時計台の鐘が鳴る 8




このままだと、風邪ひいちゃうかな……

傘も差さずにびしょ濡れで歩く優を、クラスメイト同様の奇異な視線を送りながらも、行き交う人々は避けて通り過ぎていく。
ズルズルと引き摺るように歩く靴が、大きな水溜りにはまっても、もう気にすることすらおかしいような気がした。
だって、こんなに濡れてるんだ。今更これ以上濡れることを気にすることに何の意味があるんだろう……
小学生のときは宏と一緒になってよくわざと水溜りの中を歩いて帰った。
後で酷く母親に怒られたけど、今の優はそれ以上にドロドロで……ぐちゃぐちゃで……
倒れた直後、上級生の女子生徒に起こしてもらい、ある程度の泥汚れは洗い流したり、持っていた小さなハンドタオルで拭き取った。
心配気な表情を向けてくれる数人の女子生徒に、「あとは帰るだけですから……」とそれなりの礼を言い、逃げるようにして雨の中へ飛び出した。
走って走って、息が切れて苦しくなって足を緩めた。
恥ずかしさと惨めさを抱え、顔を上げることすら出来ずに、下を向いて歩いた。
それでも人の視線はなんとなく感じる。
頭の中では、風邪を引いてしまう。早く帰ろう。
そう思っているのに、足は商店街ではない方に向いてしまう。
このまま帰ると父親も母親も心配してしまう。見ただけだと単に転んだと思ってくれるかもしれない。
だけど……それ以上の勘繰りをされたとき、それを隠すことが今の優には出来ない気がして、頭の中で思っていることと反対の行動にでてしまう。そしてやっぱり……父親と面と向かうことが怖かったのだ。
そうだとしても、そうじゃないとしても、優の心の中に疚しい気持ちがある以上、父親と向き合うことが怖い。


向けられる視線に耐えられず、大きな道を避け、住宅街で人気のない道に入り込んだ。
帰りたいのに帰ることを拒む足は、どんどん家から遠ざかっていた。
ピチャリピチャリとアスファルトの上の水溜りにしずくを落ちて波紋を作る。
いつもならまだ明るい時間なのに、雨が降っているからか何となく暗い。
雨の音と匂いに包まれ、やっと顔を上げた視界は雨のせいで少し霞んで見えた。
数メートル前の交差点から赤い傘を差した人影がこちらに向かって歩いてくる。
また、あの視線を向けられるのか……そう思うと視線は自然と下を向いた。
徐々に近づく足音に、歩む足の運びは悪くなる。
とぼとぼと歩き、通り過ぎた瞬間、ホッとして肩の力が少しだけ抜けた。
これからどうしよう……家に帰らないと……

「優?」

背中から聞こえた声にギクリとして、歩みを止めて振り返った。10mほど離れた位置から、また声を掛けられる。

「優だろ?何してんの?お前。傘も差さずに……」

赤い傘の露先が上がり、声の主の顔が見える。
新井だった。

「これからバイト行くんだけど……。ずぶ濡れじゃねぇか。何でこんなとこいるんだよ?傘、忘れて行ったのか?だったらまっすぐ家に帰りゃあいいのに……。入れてやるから、一緒に」

そう言って近づく新井に安心したような気もしたが、それ以上の速さでこのことを知られることが嫌だった。
またバカにされる!
今日以外ならいい。
いつもの軽口も、偉そうな物言いも、今日以外なら別に構わない。何を言われてもいい。
だけど、今日はもう嫌だった。
朝から色んなことがあった。
父親のことを言われ、傘には穴が開いていて、誰かに突き飛ばされて泥んこになって、今だってビショビショに濡れてしまって……
前を向いて走り出した優の背中に新井が「優!?」と叫ぶ声が聞こえる。
さっき新井が曲がってきた交差点を全力疾走で曲がって走り去る。
雨が顔に当たって、前が良く見えない。
流れる飛沫を撒き散らしながら暗くなりかけた道を駆け抜ける。
走りながら振り返ると、傘を差したまま新井が追いかけてきていた。

「ひっ!」

「待てよ!」

運動は苦手だ。
しかも今日はよく走っている。
さっき学校から逃げ出したときも必死になって走った。
呼吸が苦しくなる。胸が、肺が、体が痛い。
ずぶ濡れの制服も靴も重くて走りにくい。足がもつれる。

「ちくしょっ!待てって言ってるだろ!」

叫ぶようにして背中に掛かる声の大きさで距離がさっきよりも縮まっているのは明らかだった。
それでも後ろを振り返ることも出来ず、歯を食いしばって一生懸命走る。
小さな交差点に指しかかろうとしたところ、凄い力で腕をぎゅっと握られ、捕まった!と思うと同時に目の前でキキーッと言う音が聞こえた。
一瞬遅れて新井が差していたであろう赤い傘が地面に転がった。

「あぶねぇだろうがっ!!!」

目の前に止まった白い車の中から怖そうなおじさんが叫んで乱暴に車は動き出す。
つられて転がっていた傘がふわふわと地面を転がった。
ブロロロロロ……というエンジンの音が遠ざかっても、優の心臓はドキドキと忙しなく動いていた。

「あっぶねぇ……間一髪」

後ろの新井に気を取られて、前方の小さな交差点に車が入ってきているのに気づかなかったのだ。
突然のことに驚いて、呆然と立ち尽くし、やっと思考が動き出すと体の力が一気に抜けた。

