時計台の鐘が鳴る 2





「あつっ!でも、うっめぇ〜」

宏の声を背中に聞きながら、財布を開いて小銭を取り出す。
学校帰りの夕方の商店街は、夕飯の買い物に来たおばちゃん達で結構な賑わいを見せていた。

「240円ね」

「……はい」

チャリンと音を立てて、生っ白い優の手から、ミート藤井のおばちゃんの分厚くてあったかそうな手のひらに小銭が移動する。
「豚バラ200g」という声に「はいよ」と返事をしながらも優が財布をしまうまで待っていてくれたおばちゃんが「熱いから、気をつけて」と言いながら揚げたてのメンチカツを渡してくれる。
薄い紙を通して、熱さが伝わってきた。
おばちゃんは何の気なしに持っていたけれど、優にしてみれば、あちちっと声を上げてしまう程に揚げたてである。
買ってその場で食べることを知っているおばちゃんの忠告はいつも正しい。
だけど、この匂いを鼻がキャッチして、冷めるまで待てという指令を脳が下すのはかなり至難の業なのだ。
邪魔にならないように商店街に設置されたベンチに移動する間、いつも通りに噛付いて、おばちゃんの忠告が正しいことを優は今日も自覚する。

「はっふ」

「ほら、言ったじゃないさ」

背中に呆れ半分で笑う声が聞こえてくる。
既に食べ終わった宏が「やっぱ、火傷したな」とつぶやく隣に腰掛ける。

「賭けでもしたの?」

豚バラ200gのお客さんの相手をし終えたおばちゃんが、カウンターの奥から聞いてくる。
長い付き合いのおばちゃんには何でもお見通し。
事あるごとにここのメンチカツを賭けているのだから、それも無理はない。
熱いメンチカツの最後の一切れを口に放り込んでうんと頷くと、「ジュース買ってくる」と隣の宏は立ち上がり、自動販売機に向かって行く。
自分よりもがっちりとしたその背中を何の気なしに見つめていた。

「何、賭けたのさ?」

「うーんとぉ……」

そう、賭けをした。



中学校に入って最初の定期テスト。
朝の早い魚屋の宏はいつも優を家の裏口(普通の家で言うと玄関)まで迎えに来てくれる。
そしてその初日の朝、小学校のときのテストと違う中学校のテストに優は少し緊張していた。
その緊張を宏に悟られたくなかった。なんせそういうお年頃。
緊張しているだとか、怖がっているなんてことを誰かに知られたり、指摘されたりするのが嫌なのだ。
それなのに隣で歩く宏にその緊張感は見られない。
それが悔しい。
そして、長い付き合いでそのあたりを察した宏は、ムカつくことにあえてそれを口にする。

「優、ひょっとして緊張してんの?」

「してない」

言いながらも、本当は今すぐにでも鞄からノートを取り出してもう一度確認したい衝動にかられる。
英語以外は完璧なのだ。英語以外は……

「……大丈夫だろ?」

その不安をキャッチしたような宏の言葉に、「うん、まあな」と余裕の振りをする。

「じゃあ、賭けようぜ」

「何を?」

「俺が一つでも優より良い点取れたら、ミート藤井のメンチカツ」

「いいけど……って待って!」

「何?」

「一つって……俺の方が不利じゃない?」

「何?やっぱ、不安なの?」

『やっぱ』のところを強調して言われ、ムッときたから睨み上げる。
それでも優が睨んだところでちっとも怖くなんかないと宏の目が笑っている。
その目にさらにムカッと来た。

「……別に」

「じゃあ、決まり!」

と決まった賭けではあったのだが……



負けたのである。
英語だけ。
英語以外は優の圧勝だった。それは当たり前である。
小学校6年間の基礎が違う。
宏が塾に行きだしたからと言って、優に勝てるなんて思ってもいなかっただろう。

