時計台の鐘が鳴る 6




「ご馳走様でした」

「うん。お茶飲むでしょ?」

「あ……はい、頂きます」

新井の声に母親が反応し、お茶を入れに席を立つ。
そのやり取りを聞いて、お茶碗の中にあるご飯をかきこんだ。
横目で新井を見ると、食べ終わった食器を重ねている。
今日は勉強を教わる日で、急いで最後の一口を無理矢理押し込むようにして入れて、「うううーふむんんん…」と鼻で言ってパチンと手を合わせると、父親に「しっかり噛んで、飲み込んでから言いなさい」と言われ、椅子に座ったまま急いで口を動かした。

「はい」

母親の声と同時にダイニングテーブルの上に冷たい緑茶の入ったグラスが置かれるとすぐに手にとって、口の中のものを一緒に胃の中に流し込み、「ご馳走様でした」ともう一度言うと、「うん」と父親が満足そうに返事をした。
リビングからつけっぱなしのテレビの音が聞こえる。

「じゃあ、優くん。それ飲んだら始めようか?」

「……うん」

優くん……
いつも「優」と呼び捨てにしたり「お前」とか言ってる癖に。

そう思いながらじとっとした視線を新井に送ると、「いつも悪いわねぇ」と向かいから母親の声がする。

「いえ。大したことはしてないですから」

笑顔で答える新井の声にうんうんと心の中で頷く。
ひたすらに単語を埋めていくプリントを大したことにしてしまうと、世の中の家庭教師と呼ばれる人たちに悪い気がする。
グラスの中を飲み干すと、その様子を見ていたのか新井に「じゃ、行こうか」と声を掛けられ席を立つ。
両親の「よろしくね」という声を背中に聞きながら二人並んで3階の優の部屋に移動した。
入ってすぐに勉強机の前の椅子に座ると「ほい、これ今日の分」と言いながらプリントが一枚渡される。

「また単語だけぇ?」

わかっているけれど、ついつい言葉が口から出てしまう。
そろそろ学校でも文法を習い出した。
このプリントだけでテストで良い点が取れるようには思えない。

「あん?何か不服か?」

椅子に座っているから、上から覗き込まれるようにして言われると威圧感がある。
おまけに蛍光灯を背負って新井が立ってるから顔に影が差して表情がうまく見えなかった。
言葉を発せないでいると新井が息をすうっと吸った。

「日本語だって、単語から覚えただろ?お前は何か?言葉を話し出したと同時に、『お父さん、今日は天気がいいですね』とか言ったのか?言わねぇだろ?せいぜいパパとかママとかまんまとかブーブだろ?それと一緒だ。単語をしっかり覚えるから文章に出来るんだ」

一気に話す新井の勢いに圧倒されたのもあったけど、言ってることが合ってるような気もして「うん」とだけ返事をすると、「じゃあ、黙ってそれやれ」と言ってベッドの上にドカンと腰を下ろし、昨日父親に買って貰った漫画を早速読み始めた。

釈然としないままに机に向き直ってプリントに単語を書きはじめる。
少し経って優がシャーペンを動かす音と新井が時々ページを捲る音が静かに響くなかで、そういえば…と思い出す。
ベーカリー藤井の八重子お姉ちゃんが韓国のアイドルにはまって韓国語を習い出したとき、「英語はまだいいのよ」と言っていた。
英語は子供の頃から結構身近に存在する。
子供用のジュースやお菓子にも「アップル」だとか「ストロベリー」だとか書かれていて、子供だってそれがりんご味やいちご味だと知っている。日常的に英語の単語は耳にする機会も圧倒的に多いのだと。
それに引き換え韓国語でりんごやいちごを何て言うのかなんて優だって知らない。
八重子お姉ちゃんも韓国に行って、わからない単語は結局英語で話したら通じたと言っていた。
単語を知らないと話せないし書けない。
文法も大切だけど、コミュニケーションというものを優先的に考えたとき、単語の存在はかなり大きいのだと言っていた。
そう思うと新井の理論もあながち間違ってないような気もしてくる。