「おっと」

まだすぐ後ろにいた新井が掴んだままの左腕を引いてくれ、その場に崩れることなく新井の胸に背中を預けた。

「くっ、くるま……」

「うん」

「轢かれ……」

「気をつけろ。轢かれちまうところだった……」

濡れて冷えていた背中に新井の温もりが伝わった。
ドキンドキンと振動するのは優の心臓なのか、新井の心臓なのかわからなかった。

「大丈夫か?」

「……うん」

「ほら、しっかり立て!あ〜あ、俺まで濡れちまったじゃねえか」

腕から離れた新井の手が、優の肩を掴んで、そっと背中を離された。
遠ざかる温もりに一瞬寂しさを覚えたけれど、優がしっかりと立てることを確認すると、地面に転がっていた赤い傘を拾い上げる。
顔を上げた新井が優の体に視線を寄こし、金に近い茶髪をかき上げ、いつもは忘れていた整った顔立ちが現れた。
合った視線に何となく気まずくて下を向くと、雨と一緒に頭に声が降ってきた。

「しょうがねぇ。俺んち寄ってくか?」







「ボロい……」

ぼそりと呟いた優の声に「苦学生だって言ってるだろ?」と階段を上りながら新井が言う。
カンカンと響く足音。赤錆の浮いた手すり。
新井は平気なようだけど、いつ倒れてもおかしくない階段を、優は恐る恐る上った。
やっとの思いでたどり着いた2階の廊下も、何となく傾いているようで怖い。
先ほどの交差点からそう離れていない新井のアパートは、思わず声が漏れてしまうくらいにボロかった。
同じようなドアが何枚も並んでいる。
その真ん中辺りのドアの前に立ち、ジーンズの後ろのポケットから鍵を取り出してドアを開けると「ちょっと待ってろ」と暗い部屋に新井が消えていく。
ドアの前で待っている優にも新井が部屋の中を歩いているのがわかる。
ドスドスと歩く新井の足音が、廊下まで響いてくる。
この分だと、下の階の人は堪ったもんじゃないだろうな……と思っていると、近づいてきた足音の後、ドアが開いて新井が顔を出した。

「言っとくけど……汚ねぇぞ」

「……うん」

内側から外に開けられたドアに滑り込むようにして玄関に入ると、タオルを渡された。
暗い室内に電気が点され、部屋の中が見えるようになると、予想していたよりは整っていた。
玄関のすぐ横には冷蔵庫。入ってすぐに板間のキッチンがあり、ガラス戸で仕切られた奥に和室の畳が見える。
折りたたむタイプの小さな机の上にはノートパソコンが置かれ、本棚代わりのカラーボックスが二つ。敷きっぱなしの布団。部屋の角にはテレビとDVDを置いた棚があり、足元にはそれなりに雑誌や脱いだ服などが散らばっているけれど、何となくガランとした印象があった。

「俺が着替えたらすぐ行くぞ。遅刻しちまう」

タオルで髪を拭きながら言った新井の言葉に、未だ玄関に突っ立っていた優は、タオルを握り締めたまま俯いた。

帰りたくない……

今までそれなりに何度か家に帰りたくないと思うことはあった。
遊んでいて遊びたりないと思ったときだったり、明らかに叱られるとわかっているときだったり……
だけど、今日のそれは今までのそういう感情とは違ったところで帰りたくないと強く思う。

「……あ、のさ」

「あぁ?」

髪を拭き終え、着ていたTシャツを脱いでいた新井の背中に聞いてみた。

「……泊まっちゃダメ?」

新井の動きがピタリと止まった。
あ……なんかまずいこと言っちゃった……そう思ったけれど、言った言葉を取り消すことは出来ない。
俯いてじっと待っているのに、新井は何も言わない。
しーんと静まり帰った部屋に外の階段を誰かが上ってくるカンカンという音が聞こえた。

「……理由」

後ろの玄関の前を誰かが歩いて通り過ぎていく。

「お前の様子がおかしいのはわかってっけど……。泊めるとなると、理由を聞かなきゃいけねぇ」

「それは……」

脱ぐ途中で止まっていたTシャツを完全に脱ぎ去り、上半身裸のまんまで振り返った新井と視線が合う。

「言いたくねぇとか、言えねぇっつーなら、家に帰れ。どのみち俺はバイトに行かなきゃなんねぇし。お前んちに」

いい加減な新井なら、何も聞かずに泊めてくれるかもしれない……だなんて甘い考えを持った自分が恥ずかしくなって下を向いた。
優が思っている以上に、ひょっとしたら新井は大人なのかもしれない。
いや、中学生の優よりは、大学生だって大人なのだ。
家庭教師紛いのことをしていても、バイト先の子供で、特別親しいわけでもない。
そんな子供を理由もなく泊めたりする面倒なことは避けたいだろう。

「ごめっ……帰る、よ」

言葉と一緒に足が後ずさる。

「じゃあ、一緒に」

言いながら新井が距離を縮めてくる。

「帰る、けど……もう少しブラブラしてっ……それ、から」

思い切って顔を上げると、眉間に皺を寄せた新井の顔があった。

「ブラブラって……お前ずぶ濡れじゃん。風邪ひくぞ?」

「いいよ、別に……。風邪引いたら、学校……行かなくていいし……」

視線が耐えられなくなって下を向いた。
持っていたタオルをぎゅっと握る。目の縁が滲んできた。
そんなことを言ったら、新井が感づいてしまうのはわかっていた。だけど、思わず言葉が漏れた。
いじめられているなんて思いたくない。
今日だけで、明日からは別に何もないかもしれない。
それでも、今日一日、どうにか堪えていたものが壊れて流れ出てしまいそうだった。

「やっぱ理由言え。言いたくなくても無理矢理言え」

無茶苦茶なことを言われていると思った。
更に距離を縮めて、タオルを握る優の手の上に新井の手が重なった。
その手が思っていた以上にあったかくて、思った以上に大きくて……

とうとう優の目から、ポタリと涙がこぼれてしまった。








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