しかし……それをこのおばちゃんに話してしまうと、風が駆け抜ける速さで商店街中に伝わってしまうのである。
ということは、両親の耳に……そして、新井の耳にも入るだろう。
それが何となく癪に障る。
言葉に困っていると、新たなお客さんが来て、おばちゃんはお客さんの相手をしだした。
助かった……と思っているところにジュースを買って戻って来た宏が隣に掛けながらも「ほら」と言って優にジュースを差し出してくる。

「へ?」

「優も口ん中、火傷しただろ?それか、あれか?こっちの方が良かったとか?」

スポーツドリンクの缶を振りながら、見当違いな返事をした宏の顔をきょとんと見つめる。
メンチカツは1つ120円で、ジュースも120円。
これでは、賭けに負けておごったことが無意味なのだ。
だから財布を出そうと鞄を探ると「金はいらない」と声がかかる。
確かに口の中は軽くひりひりしているけれど、そんなこともわからないのだろうか?と少し哀れんだ視線を送ってしまう。その視線を受けてじゃっかんムッとした宏がぶっきらぼうに言い放つ。

「たったの2点だろ」


その発言に、今度は優がムッとする。

「……なんだよそれ」

不穏な空気を読み取ったのか「早く飲め!」とプシュッとプルタブを上げてしまった。
手をとって、半ば無理矢理に押し付けられた缶から、ほの甘いオレンジの香りが漂って来た。
缶を見ると、優の好きなオレンジジュース。
思わず頬が緩んでしまう。
口をつけると思っていた通りの甘酸っぱい味が口の中に広がった。
その様子を見ていたのか、隣に座る宏からホッと息をついたような空気が伝わる。
その空気に遠のきだした思考がゆっくりと戻ってくる。

たったの2点。
68点と70点。
そのたったの2点には60点代と70点代の大きな差がある。
そして、小学校の頃、優が一度たりともとったことのない点数で、さらに宏に負けたのである。
その2点の重さは改めて考えると優の中では結構大きい。

塾……やっぱり行こうかな……

先日、両親に大丈夫だと言った自分をほんの少し後悔する。
もう一度ジュースを口にすると、さっきよりもすっぱいような気がした。
時計台の鐘が6時を告げる優しい音を響かせた。






「あっ……」

「ふに(何)?」

いつもの夕食である。
テーブルの上はいつも通りのお祭りである。
そしていつものメンバーである。
そして、さらに言えば、一つだけあった人気No.1のハンバーグは、たった今、新井の口の中に消えていったのである。
これも……いつも通りと言えばいつも通りであるのだが……今日の優にはそれが許せなかった。
ハムスターのように良く動く口元が憎らしくて、冷めた目線を送ってしまう。

……なんてずうずうしい。

ハンバーグでも食べて英気を養おうとしていた矢先に新井に掻っ攫われたのである。
何となく面白くなくて、お茶碗の中の白米をつんつんと突きながらため息を吐くと、向かいから母親に「遊ばないの」と怒られた。
仕方なく、から揚げを口にする。
それでもハンバーグだと思っていた優の口の中にから揚げは異物とみなして、味を半減させていた。

「ごちそう様でした」

箸を置いて手を合わせると、「もういいのか?」と父親が聞いてくる。
いつもより食べていないことを心配する声は優しかった。
その声に「うん」と返事をして、食器を重ねてシンクに運ぶ。
そのままダイニングを抜け、階段を上って自室に入る。

小学校に入学したときに買って貰った勉強机に向かった。
鞄の中から英語のテストを取り出して、間違っていたところを復習しようとしたときに、ドアをノックする音が聞こえた。

「はい」

「俺」

どうぞとも何とも言っていないのに、ドアを開けて新井がドカドカと入ってくる。

「へぇ〜結構きれいにしてんだなぁ」

などと部屋の感想を言って、じろじろと部屋の中を物色する。
本棚の漫画を出してパラパラと捲っては棚に戻す。
いつもなら入って来た時点で追い返しているのだろうが、今日はどうにもそんな気力はない。

