時計台の鐘が鳴る 28





響いていた音がなくなっただけで、急に静かになったような気がした。
耳が慣れてくると、少し遠いところの喧騒や、もっと遠くを走る車の音、名前も知らない虫や蛙の鳴き声が聞こえるのに、誰もいないからか、余計に静けさを感じた。
そうすると、新井がいなくなるっていう現実が急に迫ってくる。
今触れることの出来る位置に見えている金茶の髪も、もう触れることが出来ないのかもしれない。


「……また、帰ってくるよね?」

下の方は出店の灯りがあってぼわんと明るいのに、暗いここでは優の声がぽつりとこぼれるように聞こえる。

「……わかんねぇ」

喉を湿らすようにグビリと缶ビールを一口含んでから返事は来た。

「だって……大学あるじゃん」

「あるけど……休学した」

暑いはずで、汗もたっぷりとかいているのに、優を包む空気がスッと温度を下げた気がした。
だけど、反対に優の胸の中は急激に温度を上げていく。
さっきのとうもろこしを齧り付いた新井に対する怒りとは比べ物にならないくらいの熱で、内側をぐんぐんと焼かれているような気がして、それでも何かの可能性を見つけたくて、「アパートがあるじゃん」と続けて言うと、少し間を明けてから、

「……今日、片付けて来た」

新井が言った。
それがどんな意味をしているのか……きっと冷静に考えたらわかることだった。頭の端っこで「もうダメだ。新井がいなくなっちゃうんだよ」と声がするのに、それでも他に何かないかと必死になる。

「だって、えっと、じゃあ……家庭教師は!?」

「俺がいなくたって、お前は十分勉強が出来るだろ?」

「そんなことないもん!新井が教えてくれないと、やり方だって……英語だって、わかんないもん!」

「何言ってんだか……武志さんが成績上がったって言ってたし」

「それだって、新井がいたからできたんだもん!」

言いながら目頭がぐっと熱くなる。
胸に溜まった熱が押し上げて来て溢れ出そうとする。
涙なんか流したくない。
なのに、振り返った新井が「優、仕方ないんだって」と聞いたこともないような優しい声で諭すように言うもんだから、瞑った瞼の隙間から一筋ぽたりとこぼれてしまう。
汗をかいた頭に新井の手が触れて、風を通すように髪をすく。

「新井さんには、お世話になったんだ」


「新井さん」
違和感のある言葉に、優は何となく新井の気持ちの中に複雑なものがあるのを感じとった。

「だから、その恩を返さなきゃいけねぇの」

そう言って優と同じ段に腰を掛け直す。
頭にあった手が、肩に移ってぎゅっと抱かれる。
ムシムシと暑いのに、それがやけに安心出来て、少しだけ聞く余裕が出来た。
そんな優の様子を見ながら、新井はぽつりぽつりと話始めた。

「あんまり覚えてねぇけど……俺の父親ってのが酒飲んじゃあ暴力ばっか振るう最低な野郎で、それこそかあちゃんは毎日殴られて、泣いてた。それを見て今度は俺が泣くわけよ。そうすると、父親は逆上して、今度は俺に暴力を振るうようになる。まぁ、良くある話。我慢できなくなって俺が小学校に入ったくらいだったかな?やっと離婚して……その一番苦しいときにかあちゃんを支えてくれたのが新井さんだってわけ」

肩を抱く手がぽんぽんとリズムを刻む。

「あんまり体が丈夫じゃない人で、だけど真面目で……向こうの連れ子だった弟と俺を差別することなく育ててくれた。男の子なら大学ぐらい出てなきゃいけない!とか言って、学費のために無理して働いて……んで結局倒れてたんじゃ意味ねぇじゃん、な?はは」

その話の途中で花火が上がった。
上がるたびに歓声も上がって、下の方は盛り上がっている。
新井はそれを知っているのだろうか……
すっかり涙の引いた目で新井を見ると、白い顔と金茶の髪が花火の色に染まっている。
花火は見えているだろうけど、だけど、やっぱり新井は花火を見ていない。

「そうやって良くしてくれてるのに、俺はまったく馴染めなくて……新井さんが一生懸命してくれればしてくれるだけ、何か距離を置きたくなっちまう……なんでだろうな……良い人だって思ってるし、男として尊敬出来る部分もあるんだぜ?なのに、あの人の前だと俺はついつい反発しちまう……」

水滴を纏った缶ビールをグビリと飲み干す。
きっともう冷たくなんてない。
優の持っている缶ジュースも冷たくないからわかる。

「だから、お前ん家に行って、武志さんがいて、ユキさんがいて、お前がいて……自然に笑ってるのが羨ましかった。妙に居心地良かったし。俺ん家は意識して頑張って笑わないといけないから……俺が馴染めなかったのが悪いんだけど……」

下から上がる歓声が変わった。
仕掛け花火が始まって、だけどこの場所からはそれが見えない。

「まぁ、お前ん家も色々あったけどな」

そう言って、やっと優の方を見て、力なく笑った。
いつも強い新井が、儚くて消えそうで……実際に優の目の前から、あとほんの数時間で消えようとしている。
だからせめて今だけでも捕まえておきたくて、優はぎゅっと抱きついた。

