時計台の鐘が鳴る 3





「2問目、つづりが違う」

「え?」

後ろから急に飛び出してきた指が白いプリントの上を指すのにびっくりしてビクリと体が跳ねた。

「t・e・a・c・h・e・rだ。まぁ、hの後のeをaにしたい気持ちはわかるけどな」

「……何でe?ちゃーなんだからchaじゃないの?」

「そんなの知るわけねぇだろ。とにかく先生は「てあしはえる」だ」

「はぁ?」

「読めるだろ?手足はえるって」

「…て……あ……しぃ?……は?……え……る!本当だっ」

そうか、つづりにはそんな覚え方もあるのか……と新たな勉強方法の発見に胸をときめかせ、さて次を解くかな!とシャーペンの握り締めてやる気を見せた瞬間、

「なあ、優。これの続きは?そろそろ読み終わるけど、このままじゃ絶対完結しないよなぁ」

声につられて振り返ると、後ろに立っていると思っていた新井は既にベッドの上に腹ばいになり、優の本棚から取り出して漫画を読んでいた。
言われた言葉に、さっきまでのやる気がしゅるしゅると落ちていき、腹の底からはぁ〜とため息をつきたい気持ちになる。
が、ぐっと堪えて「来月発売」と答えた。

「なぁ〜んだ。来月かぁ……完結してるのはどれだ?」

「棚の一番上のそこからそこまで……」

指で指しながら説明すると、読み終わった漫画をパタンと閉じて飛び跳ねるように起き上がり、早速一巻を取り出して、またベッドに腹ばいになって読み始める。
新井の金に近い茶の髪が、蛍光灯の明かりに照らされてキラキラと光っている。

あの後、文字通り部屋を飛び出した新井を呆気に取られて放心した後、気がついて追いかけて2階のリビングに行くと、もう既に両親は了承していた。
そして、新井に家庭教師紛いなことをしてもらいだして、一週間が過ぎようとしていた。
「紛い」とつけたのはこの有様だからだ。
パソコンで作ったプリントを渡し、優はひたすらその空欄を埋めていく。
その間、新井は優の漫画を読む。時には持ってきた本を読む。雑誌を広げる。菓子を食べる。
休憩に母親の用意したお菓子を優の分まで平らげる……そして、時々、本当に時々、後ろから覗き込んではさっきのように間違いを指摘する。
そんな新井に「家庭教師」という名前はもったいない。
紛いで十分!
ふんっと鼻を一つ鳴らし、シャーペンを握り締め、早速次の問題を解き始める。
途端に後ろから、ふふん♪と調子の外れた鼻歌が聞こえる……

調子っぱずれたメロディに、さっき押さえ込んだため息が腹の底から出てしまうのを優は堪えること出来なかった。






開け放った窓から健やかな春の風が入り込んでくる。
窓枠の隙間からは青い空が見え、吹き込んでくる風に煽られ、ベランダの洗濯物がふわりふわりと揺れていた。
時折パンパンと洗濯物を広げる音が聞こえ、そう広くないベランダを小さな背中が忙しなく右へ左へ、上へ下へと動いている。
母親は洗濯物を必ずと言って良いほどベランダに干す。
お日様の光で乾いた洗濯物はあったかい気がするのだそうだ。
確かに、ふんわりと乾いたバスタオルの感触と香りは、優も好きだった。
ソファにもたれ、漫画を読んでいる優の耳に、外を走る廃品回収の軽トラックの「古新聞、古雑誌、ボロ、車のバッテリー……壊れていてもかまいません」とエンドレスに流れるテープの声が徐々に遠ざかっていくのが聞こえる。
洗濯物を干し終わった母親が、ぴしゃりと窓を閉めてしまったので、その声はまったく聞こえなくなってしまった。

「お昼作るね」

「うん」

ちょうどその時、テレビでのど自慢が始まった。
のどかな日曜日である。
あったか亭うららは日曜日を定休日にしている。
基本的に駅周辺の会社勤めの人たちのお昼の買出しが多いから。と言うのが表向きの理由で、開店当初は日曜日も営業していた。
そして、案外繁盛していた。
だけど……どこかで疑問を持った父親が日曜日を定休日にしてしまった。
日曜日くらいゆっくり家族団欒をしたいと言うのと、お客さんに弁当など食べず、休みであるならばお母さんやお父さんの手料理を食べるべきであると思ったかららしい。
家族を大切にしている父親らしいと言えば、父親らしい考え方である。

「んっ……うごっ……ふ〜」

声にびっくりして振り返ると、ソファにぐてんと横たわった大きな父親が、狭い座面で器用に寝返りを打った。
さっきまで背もたれで隠れていた顔がこちら側に向いている。
頭はボサボサで、顎にはぽつぽつと無精ひげが見える。
さっきの声と言い、今の姿と言い……

おっさんだなぁ〜

心の中でつぶやいて、くすくすと笑ってしまった。
その声を聞きつけ、フライパンでじゅうじゅうといい音を立てて何かを炒めている母親が「な〜に?」と聞き返してきた。

「んー、父さん、おっさんになったなぁと思って」

「ふふ、そうねぇ。立派なおっさんだわねぇ、今では」

「昔はかっこよかった?」

「昔?」

「そう。母さんと出会った頃」

そう言うと、菜箸を持ったまま振り返った母親が「そうねぇ……」とひとしきり悩んで、またフライパンに向かいながら「昔は綺麗だった……かな?」と言葉を返してきた。
男に対して「綺麗」と言うのは少しおかしい。
確かに男にしては線の細いほうである。
色も白くて、切れ長の目は少し茶色い瞳で笑うとどことなく甘い雰囲気が漂う。
宏が言うには、商店街に買い物に来るおばちゃん達にはかなり好評な顔であるらしい。
まぁ……男の人でも使わない表現ではないか。そう思いながらも「綺麗って?」と聞き返した優の言葉に「そろそろ出来るから、お父さん起こして」と返事が帰って来て、何となく誤魔化されたような気がした。