「でも、まぁ、所詮は中坊の部屋だよな」

そう言って何の断りもなくベッドの上に胡坐をかいた。
ノックをしたことは認めるが、その後の礼儀のない態度に眉間に皺がよる。
やはりこの男は苦手なのだ。

「何?」

剣呑な空気を含んだ声が出た。

「いや……お前、魚屋に英語負けたって聞いたから」

ビクンと体が跳ねて硬直する。

「ど、ど、どこで!?」

「道」

「道ってどこのっ!」

「うるせぇな〜、そんなにでかい声だすなよ」

思わず、自分の口を手で抑えてしまって、はたと気づく。

さっきから態度一つとってもそうだが、言動も『お前』だの『うるせぇ』だのといつも両親と話しているときとの差があまりにもあり過ぎる。
だけど、そんなことより気にしないといけないことがある。

「どこの道で誰に聞いた?」

今度は小さな声を出す。
大きな声を出すなと言われれば、小さな声で話すしかない。
それがおかしいのか新井がニヤっと笑みを見せた。
やっぱりどうしてもこの男は癪に障る。

「何?」

「いや、素直だなぁと思って」

「だから、何!?」

「ほら、また声がでかい。親に知られたくないんじゃねぇの?」

それはちょっと微妙だった。
このまま自力で頑張れば何とか宏を超えることは出来そうだけど、宏に負けたのが問題ではないのだ。
英語がわからないということが問題なのだ。
だったら塾に行けば良いと思うけど、「行きたい」と言うと理由を聞かれる。
そのうち両親にはばれるとわかっているけれど、テストの点数だってまだ言ってない。
それを言うにはちょっとした勇気がいるのだ。
今までが今までだっただけに、良い点を取れなかったことを報告するということに。

「68?」

そんなことを考えている間に、ベッドからすぐ近くに来ていた新井がテストを手にして点数を読み上げる。

「わっ!何してんのっ!」

「68はねぇよ」

「返せっ!」

グシャっと掴んで取り返す。
もうちょっとおちょくられるかもしれないと思っていたのに、意外にすんなり取り返せたことに拍子抜けした。
それでも睨むようにして見上げると、

「駅の南側に長谷川っていう同級生がいるだろ?」

真顔で聞かれる。
見た目からして軽率で、性格も調子の良い男だから、営業スマイルや憎たらしい笑顔のときが多い。
甘い感じの顔だなぁと思ってはいたけれど、真顔になると整っていることが良くわかる。
その事実に何となく落ち着かなくなって、変な感じで胸が騒ぎ出す。それを打ち消すようにして口を開いたから声がどこかひしゃげたような気がした。

「……いる」

「そいつに何か恨みでも買ってんのか?」

「別に?何で?」

「いや……まぁ、そいつがでかい声でダチと話してんのをバイトに来るときに聞いたんだ。んで、来てみりゃ、面はしけてて、飯は食わねぇ。心配にもなんだろ?」

長谷川に恨み?
心配?
長谷川云々はこの際置いておくとして、心配というのは新井から最も遠そうな言葉である。
どこか人を小馬鹿にしたようなところがあるし、自分は自分、他人は他人と分けて考えそうなところがあるからだ。
でも、どうやら新井は心配してくれたらしい。
だったらさっき、ハンバーグを遠慮してくれても良かっただろう?という言葉が浮かんでくる。
いや、その前に、一言礼でも言えば良いのだろうか……
なんて返せば良いのかわからずにいると、

「まぁ、仕方ないか」

何が仕方ないのか良くわからない。
もう本当に新井がわからなくなる。
さっきから優を置いて新井はどんどん勝手に話を進めている。
くるくると変わる話の内容に、反応するのが精一杯で返す言葉を紡ぐ間すら与えられない。

「俺が教えてやるよ」

だから、そう言われたそのときも、反応するのがかなり遅れた。
やっと状況が飲み込めて、苦手な相手に勉強を教わることなんて冗談じゃない!
そう言い返そうとした優より早く、「善は急げだよな」と部屋を飛び出す新井の動きの方が早かった。









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