「おいっ!」

「……ていーよ」

「は!?」

「いつでも、来ていいよ!待ってるから」

「っ!」


呼吸が止まって、すうっと深く息を吸い込む新井の胸を頬で感じた。ゆっくりと吐き出した息が頭を撫でて、新井が優の背中に手を回しぽんぽんと叩いて「サンキュ」と小さく呟いた。
掠れた声が泣いているかもしれないと思えて、顔を上げられなくなる。
泣いていたらきっと恥ずかしくて、優には絶対に見せられないだろう。
強気な新井のプライドをこれ以上傷つけちゃいけない気がした。
それ以上に、泣いている新井なんて、優も見たくない。
暑いけど、ムシムシするけど、この暑さがなんだか心地良くて、ずっとこうしていたかったけど、夏の夜特有のぷーん鳴く虫に邪魔をされ、居心地の良い場所を明け渡すしかなかった。










花火も終わりに近づくと、混み合う電車が嫌なのか、少し早めに動く人々が駅に向かって流れていく。
蚊の恐怖に怯えた優も新井も花火の気分ではなくなって、話しあって早めに切り上げ、だけどすぐには帰りたくなくて、遠回りをして商店街まで帰ってきたから結局は花火帰りの人々と同じくらいの時間になってしまった。
いつものこの時間なら、ガランとした風景が広がっているのに、防犯の意味もあるのか、照明はいつもよりは落としているけど街灯よりは明るいからか商店街の中をまばらなりにも人が歩いていて、いつもと違う雰囲気が漂っている。
時計台の近くのベンチに腰掛け、シャッターの閉まった本屋の前の自動販売機でジュースを買った。
ちびりちびりと飲んで時間を稼ぎ、これで本当に新井と会えなくなってしまうかもしれない……と思うと帰りづらくて駄々をこねた。そんな気持ちがわかるのか、新井はそれに付き合ってくれている。

「すっかり懐いちまったな」

出店で買ったヨーヨーをポンポンしながら新井が言う。

「うるさい!」

「武志さんたち、心配してんじゃねぇの?」

「新井がいるから心配してない」

「んなのわかんねぇよ」

「大丈夫だって」

そんなやりとりももう何回目かわからない。

「もうこんな時間なんだから、泊まって行けばいいじゃん」

「片付け、もう少し残ってんだよ」

このやりとりも何回目だろう。

「そんなの明日手伝うし」

そう言っても新井は笑みを浮かべるだけで、それ以上は口を噤む。
何かあるのだろうとはわかる。
だから新井はアパートに帰らなきゃいけない。

時計台の時計の針が午後10時少し前を指している。

「ほら、もう10時来ちまうぞ」

「……うん」

そうやって追い立てられるたび、もう会えないと思う気持ちに拍車がかかる。

「また、帰って来るよね?」

「ふぅ……わかんねぇ」

「嘘でも良いから、帰ってくるって言って」

「はははは……お前は彼女かっつーの」

ケラケラと笑う新井の声が、静まった商店街に響く。
気づくと歩いていた人たちがいなくなり、商店街の中には優と新井の二人だけになっていた。
カチリカチリと時計台の針が時を刻む。
騒音を考えて10時に小さな音だけど、最後の鐘が鳴るように設定されている。

「10時になったら帰れよ」

その言葉に、優は返事をしなかった。
したくなかったから。
俯いて、握りしめた缶ジュースの水滴を拭っていると、静かな空間を切り裂くように電子音が鳴った。

「ほら見ろ。武志さんたち、心配してんじゃねーか」

ポケットに入れていた父親に渡された携帯電話を指さしながら言われ、渋々と取り出すと、さっきよりも大きな音で鳴り響く。ご近所さんのことも考え、いつまでも鳴らしておくわけにも行かなくて、優は通話のボタンを押した。

「……はい」

『まだ帰って来ないの?もう花火は終わってるでしょ?』

怒っていると言うよりも、呆れたような母親の声が聞こえ、優の気分は一気にうげーと沈んでしまう。
新井に助けを求めようと上目遣いに目顔で問うけど、外人の様に両手を上げてお手上げのポーズを取る。

「……もう少ししたら……帰るよ」

『本当に?まだ新井くんと一緒なの?今どこ?』

母親がそう聞いた時だった。
隣に座っていた新井に缶ジュースを取り上げられて、その手にヨーヨーを渡される。後頭部を抱え込まれて、ふわりと気配が近寄ったと思ったら、新井の唇が優の額に触れた。
「じゃあな」と額の辺りで小さく告げた新井が、ベンチを立って歩き出すと同時に、夜10時を告げる時計台の鐘がポーンポーンと小さく鳴る。

『もう、商店街に帰って来てるんじゃない』

鐘の音が聞こえたのか、そういう母親の声は優には聞こえていなかった。
新井のした額のキスに呆気に取られて動けない。
振り返らずに手を振って、小さくなって行く新井の背中を携帯を耳に当てたまま見送ってしまう。




ありがとうも言えずに。


さようならも言えずに。




新井の背中が遠ざかる。
時計台の鐘が鳴る。
商店街を抜け、新井の背中が角を曲がって見えなくなっても、時計台の鐘は鳴っていた。








- 28 -




[*前] | [次#]

≪戻る≫


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -