時計台の鐘が鳴る 5



追いかけて父親の背中越しに見ると、縁なしの眼鏡を掛け、少し神経質そうな男性がいた。
日曜日だというのに、髪はきっちりと撫で付けられ、薄いブルーのYシャツに濃紺のスラックス。
ネクタイこそしてはいないが、仕事帰りと言われてもおかしくないような格好だった。

「お久しぶりですねぇ。14年ぶり……くらいでしょうか?ご結婚されて弁当屋を始められたと聞いていますが」

「ええ、駅の北側の時計台商店街で」

「そうですか。すっかり変わられているから一瞬どなたかわかりませんでしたよ。繁盛しているらしいじゃないですか」

「はぁ、お陰さまで。長谷川さんはまだあの」

「ええ。小さな会社ですが、精鋭揃いで。沢田物産の高橋さんには今も懇意にして頂いてます」

少し後ろで聞いていた母親と優にも、明らかに嫌な気配が漂いだしたのがわかった。
父親とどういう関係なのかはわからないけれど、父親の高校のときの同級生の由美子お姉ちゃんのことが出たあたりで、昔していたお店の関係なのかな?と思うに留まる。
何となく、どうでも良いような気になったのは、この男の放つ雰囲気がいけすかないからだろう。

父親の背中に近づくと、その男性の斜め後ろに優と同い年くらいの男の子がいるのに気づく。
こちらも男性同様、白いカッターシャツに制服のズボンのような黒いスラックス。
神経質そうな面立ちで、銀縁の眼鏡を掛けている。
どう見ても親子だった。
間違えることが難しいくらいに親子である。優と母親も同じであるが、この際それは棚の上に置いておく事にする。
そんなことを考えながら、その眼鏡の向こうの細い目に視線をやると、合った瞬間に「あっ」と声を上げられ、その男の子に彼の父親が「どうした?」と聞き返す。

「同じ中学校だよな?」

問うように言われて、ああ!と思い出す。
クラスは違うけど、同じ学年の長谷川と言う生徒だった。

「うん」

「同じクラス?」

母親に聞かれて「ううん。多分宏と一緒、だよね?」と後半部分を長谷川(息子)に問いかけると、「そうだよ」と答えが返ってきた。
合ってて良かった……と内心ホッと胸を撫で下ろす。
中学校は駅の北側にある。
時計台商店街が出来た頃、更に北側に大きな住宅団地が出来上がった。それに伴って、駅の南側はますます市街地化し、元々あった歓楽街が大きくなり会社ビルが増えた。だけど、大きなマンションがあったこともあり、まったく子供がいないわけではない。そこで学区が変更され、中学校は駅の北側と南側で合同になったのだ。
そして、長谷川は南側の住人である。
だから優が詳しくなくて当然ではあるけれど、向こうは優を知っているのに、優が長谷川を知らないとなると何となく申し訳ない気がしてくる。
そんなことを考えている優にはお構いなしのようで、

「優くんは成績が良いんだよ、父さん。この間のテストだって、英語以外は全部僕より良かったみたい。まぁそれは1、2点ずつくらいだったけどね……」

褒められているのか、貶されているのか判断し難い言葉だった。
いや、言葉だけを取れば何とな〜く褒めているように聞こえるけれど、その態度が褒めているように見えないのだ。
いや態度ではない。目だ。と思う。
口元は明らかに笑みを作っているのに、目だけはどこか冷めたような感じだった。細められただけ。そんな印象を受けるのだ。
しかし……そんなことより、よく考えれば、なぜそんなことを知っているのだろう?
漫画や小説の世界じゃないから成績を廊下に張り出したりはしない。と言うことはどこかで聞いていたということになり、宏と賭けをしていたから、結構大きな声でぺらぺらと点数を言っていたようにも思う。
宏のクラスで叫んでいたこともあれば、優のクラスで叫んでいたこともある……
だったら長谷川が聞いていてもおかしくはない。
今思い返せば、結構恥ずかしいことであり、自覚すると急に顔に血液が集中しだして、正面を向いていることが耐え難くなってきて俯いた。

「へぇ、うららさんとこの息子さんは頭が良いんですねぇ。うちの明も今まで塾では結構上位にいたんですけど……」

店の名前など言っていないのに「うららさん」と言う。まぁそれは由美子お姉ちゃんが口に出していたら知っているかもしれない。だけど……俯いていてもはっきりとわかる敵意なようなものが感じられ、羞恥で真っ赤になりそうだった顔が別の意味で赤くなっていくのを感じて顔を上げた。
その目に思った通りの似たような顔でこっちを見ている親子が映る。
息子が息子なら、親も親だな……いやいや、親がこうだから、息子がこうなのか?
ダメだ。ダメだ。いつも両親に「人には必ず良いところがある。嫌だなって思うところの方が目に着きやすいけど、優にはそんな風にはなって欲しくない」と言われているではないか。あんなに苦手だと思っていた新井でさえ、さっき優の両親を憧れだと教えてくれたのだ。その気持ちに嘘がなかったことくらいはわかった。それが何よりの証拠ではないか。

「そうなんですか。優には特に勉強しろとは言ってなくて……。ただ私のような者には出来すぎた良い息子だと思っています」

「ええ。可愛らしいじゃないですか。見た目も女の子のように可愛い。さすがうららさんの息子さんですね」

思い直そうとした優の決意が挫かれるような言葉だった。
酷薄そうな笑みを浮かべて紡ぐ言葉に、父親の体がビクンと跳ねるのがわかる。
一瞬にして纏った不穏なオーラに優は俯いた。
優だって、生まれたくて母親そっくりに生まれたわけではない。
出来れば宏のように男らしく生まれたかった。それが無理でもせめて父親に似たかった。
幼い子供ならまだしも、今の優がそんな言葉を発すれば父親も母親も悲しむだろう。
俯いた視界の中に父親の拳が、小さく小刻みに震えているのが入ってきた。
ぎゅっと握り締めて、力が入りすぎているのか白くなっている。
ひょっとしたら爪が手のひらに食い込んでいるのかもしれない……
決して綺麗ではないが、料理をする者の温かい手である。
それが今は真っ白になるほどにぎゅっと……

そんな父親は初めて見た。

誰かに強い憤りを露にしたところを見たこともなかった。
時々厳しく叱られることはあっても、それは優が道理に適わないことをした時だった。
だけど、これは優でもわかる。理不尽で醜い感情が生み出した言葉だと。


「それでは失礼します。優くん、明と仲良くしてやってくれ」

誰がそんな奴と……思わずにはいられなかった。
長い沈黙……いや、本当は少しだったのかもしれない。
それでも優には長く感じられた沈黙の後、ポンと優の肩に手を置いて、長谷川親子が立ち去る。
それに母親が、「あ……はい、失礼します」と条件反射のように答えて会釈をした。
つられて父親も握りこぶしを震わせたまま、会釈をする気配がした。
足音が遠くなったのを機に、優は俯けていた顔を上げ、手を置かれたところをバシバシと叩いて払った。
何となく嫌な何かがついているような気がしたからだ。

「あんな方だったかな……」

母親も面識があるらしく、小さくつぶやいた。
そして、今まで背中を向けていた父親が振り返るなり笑顔を見せる。

「悪い!悪い!嫌な空気にさせちゃったね。優、本当は漫画が欲しかったんだろう?新井くんも読んでることだし、今日は一冊なら買ってもいいぞ」

さっき優がはたいた肩をぎゅっと握って父親がなかったことのように払拭する。
だけど間近に見た笑顔が引き攣れている。色素の薄い茶色い瞳がなんだか潤んで揺れていた。
それが優には怒りからくるものなのか、その他の感情からくるものなのかが判別出来ない。
だけど、そんな優にもこれだけはわかった。
今はこの父親の空元気に付き合ってあげること。
それが今、父親が望んでいる唯一のことのように思えたから「えへへ、ばれてた?」とおどけた調子で答えていた。






翌日の月曜日は、寝不足だった。
父親の態度はあの後もおかしかったし、中華料理店に行ってもあんなに楽しみにしていた母親も何となく空回りしていた。
優も大好きな酢豚も食べたけれどいつもように美味しいとは感じられなかった。
そして、寝ようと思って入ったベッドで、考えなくても良いのにやっぱりあの時父親に反論して欲しかったなぁなどと思い出してしまったのだから仕方がない。
「そんなことはない。優はどこからどう見ても男の子です!」と強く言って欲しかったのだ。
そんなことはないと朝起きて、歯磨きをしながら洗面台の鏡に映った自分の姿を見れば、思えないのは百も承知なのだが。
それでもやっぱり言って欲しかったのだ。
白い顔に大きな目。その目に濃くはないが一本一本が長い睫毛がついている。
男にしては線が細く、おまけに背も小さい。
さらさらの黒髪は女の子のように長くはないけれど、それでも男の子とすれば長いような気がする。
確かにボーイッシュな女の子だと言われればそう見えなくもない……かもしれない。
はぁ〜とため息をつき、水で口を濯いだ。

「ゆ〜う〜、宏くん来てくれてるわよ〜」

リビングから叫ぶ母親の声に、急いで支度を済ませ鞄を掴んで、「行ってきます」と叫ぶようにして玄関を出る。
ドアを抜ける背中に「いってらっしゃい」と重なる二つの声がかかり、ほんの少しだけホッとした。
朝食を食べているときの両親はいつも通りだった、ような気がするし、そうでもないような気がしたから、そんな些細なことが今の優には不安を消してくれる大切なことだった。
「はよ」と言う宏に「おはよう」と答えると、欠伸をしながら宏が先に行く。
その姿は相変わらず背が高くて男らしい。ひょっとしたらまた背が伸びているのかもしれない。
くそー憎たらしいなぁ…と思いながら、少し走って隣に並ぶ。
そして、優は思い切って聞いてみることにした。

「長谷川ってどんな奴?」

「長谷川?」

「そう」

「うちのクラスの?」

「うん」

「どんなって……おとなしいと思うけど。俺あんまり関わんないからわかんねぇけど」

「関わらない?」

「あいつ、いかにも優等生って感じだろ?」

「……うん」

確かにそうだ。
昨日見た感じでは親子そろって優等生って感じがした。

「何?気になんの?」

「ん?いや、昨日買い物に行ったら、たまたま駅前のデパートの本屋で会ったからさ……」

「ああ!青山のおばちゃんが魚買いに来たときに見たって言ってた。武志さん、ユキさんのためにすごい必死に化粧品選んだって?お前も一緒に行ってたのかよ」

「……」

「相変わらずお前んとこって仲良いよなぁ」

「……誰にも言うなよ!」

「ええ?良いじゃん、仲良いんだからさぁ」

「そういう問題じゃない」

「そうか?仲悪いより良いんじゃねぇの?」

そう言われればそうなのだろうか?
確かに悪いよりは良いとは思う……

長谷川のことが気になったけれど、これ以上しつこく聞くことを戸惑われるくらいに話が逸れてしまい、結局聞くことは出来ないままに学校に着く。
下駄箱で靴を履き替え、教室に向かう。宏と別れて教室に入る。
「おはよう」と声を掛けると先に来ていたクラスメートが「おはよう」と返してくれる。
いつも通りのいつもの朝の光景。
それが今日で最後になることを優はまだ知らなかったのだ。







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