「……チャーハン…」

匂いに反応してむくりと父親が起き上がる。
まだ開けきらない目をぎゅっとつむって「んー」と大きく両腕を上げて伸びをする。
その光景を見て優と母親はぷっと吹き出す。

「何?」

「ううん」

「何でもないよ、はは」

笑っている二人をきょとんとした目で交互に見ながら立ち上がる。優もつられて読んでいた漫画を閉じてソファの上に放り投げ、ダイニングテーブルへと一緒に向かう。
目の前の清潔そうな白いTシャツの背中は男らしくて大きいけれど、履いているスウェットは少しずり落ちていた。
ぼりぼりと背中を掻いていたりするから、こういうところがおっさんだよなぁ…と改めて思っていると椅子に座る前に母親に言われる。

「優、冷蔵庫からお茶出して」

「うん」

冷蔵庫からお茶を出し、ついでに棚からグラスを三つ出す。
こぽこぽと音を立てて注がれる綺麗な緑色をした冷えたお茶は、先日優がお使いでこのは庵から買ってきたものだった。
両親とこのはの付き合いは長く、優が生まれるずっと前から付き合いがあるらしい。
喫茶店のジンさんも、スナックのキャサリンちゃんも同じくらいだと言っていた。
男性にも関わらず、清楚な中にやわらかく、凛とした雰囲気のあるこのはは、実のところ優の初恋の相手でもあった。
小学校に上がる前「大きくなったら、このはちゃんと結婚する」と言った優に「ごめんね、優ちゃん。私は男で、男同士は結婚できないんだ」と告げられ、かなりのショックを受けた記憶がある。
当たり前だが初めての失恋だった。
しかし、よくよく思い出してみれば、その当時、両親の店もこのはの店も始めたばかりでお互い気苦労が絶えず、時々相談がてらご飯を食べに来ていたこのはには、何度も風呂に入れてもらっていて、確かにあれがあそこについていたのを知っていたはずである。
都合の悪い現実は排除していたのだろうか?
それでもこのは以上に優の心をくすぐる女の子は未だにいない。
優はまだ中学生で、同級生にそれを求めるのも酷な話で、当たり前と言っては当たり前であるが。

「天気が良いから、買い物にでも行く?」

チャーハンをかき込みながら言い出した父親に、

「化粧水が切れそうだから、駅前に行きたい」

母親が返すと

「ああ、そうだったな」

何でそんなことまで知っているのだろう?と思いながらも、その考え以上にそう言う父親の言葉に何となく嫌な予感がしてくる。

「じゃあ、ついでに夕飯はあそこの中華でも食べて帰ろうよ」

「ああ、それいい!優もあそこの酢豚好きでしょ?」

「……好きだけど…」

「だけど?」

聞き返す父親が顔を覗き込むようにしてきたから、目の前のチャーハンに齧り付く振りをして顔を逸らしてしまった。

最近何となく両親と出かけることが嫌なのだ。
多分これは世に言う「第二次成長期」と言うものだと思う。
少し前なら、両手を上げて喜んでいたのに何となく気恥ずかしいのだ。
同級生に会ったらどうしよう、何て言い訳しよう…と思ってしまうのである。
それでも、母親の

「ええ、優、行きたくないの?母さん、夜はあそこの中華が食べたいなぁ。久しぶりだし……」

などと言われてしまえば、その気持ちも幾分やわらぐ。
「母親がどうしても一緒に行きたいと言ったから…」そういう大義名分があるからだ。

「そんなに言うなら、……いいよ、行っても」

下を向いて答えた優のその言葉に、両親が目を合わせてホッとしたのは気づかなかった。





「こっちの方が似合うって!」

「そうかなぁ」

「ユキは色が白いから……って言うよりも本当に何でも似合うけど、絶対こっちの方が似合う。ね?そう思わない?」

勢いに押されたのか、尋ねられた店員は引き攣れた笑みをしながら「ええ、そうですね」と答えていた。

「でも……どうせ油と汗で落ちちゃうし。それに普段は口紅なんて塗らないから」

「うんうん、そうだよね。お店に出てるときにこの色はどうかと思うよ。でもね、ユキ。俺としてはいつまでも綺麗でいてもらいたいって思っちゃうわけ。だから出来るだけ、こういうことを蔑ろにして欲しくないって言うか……優だって、母さんにはいつまでも綺麗でいてもらいたいって思うだろ?」

少し離れた位置で傍観者と化していた優にいきなり振られてびっくりしながらも「う、うん」と答えた。

「ほら!優だってそう思ってるんだから」

「そう?」

予想していた通り、今度は母親が聞いてくる。
それに「うん」と笑顔で頷くと、「ほらほら」と父親は随分と満足気な顔をする。
「じゃあ、買っちゃおうかな」と母親が零すと、それまで黙っていた店員が急に父親の手を握って、

「……素敵です」

と言った。

「奥様に対してそんな風に思われる旦那様がいらっしゃるだなんて……世の男性の鏡です!」

急にテンションの上がった店員が、こっちはどうでしょう?と言いながら後ろの棚から新たな口紅とその他の化粧品をカウンターに並べだして、説明を始める。
その光景にうんざりして、優は盛大にため息を吐いた。







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