時計台の鐘が鳴る 25 「せーのっ!」 掛け声と同時に机の下から取り出された数学のテスト用紙の右上には98点と96点と書かれている。 「うああああ……また負けてる……」 どうだと言わんばかりに胸を張っている宏とは対照的に情けない声を上げたのは竹波で、そんな竹波の隣に座っている長谷川は苦笑いを浮かべているだけ。 本人同士よりも赤点ギリギリだった宏と竹波の方が熱くなっている。一学期の期末テストも終わり、梅雨も終わりに近付いたのか、窓の外には強烈な夏の陽射しの気配を含んだ陽が差していた。 ミート藤井のメンチカツを賭けた男と男の戦いの結果発表である。 「じゃあ、次ラストの英語!」 竹波の声を合図に最後の一枚だからか、とびきり大きな声で「せーの!」と掛ける四人の声が人のまばらな放課後の教室に響いた。ダン!と音を立てて机に置かれたテストを四人が一斉に覗き込む。 「うわっ……マジで?」 「中間の時は68点だったよな」 「うわっ、それ言うなよ!」 竹波の感嘆の声にフフンと得意気にふんぞり返った優だったが、続く宏の言葉に本気で焦る。 あれは優の輝かしい学力の汚点となって残っている。 新井に奪われて取り返したときにぐしゃぐしゃになってしまったからゴミ箱に捨ててしまおうと思った。けれど、もうこんな点数は取らないぞ!という戒めの意味も込めて、大切にとっておくことにしたので、学習机の引き出しの中に仕舞っている。あれからたったの二ヶ月ほどしか経っていないのに、我ながらすごい成長だと思う。そう思うと、ニマニマとした笑いを抑えられない。 「100点かぁ〜……惨敗だね」 苦笑を浮かべて参りましたと言って長谷川が頭を下げた。 「長谷川くんだって綴りを間違えただけだろ?」 綴り間違いで99点。たった1点の差だったけれど、その1点は大きい。あのこっそりと優が心の中で呼んでいる「新井特製!単純に単語を埋めていくだけのプリント」のお陰で、綴りを完璧に覚えていた。今回はそれだけではなく、その他の教科に至っても、それなりに新井らしい教え方で教えてくれたので、この点数を取ることが出来たと思うと、癪に障るけれどほんの少しだけ優は心の中で感謝した。 「にしても……すげぇな、二人とも」 そう言って、優と長谷川を宏が交互に見る。 「全部90点代ってどうなの?俺と宏は一生無理っぽいよな」 ヘラヘラと笑いながら言う竹波に「だな」と言って宏が同意したように笑う。 笑ってる場合じゃないように思うけれど、二人には他に得意なものがある。 運動の得意な宏と、明るくて楽しいキャラクターの竹波。 そうじゃなくても背も小さければ線も細い優にとって、勉強でしか二人には勝てない。 笑っていられるくらいに勉強が二人にとって小さなことならそれで良いと思うし、逆に頑張って追いつかれたり、抜かされたりしたら、それこそ優には何もなくなってしまうような気がして何も言わずに一緒に笑った。 結果を言うと、国語と社会は長谷川が勝ったが、残りの数学・理科・英語は優が勝った。 長谷川は惨敗だと言ったけれど、その差は総て先ほどの英語の1点と同様、数学は2点で理科は3点とごく小さなもので、惨敗だと言うには足りない。 「体育が入ってれば、優は余裕で負けてるよな」 「え?長谷川くん、体育得意なの?」 ニヤリと嫌な笑みを浮かべる宏の発言に、机に身を乗り出して優が長谷川に聞く。 そこは結構重要だ。しかし、焦って繕うように笑う長谷川の言葉にちょっとしたショックを覚える。 「え、いや、得意ってほどじゃないよ。普通だよ」 勉強も出来て、体育もそこそこ出来るだなんて……なんて羨ましい…… 「その普通が、優には無理だよなぁ」 しみじみと言う宏に肘鉄を食らわした。 「いてっ」と小さく零したのを聞いてスッキリしたところで、「よし、じゃあ行くか!」と見ていたのかいなかったのかはわからないが、タイミング良く竹波が声を出す。 その声に一斉に席を立って鞄を持って教室を出る。 この光景も既に馴染みつつあった。 あの一件以来、優、宏、竹波の三人の中に長谷川が加わった。 宏と竹波が部活の時は、長谷川と二人で帰ったりもするし、休み時間に宏と一緒に優と竹波のクラスにやって来たりもする。最初のうちこそ、他のクラスメイト達は不思議に思っていたけれど、そのうち気にもしなくなった。 すれ違う何人かの同級生たちに「バイバイ」と声を掛けながら階段へ向かう途中で、優は長谷川に声をかけた。 「長谷川くん、大丈夫?」 「何が?」 「いや、だって、俺たち三人は前からの約束……っていうか賭けてたけど、長谷川くんはそうじゃないだろ?」 「……え」 「無理に付き合ってくれてたら申し訳ないって言うか……竹波が負けた時に一人で二人分払うのが嫌だから、長谷川くんを誘っただけだし……」 言いにくそうにもじもじと言いながら、こんなこと言っていることの方が嫌な思いをさせているのかな?と長谷川の一瞬曇った表情で思ってしまう。 だけど、そんな優の思惑を汲み取ったかのように、「そんなことないよ」と振り払うように笑って長谷川が言った。 「僕が内山くんに挑戦したんだし。それに……誘ってくれて嬉しかった」 心からそう言っているような顔だったから、優はホッとして「そっか」と笑った。 「うん」と応えた長谷川も更に笑みを深くする。 嘘のない笑い顔が優も嬉しかった。 「ミート藤井のメンチカツってそんなにおいしいの?」 「え!?食べたことないの?」 優や宏には幼い頃から慣れ親しんだ味で、この辺りの子供なら誰しもが食べたことのある味を長谷川が食べたことがないと言われ、びっくりして大きな声が出た。 階段に差し掛かった踊り場にその声が響く。 「あ、うん。うちは母さんが専業主婦だから、全部手作りなんだ」 ずり落ちた鞄を肩にかけ直した後、ついでに眼鏡も上げなおしながら長谷川が言った。 「ああ、そうなんだ。えっ!?手作りって、メンチカツも作ってくれるの?」 いくら専業主婦だからと言って何から何まで手作りじゃなきゃいけない訳ではないだろうと思い、そう発言すると、何がおかしかったのかぷふっと長谷川が吹き出した。 「ふふっ、内山くん家だってそうだろ?」 「そうだけど……うちは弁当屋だし。手作りだけど、売り物だから」 階段を降りながら言った言葉に振り返った竹波が「優んちはメンチカツよりコロッケがうまいよ」と言う。 「ああ、そうそう。優んちのはコロッケかハンバーグ」 続いた宏の声に「へぇ」と長谷川が言う。 「一番人気はハンバーグ。今度食べてみてよ」 「う、うん。機会があればね」 弁当屋の息子らしく宣伝した言葉に、何となくこれ以上は言わないでという雰囲気を含ませて長谷川が眼鏡を押し上げた。聞かれたくないことや言いたくないことなどがあると発動される長谷川の癖のようだ。 それから宏と竹波が昨日の夜のナイター中継の話をし出したので優と長谷川は黙って後ろをついて行く。 歩きながら優は、長谷川の父親を思い出していた。 長谷川からも漂うけれど、父親は長谷川よりももっと神経質っぽい感じがした。 ひょっとしたら惣菜や出来合いのものなど食べてはいけないと言われているのかもしれない。 今日のことも怒られたりしなきゃ良いけど…… そんな心配をしてしまうほどに、優にとって長谷川は友達へと変わっていた。 「はいよ。熱いから気をつけて」 一人一人に同じ声を掛けながら熱々のメンチカツをおばちゃんが渡してくれる。 優の番が来た時には「勝ったんだね」なんてニカっと豪快な笑みを浮かべながら言われるから、おばちゃんに賭けをしたことをいつ言ったっけ?と首を傾げながらも薄い包装紙に包まれたメンチカツを受け取る。けれどやっぱり熱々でおばちゃんのように上手くは持てなくて、「あちっあちっ」と右手と左手で交互に持ち変えてしまう。 少し離れたベンチに四人揃って座ったところで竹波が 「では、ちょっと……いや、かなり悔しいけど!内山優の優は優秀の優だったことが証明されました!優の勝利を祝して……いただきま〜す!」 と祝している声よりも悔しい気持ちの方が多分に含まれた声を上げるものだから、買い物帰りのおばちゃん達が何事か?と振り返って行く中、熱々のメンチカツに「いただきます」と竹波と長谷川に言って齧り付いた。 「あふっ……ふっ……んっ」 いつも通りの揚げたてで、口の中を広がる肉汁が薄い粘膜を容赦なく襲って来る。だけど、その痛み以上においしくて、はふはふと言いながらしばし沈黙していると、「……おいしい」と言った長谷川に三人の視線が集まった。 「そりゃ良かった」 ぶっきらぼうな宏の言葉に「うん、すごくおいしい」と頬を綻ばせ、次の一口を齧る長谷川が幼い子供のようだった。 そうしてしばし食べ終えるまでの間、メンチカツを堪能する。 汗をかきながら食べ終えたものから順番に「火傷した」と言いながら自動販売機にジュースを買いに行く。 「火傷したけど、おいしかった」 スポーツドリンク片手にそう零した長谷川に「これで長谷川も洗礼を受けた立派な時計台商店街の子だ」と言った竹波の声に、「なんの洗礼だよ」と言う優と宏の声に時計台の優しい鐘の音が重なる。 「ほら、時計台もそれを認めてる」 そう言った竹波の声に四人の笑い声も重なった。 塾に行くという長谷川に合わせて別れ、家に帰って部屋に入るなりテレビを点けると優が以前見ていたアニメが始まっていた。 いつから見ていないのかも思い出せなくて、しばし画面を見ていたけれど、見ていなかった間に内容が進んで話がわからなかった上に、何となく幼稚な気がしてテレビを消した。制服を脱いでハンガーに掛け、着替えを終えたところで階下より母親の声が響いた。 「ゆーうー、帰ってるのー?」 こっそりと上がって来たけれど、どうやらバレていたらしい。 苦笑しながら厄介な気配のするその声に「うーん」と返すと、「ちょっと手伝ってぇ、配達お願〜い」と言われる。 新井がバイトを始めてからというもの、配達なんてしなくて良かっただけに何となく嫌な感じがしたけれど、帰って来ていると知られた以上行かない訳にも行かず、一階の店へと足を向ける。 「お疲れ様です」 住居部分と店舗の厨房部分を繋ぐドアを開けて声を掛けると、父親とおばちゃん達から「おかえり」という声を貰う。 その向こうのカウンターのところで忙しそうに接客をしている母親の背中が見え、待っていると父親が配達先を告げた。 「ちょっと遠いんだけど、三丁目の佐々木さんって人のところ。茶色い壁のマンションわかる?」 「うん。公園の横でしょ?」 「そう。そこに幕の内とカツカレーが一つずつとサラダと味噌汁が二つずつ。もう少ししたら出来るからちょっと待ってて。あ!自転車に乗って行きなさい」 「うん」 返事をして、お釣りを入れる袋をカウンターに取りに行くけど、そのどこにも新井の姿は見つからない。 店舗の方の待合スペースにもおらず、配達が重なっているのだろうと思っていた。 出来上がった弁当を袋に入れ、家の裏に止めてある配達用の自転車に向かいながら、新井が配達に行っているなら自転車があるのもおかしいと気づく。 休んでるのかな? いくら新井だって体調を崩すこともあるだろう。 大学のシステムが良くわからないけれど、試験があったりもするだろうし…… なんだかんだと言いながらも今回の試験で良い成績を納めることが出来たのは、認めたくはないけれど新井のお陰であることに間違いないし、「ありがとう」って言ってやろうと思ったのに…… 久しぶりに乗る自転車を引っ張り出して跨り、夏の気配を存分に含んだぬるい夜風を肌に感じながら、それでも嫌な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |