時計台の鐘が鳴る 26




放課後に寄り道をすることなく家に帰り、着替えを済ませて厨房に向かうのがここのところの優の生活に組み込まれたことだった。いや、正確には、そういう生活に戻ったと言うべきなのだろう。
油の匂いの染み付いた厨房はさほど広くはなく、収納が多くてこざっぱりとした印象がある。さらに清潔感があるのは、閉店後に父親が毎日掃除を欠かさないからだ。
働く者の動線を考え抜かれた造りとなっているのは、今は有名になったけれど、昔はそうでもなかった建築家の手掛けたもので、彼が有名になったのも納得出来る使いやすい造りとなっている。それは、住居部分も同様である。

「お疲れ様です」

声に出して言えば、その返事にはそぐわない「おかえり」という言葉が返ってくる。夕飯には少し早い時間で、夕飯時ともなればそれなりに戦場と化す厨房。グツグツと煮える鍋やジュージューと肉の焼ける香ばしい匂いをさせ、準備に余念のない人達は忙しなく動きながらも、カウンターへと向かために通り過ぎる優に微笑み掛けてくれる。

「今日も休み?」

カウンターにいた母親に問いかけると誰とは問わずに「うん。手伝ってね」と言いながら、店のロゴの入った持ち帰り用の袋や箸を補充するのを手伝うために隣に立つと、ふと腰を伸ばした母親が優を見上げた。
見上げる……その違和感を覚えたのは優だけではなかったようだ。
「何?」と問えば、うふふと笑いながら「背、越されちゃったね」と言う。
一年前くらいは確かに母親を見上げていたし、中学校に入ってからは同じくらいかな?と思っていた。
が、とうとう超えてしまったようだ。
嬉しい。
単純に嬉しかったけれど素直に嬉しいと言うのは何となく恥ずかしくて「超えないと困る」とぶっきらぼうに言うしか出来なかった。


嫌な予感を抱えたまま配達に行った日から、一週間以上、新井は店に来ていなかった。
優が学校に行っている午前中に電話があるようで、最初に電話を受けた母親の話によると、どうやら父親が倒れたらしい、と言うことだった。
大した事はない……と新井は言ったらしいけれど、それでも一週間以上も来られないと言う状況は、大した事なのではないだろうか?
当分休んでも良いのよと言った母親に、本当に大したことではないから……と言ってその日だけを休むはずだったのに、もう一週間。
今日も母親は、当分休んでも良いからと言ったらしいのだが、それに対しても明日には行けるかもしれない、と言って電話を切ったらしい。
新井自身が病気であったり、また何かマヌケなケガでもして来られないのなら、優も悪態の一つも吐けるけれど、相手が病気で、さらに入院したと聞けば、文句をいうこと自体が憚られ、大人しく店の手伝いをしている。
新井よりも店での経験は豊富だから、別段困ったことはない。
電話応対はそれこそ電話が如何なるものか?とわかったと同時に率先してやっていたし、配達にしても13年間この街で暮らしてきたのだから、新井よりも道や地名には詳しい。
ただ、毎日「明日には行けるかもしれないから」と言い張る新井の言動が不思議で仕方ない。

そして……

新井がいない三人だけの夕食の席や食後に勉強をしていると、優はふと物足りなさを感じてしまう。
一番人気のハンバーグが残っていた初日には、新井がいなく良かったとこれほど思ったことはなかったから、思う存分に味わったけれど、日が経つにつれ、その物足りなさは妙な焦燥感へと変わっていた。

このまま来なくなるんじゃ……

そう思うと、なんだか居ても立ってもいられないようで足元をバタバタとしてしまいそうになる。
実際にはしないのだけど、それでもそんな考えから導きだされる“寂しい”という言葉だけはどうにも認めるわけには行かなくて……
新井の言葉を信じれば、明日にも来るのかもしれないが、それだってオオカミ少年の話のように、何度も覆されれば信用なんて出来なくなる。
昨夜の夕飯時を思い出し、今日も何だか物足りない食事をするのか……と思うと、気が滅入ってカウンターに突っ伏して電話の横にあるメモにグリグリと意味のわからない落書きをしていたところで、補充の終わった母親に「そんなところで寝ないの!」と言われて頭をペシンと叩かれる。優が「痛い」と声を上げるのと同時に店のドアベルが鳴って急いで体を起こすと、くすくすと笑う可愛らしい女性が立っていた。

「いらっしゃい」
「……らっしゃいませ」

「こんにちは〜」

母親の笑顔を浮かべた威勢の良い声とは対照的に小さな声で出迎えると、カウンターに寄ってきた絵梨菜は、先程の優と母親のやりとりを見ていたことがわかるようにふふふと含んだ笑いをこぼす。
気恥ずかしくて「こんにちは」とぶっきらぼうに返すと「お母さんに怒られちゃったね」と言われ、ますます恥ずかしくなって、苛立ったような仕草でメニュー表を差し出すと、「こら!丁寧に出しなさい」と隣にいた母親に今度はペシンと尻を叩かれる。その光景にまた絵梨菜のくすくすと笑う声が聞こえ、居た堪れないことこの上ない。真っ赤な顔を隠すようにして優は早々に厨房へと逃げ込んだ。
絵梨菜もここのところ毎日のように顔を出しては、夕飯の弁当を買うことを理由にして新井の動向を聞いて帰る。
彼女なんだから遠慮をせずに電話をすれば良いと思うけれど、ずっと病院にいるのか携帯の電源は切っているらしく、連絡がつかないそうだ。
メールでも送っておけば良いんだろうけど、新井は新井で大変そうだから、と少し寂しそうな顔で言っていた。
送っても返事がない、とも。
可哀想だとは思うけれど、あの……新井のアパートでの『厄介者』発言の一件以来、どうも絵梨菜に対しての態度が素っ気ないものになってしまう。
見れば可愛いと思うし、根本的に良い育ちをしました!という感じのお嬢さんで嫌いになる要素はどこにもない。
そんな態度を母親は「思春期で反抗期だから許してやってね」と絵梨菜に言っていた通りに結論づけたので、優もそう思うことにした。
思春期で反抗期……
その言葉の通りなら、世間でも扱いが難しいと言われているくらいだから、やっぱりとんだ厄介者だな……
心の中でそう呟いて、胸の中の重たい空気を溜め息と一緒に吐き出した。









梅雨が明け、新井が店に来ないまま夏休みに突入し、本格的な夏が来た。
あの次の日には新井に「来られるようになったら連絡をして」と母親が告げたことで新井も渋々了承した。
どうしてそんなに頑なにバイトに来ようとしていのかはわからない。
だけど、あれ以来新井は店に電話すらして来ない。来られない状況が続いているということだ。
なのに、夏休みに入ると弁当屋は途端に忙しくなる。
普段のランチに買いに来てくれるサラリーマンやOLに加えて、夏休みで留守番をする子供たちが買いに来たり、毎日の昼食を作ることに疲れた主婦の方達が、子供の分もまとめて買いに来るようになるからだ。
ランチを確保しようとするためにサラリーマン達はこぞって予約の電話をしてくるので、始業時間から店の電話は鳴りっ放しになり、お昼前と夜の仕込みに優も厨房に立たなければならないほどの忙しさだった。
とは言っても、火を使うことは難しいので、洗い物をしたり、野菜を切ったり、ハンバーグを捏ねたり。
下働き的なことばかりだけれど。
そんな作業の合間に、おばさん達は色々な話を聞かせてくれる。
テレビの話や父親の好きな化粧品の話など、優にとってはくだらなく、つまらない話の中、ひとつだけ興味を引く話があった。
それは、新井が厨房で料理をしていたことだった。

「新井くんは小さい頃は鍵っ子だったらしいからね。自分と弟の分のご飯くらいは作ってたそうだし、料理は習っておいて損はないから、教えて貰えるならお願いしたいって言ってたのよ」

そう教えてくれたのは、5年くらい働いてくれているパートのおばさんだった。
弟がいたと聞いたのは初耳だったが、前に泊めてもらって風呂場で聞いたとき、優が呼び捨てにしていたことでその話は流れてしまっていた。優に対する態度だったりを思い出せば、案外面倒見は良かったのかもしれない。そして、同じ日に小学校2年生で再婚して新井新一になったと聞いたことを思い出し、倒れたというのはきっとこの時にお父さんになった人なんだろうと彩りのプチトマトを真っ二つに切りながら思う。
おばさん達はかしましい。そして噂話が大好きで、優がミート藤井のメンチカツを賭けていたことを暴露され、危うく父親からげんこつを貰うところだった。



そうして忙しい日々はあっという間に過ぎ、7月の終わりの土曜日が来た。
毎年、7月最終の土曜日は夏祭りだと決まっていた。
駅の南側で行われ、片道四車線ずつある大通りを通行止めにして歩行者天国にし、両サイドには出店が並び、夜には河川敷で花火大会も行われる。今年も商店街のあちらこちらにポスターが貼られ、宏と竹波は大勢と一緒に行く約束をしていた。

「優、本当に行かなくても良いの?」

宏や竹波が祭りに行くことを知っている母親が複雑な心境を察して声を掛けてくれるが、優は何とか笑顔を貼り付けて「いいよ。手伝う」と返事をする。
少しだけぶっきらぼうに聞こえただろうか?
本当の本当の心の奥底では行きたい。
いつもなら夏祭りの日はそう忙しくはないはずだった。
しかし、今年は、一週間ほど前に大きな会社が社員の多数で花火大会を観に行くことになったようで、幕の内30個と揚げ物の盛り合わせ、サラダなどのサイドメニューもそれなりに付けた大口の注文が入ってしまったのだ。
新井のいない今、忙しい店を放り出してまで遊びに行こうとは思わない。そして、そんなことを思う自分が、ほんの少しだけ、仕事に一生懸命になっている大人たちに混ざったようで、誇らしくもあるのだ。

「そうだよ、優ちゃん。行っておいで。おばちゃん達がちょっと残業すれば良いんだから」

だけどやっぱり大人たちは優しくて、そんな風に言ってくれるパートのおばさん達の声も嬉しい。けれど、これ以上は言ってくれるな、と揺らぎそうになる心をグッとこらえて、それでも「いい。手伝うよ」と言い切り、注文の数だけの弁当ガラをステンレスの厨房台に並べていく。約束は夕方の6時に河川敷の入り口。そこで手渡すようになっている。
しかし、祭り自体は昼から始まっていて、駅前の通りは大きな歩行者天国となっているから車や自転車で向かうこともできず、徒歩で向かうことになる。更に営業をしている会社もあって、退社時刻とも重なってしまい、駅前は南側だけではなく、商店街のある北側まで混み合ってしまうのが経験上で得た情報だ。そのことと、受け渡しがスムーズにいけば良いが、いかなかった場合を考慮すると、せめて1時間前の5時には店を出なければ間に合わない。
まだ誰が配達をするかは決めていなかったが、多分優と母親で行くことが店にとって一番負担が少ないだろう。
そんなことを思っていると、カランと店の入口に取り付けたドアベルが鳴った。
反射で「いらっしゃいませ」と言った母親と優の声に続き、厨房の中から、父親とおばさん達の声も店内に響く。

「ちわ〜……っす」

少しだけ居心地の悪そうな響きを含んだ声が聞こえた瞬間、優は勢い良く弁当ガラから顔を上げて、店を見る。
そこには3週間くらいぶりに姿を見せた新井が、紙袋を持って立っていた。






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