「あっ」

「何?わかんないのでもあった?」

「ううん」

プリントの問題に『先生』と書かれているから思わず声を上げてしまった。
手足はえる
わかると単純に嬉しい。
Teacherを完璧に覚えている嬉しさに自然に頬が緩んでいた。






採点を終えると初めて100点だった。

「良くやった」

新井はそう言いながら大げさにプリントに花丸を書いている。随分と満足そうだ。
優も嬉しい。
嬉しいけれど何となくそれを思い切り表情に出すのが恥ずかしかった。

「同じような問題ばっかなんだもん……何回もやってるのに間違えるのがおかしいんだ……」

「何だそのひねくれ具合は?素直に喜んどけよ〜」

プリントを優に渡し、その手がそのまま上に上がったと思ったら、優の髪に触れ、ぐしゃぐしゃと両手で掻き乱し始める。
咄嗟の事でびっくりして、しばし呆然としていたが、状況を把握した途端、恥ずかしくなって「やめろよー」と抗うと、「素直に喜ぶか?喜ばないと止めないぞ」と言いだす。
小学生やそこらの小さな子供を相手にしているような気がしてムッとしたけれど、3ヶ月ほど前は小学生だったのだ。
中学生と言う響きに大人になったような気がしたけれど、大学生の新井からすれば子供である。
「う、うれしいよっ」と急いで声を上げると、「よしよし」と言って手が止まった。
ホッと一息ついたけれど、どうにも赤くなってしまった顔は上げられそうにない。
俯いたまんまで乱れた髪を直していると、

「そういや、武志さんってK高出てるんだよな」

「うん」

返事をしながら、後頭部の髪がもつれているのをみつける。
猫毛だからすぐに鳥の巣が出来上がる。

「俺地元がこっちじゃないけど、K高っていや有名進学校だろ?」

「そうだよ。俺もそこ行きたい」

格闘していた鳥の巣がほぐれ、一本も抜けなかったことにホッとしながら、漸く治まった顔を上げると、新井は何か考え込むようにして空中を見つめていた。

「……何で大学行かなかったんだろ?」

その質問は優もしたことがある。
小学校のとき、商店街のおばちゃんたちに聞いて、父さんはすごく頭が良かったんだと嬉しかった。
なのに父親は大学に行かなかった。
だから単純に聞いてみた。
その時父親は、ちょっとだけ考えて「行きたいって思わなかったから」と答えた。

「行きたくなかったからって言ってたよ」

そのまま優が答えると、新井は「ふーん」と言うだけだった。






「ゆ〜う〜!宏くん来てくれてるわよ〜」

母親の声が家の中に木霊する。
いつもと変わらない朝の始まりだった。
急いで鞄を掴んで、「行って来ま〜す」と叫びながら階段を駆け下りると、「いってらっしゃい」と両親の声が背中に掛かる。

「っはよ」

「おう」

挨拶をして履き切れていないかかとをとんとんと叩いて足を納めると、待っていてくれた宏が「雨降るぞ」と言った。

「あ……天気予報でも言ってたけど……まぁいいや、ロッカーに置き傘してるし」

「そっか」

いつもの通りに宏と並んで商店街を歩く。
その間にもあちこちで既に開いているお店や準備中のお店のおじちゃんやおばちゃんに「おはよう」と「優ちゃん傘は?雨降るよ〜」と声を掛けられ、「置き傘があるから」と笑って返す。
アーケードを抜けるとどんよりとねずみ色の雲が空を覆っていた。
隣に歩く宏は手に持った傘をぐるぐると回していたが、大通り沿いに出たところでそれを止めた。
駅に向かって急ぐ人たちの数がここからぐんと増えるからだ。
並んで歩いているだけで、自転車の人には迷惑らしく、時折後ろからちりりんとベルを鳴らされる。
それを交わしながら歩いていると、

「部活、バスケにした」

左隣から聞こえた声に「うん」と返す。

「何か色んなとこから声掛けてもらったんだけどな」

「うん」

そうだろうな…と思う。
小学校の頃から宏は目立っていた。
背も高いし、走るのも早い。
サッカーにするかバスケにするか悩んでいたのを数日前に聞いた気がする。

「で、今日から練習」

「そっか」

「一人で帰れるか?」

ニヤリと浮かべた顔で覗き込まれ、からかってるのが伝わってくる。

「帰れるに決まってんだろっ!」

手を上げて殴る真似をすると、宏が「本当かぁ?」と言いながら駆け出す。
それを追いかけるようにして走っていると、早々に学校に到着した。
下駄箱で宏と一度別れて、上履きに履き替えて合流し、教室まで一緒に向かう。
階段を上っていると、後ろから同じクラスの竹波が「おはよう」と声を掛けてきた。
二人で振り返って「おはよう」と返す。

「優、数学の宿題やってきた?」

「うん」

「見せてくれよ〜」

情けない声を上げて言う竹波が面白くて、笑いながら「いや」と言うと、「そこをなんとか!お代官様〜」と言う。
そのやり取りを聞いていた宏が、「お前ちっとも変わってねぇな」と言うと、「人はそうそう変われるものじゃないんだ」と竹波が言う。

竹波は商店街の北側にある住宅団地に住んでいて、小学校のときに転校してきた。
体格は優と宏の中間くらいで、痩せてもなければ太ってもいない。
目が細くて笑うとなくなり、八重歯がのぞく。
お調子者で面白く、すぐに打ち解け、宏と三人でよく遊んだ。
今のクラスでも一番仲が良くて、一緒につるんでいる。

「宏、部活何にしたんだ?」

「バスケ。お前は?」

「俺?美術部にしようと思って」

「何で、美術部?」

特に絵が好きだとかうまいとか聞いたことも思ったこともないから、疑問に思ったまま優が口にすると、

「女性のヌードデッサンがあるかもしれないだろぉ〜」

などと言っている。
普通に考えて中学校でそんなことがあるわけないのに、竹波は嬉しそうに言っている。
呆れた視線を送りながら廊下を歩くと宏の教室の前に到着した。
「じゃあな」と言う宏と別れ、二人で隣の自分のクラスに向かう。
その間は特に変わったことはなかった。

「本当に美術部?」

「んな訳ないじゃん。放送部にしようかな?って思ってる」

それなら納得だと思い、教室のドアをガラリと開ける。
いつも通りに「おはよう」と掛けた声に、それまでがやがやとしていたはずの教室の中が一瞬にしてしんと静まり返る。
意味がわからなくて、もう一度「おはよう」と声を掛けるが誰も返事をしなかった。
立ち尽くしたままでいると、後ろから入ってきた竹波に背中を押される。
そこで我に返って席に向かう。
いつもと違う雰囲気に足の運びがおかしくなる。
竹波がクラスの連中に「何?どうした?」と話しかけ、その中の一人が「あ、あれ…」と言って黒板を指差す。
竹波と同時に黒板を見る。
その文字に優のすべての行動が止まった。
呼吸も思考も、瞬きも。

「誰だよ!こんなん書いた奴―っ!」

先に動いたのは竹波だった。

「お前らも見てねぇで、消せよっ!!!」

叫んで黒板に向かう竹波の背中がぼんやりと見える。白と赤と黄色で書かれた大きな文字。
それまで静かだった教室は一斉に動き出す。
右に左に、時に飛んで竹波が黒板を消している。
なのに優は動けない。






『内山優はオカマの子』






横に貼られた大きく伸ばした写真の画像。
父親に似た季節はずれのミニスカサンタが、そんな優に笑いかけていた。






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