光 「ちょ、ちょっと大丈夫?こんなとこで…」 取引先を乗せたタクシーが角を曲がるのを確認して、限界だった俺は電信柱に掴まって、 そのまま、地面に吸いつけられるようにして、腰を下ろしたが最後、動けなくなった。 酔った体に、アスファルトの冷たさを感じながら、うつらうつらとしていたら、上から声が掛けられた。 「こんなとこで寝てたらね、色んなものなくしちゃうのよ。ほら、立って!」 そう言って腕を取り、俺を立ち上がらそうとする女がいる。はっきりとしない意識でされるがままになっていた。 きつい香水の匂いが鼻をつく。こみ上げてくる嘔吐感を何とか飲み込んで、力任せに立たせてくれたその女の目線はヒールを履いているからだろうか、どちらかと言えば、俺より高い… 酔った俺の目にはすべてが潤んで見えるから、この女の顔がはっきりと見えないことに感謝した。 「あら!良い男じゃない!!!」 喜んで、抱きついてくるその女の硬い胸を力が入らないなりに押しのければ、 「ちょっと!どこ触ってんのよ!もう!」 と、喜んだ声を上げる。勘弁してくれ… 「ねぇ、遊んでかない、お兄さん……」 古い言い回しに、笑みがこぼれる。 「嘘、嘘!水飲んできなさいよ!ほら、これも何かの縁でしょ?あたしの店、すぐそこだから、ね?」 指をさしたのは通りの反対側で、到底女とは思えない力で、強引に店に引きずりこまれた。 朝起きて、顔を洗い、用意をして、部屋を出る。 葉を一枚も纏っていない寒々とした木々を眺めながら会社に行き、 人一倍がむしゃらに仕事をこなし、フロアに人がいなくなるまでいて、 キラキラとした電球を纏う木々を眺めながらマンションに帰り、 風呂に入って、寝る… 淡々と過ぎていく日々を、以前はそれでも充実していると思っていた。 急に仕事が忙しくなったと連絡を受けたのは先週のことで、 それからぱたりと中村はマンションに顔を出さなくなった。 連絡もほとんどない。 歯を磨きながら見える使われることのない歯ブラシ。 クローゼットに用意してある俺には小さいワイシャツが数枚。 寝巻き代わりのスウェット… いつの間にか少しずつ存在を主張する中村の使うものを見るたびに、 1人で部屋に居ることが耐えられなくなり、今日は取引先に誘われるままに飲みに出た。 大阪から帰ったあの日、確かに気持ちがつながったと思った。 連絡を散々入れ、それでも鳴ることのない携帯電話を手に取り、 中村の勤める高木商事の池田に電話をすれば、トラブルがあって、客のところへ行ったと言う。 部下がトラブルを起こしても、あそこまで心配したことはなかった。 出来るだけ近くにと電車に乗って、近くまで行ったのだが、どうやらすれ違ってしまったらしい。 そのうちに携帯の充電が切れてしまった。 もう二度と会えないような気がして、暗い気持ちで自分の駅に戻った時、 ひょっとしてマンションに……と思うと、走らずにはいられなかった。 走って、走って、コンビニのところで、中村の背中が見えたときには、抑えることなど出来なかった。 同じようななりをしているサラリーマンはたくさんいる。だが、見間違うはずはなかった。 手に入ったと思った。 もう大丈夫だ、と。 幸せにしてやると本気で思えた。 なのに… 後ろでコトンとした音を聞いて、カウンターに頬をつけたまま目を開ける。 入って来たのは、閉じていた瞼の裏より少し明るい暗闇。カウンターの中だけ灯りをともしているからだろう。 「寝てた?水、持って来たんだけど……」 背中側からそう問われて、顔を上げた。 「いや…ありがとう」 音がした方を見れば、水の冷たさがわかるほど、小さな水滴を纏ったグラスが置かれていた。 グラスを持ち、一口含めばその冷たさが、アルコールで焼けた喉を潤した。 体温が高いからか、冷たい水が気持ち良かった。 「あんなになるまで飲んじゃって…。何かあった? あ、聞き出したりはしないわよ。言いたければ別だけど……」 そう言われ、小首をかしげる女の顔を見た。意外にきれいな顔立ちをしていた。 さっきは視界が潤んで見えなかったが。 細面で、顎のラインがシャープな顔立ち。白い肌に、人工的な茶色の髪。 きれいに巻かれた髪が、動く度に跳ねた。 だが、小首をかしげて言う女がここまで可愛く見えなかったことは、きっと一度も、ない。 薄いピンクのスーツに隠された体が、やはり女のようには華奢ではないからだろう。 酒やけで、少し掠れた声。 その声が、酔っているからなのか、ある意味で同類だからなのか、気を許してしまいそうだった。 弱っているのかもしれない。 「…会ってないんだ」 どう説明すれば良いのか、逡巡して出てきた言葉はこれだけ。 「誰に?っていうか恋の話?恋人?」 「…ああ」 「どれくらい?」 「…1週間、くらい」 「何よ、まだ1週間じゃない! あたしなんて、会いたいって思う男も今はいないのに…… 偽物ならたくさんいるんだけど、ね」 そう言って、ふっと笑った顔がどこか寂しかった。 少し前の自分も同じような顔をしていたのかもしれない。 言い寄ってくる女はたくさんいた。でも、そのすべては俺が欲しいと思った相手ではなかった。 「そうか……」 「で、あんたみたいな男前を置いて、その恋人さんは何をしてるのよ?」 「仕事」 「仕事、ね。じゃあ、仕方ないか……」 うんと頷いて小さな沈黙が落ちる。夜の街の喧騒は聞こえない。 静かな空間。もう遅い時間だからだろう。 「…でも、会いたいなら、会いに行けば?」 言われた言葉にはっとした。 そして続いた言葉に、今すぐにでも会いたくなった。 「確かに色んなことを考えると、そっとしておいてあげた方がいいのかもしれないわね、疲れてるだろうし。 でも、あたしなら、疲れてる時ほど、そばにいて欲しい。 良く頑張ったねって褒めて欲しいし、会いたかったって言って欲しいと思うけど」 中村がそう思っているとは限らない。だが、俺が同じ立場なら、きっと同じように思うだろう。 そう思っていて欲しいと願う。 飲みかけのグラスを手に取り、一気に飲み干し、腰を上げた。 女は座ったままで俺を見上げ、 「会いに行くの?」 「ああ」 酔ってふらついていた足がしっかりとしたことを確認し、暗い店から外へとつながるドアへと向かう俺の背中に、 「今度はその子も連れていらっしゃい。サービスするから」 そう言われ、振り返って、 「ああ、場所を覚えてたらな。水、ご馳走様」 そう言って、手をかけ、開いたドアの隙間から入ってきた光は、今の俺に取って、微かな希望の光だった。 思ってくれるだろうか、俺と同じように。 胸ポケットに入っている携帯を取り出しながら、夜の街を走る「空車」の赤い光を見つけ、手を上げた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |