動きと、高元の腕が俺の頭の横から移動し、意識を持った動きに変わる頃には、
今日の失態も、額の痛さも手の中の真由子からの手紙も、すべて頭の中から消え去っていた。

一枚も二枚も上を行く高元に、追いつきたいけど、追いつきたくない。
俺が追いつくような男であっては欲しくないとさえ思った俺への高元の仕返しは、
翌日の腰の重さに、嫌というほど知ることとなった……




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