時計台の鐘が鳴る 24



最初こそ教科書は広げていたけれど、ノートのコピーを書き写していると面倒で教科書を見なくなる。
作業が単調であれば単調であるだけ、出来るだけ無駄を省いたものへと変わるのにそう時間はかからなかった。
おまけに竹波と宏のコピーは、学年が同じであれば教師も同じ。
授業中居眠りもせずに書いてくれたことに感謝はするが、その同じ教師が黒板に書いたものをそのまま書き写しただけのもので、特に自分で書き込んだコメントなどもなく、違いがあるとするならば、教師のその日の気分で書き換えられたニュアンスと竹波の方がほんの少しだけ宏より字がきれいだってことだろう。
そうやって書き写すだけの作業をしていると、カリカリとシャーペンを動かす音だけが響いていた空間に、新井の調子っぱずれの鼻歌が混じり、集中していた意識がフッと浮上した。
「わからないことがあったら言えよ、教えてやるから」そう言っただけで、新井は床に座って持ち込んだ雑誌のページを捲っていた。
こうしていると以前と何も変わらないような感じがした。
長谷川からの行いも、両親との確執も、新井の家での一週間も……何もなかったような気すらしてくる。


でも……あんなことがあったんだよな?


急激に思い出してしまったことに頬がカーっと熱くなり、シャーペンの動きが止まった。
たった数日前の出来事を、夢中で感じたあの瞬間を、なぞるように思い出してしまう。
実を言うと、ふとした瞬間に今のようにあの感覚がふいに顔をのぞかせる。
新井の大きな手で包まれて擦られて……
駆け抜けた快感の激しさ。
怖いと思った以上にあの快感は強烈だった。
だから思い出して体が反応する。
頬にだけあった熱が体全体に駆け抜けて、体温が一気に上昇した。
下半身に集中しそうになる血液をもじもじと尻を動かして拡散させる。
その仕草が後ろから見ている新井には奇妙だったようで、「何やってんだよ?」と声をかけられ、優の体がビクンと跳ねた。

「……べ、別に」

「ふーん……」

意味深な含みを持たせた返答に幾分疚しい考えがあっただけ気になって、血液の集中した顔を見せることへの戸惑いを抑えこんで振り返ると、そのままこちらを見ていた新井と目が合う。思った以上の無表情がそこにあって、少し焦った。

「な、何?」

「あのな」「うん」

言葉を切られたから、さっきの回想で動きの良くなった心臓が更にバクバクと暴れだす。
耳の奥で鼓動が響いた。

「ノートを書き写すとき、声に出してやった方がいい」

何を言われるのだろう……と身構えていただけに、心の中でホッとする。同時に耳の通りが良くなった。良く見ると無表情だと思った顔は、けっこう真面目な顔をしていたのだと気づく。
何で?と思ったまま口にすると、

「目で見て、声に出して、手で書いて、耳で聞いて、頭で考える。一つの動作をしているようで、五つの動作をやってることになる。そうすると、脳は必要以上にテンパっちまっていつも以上の能力を発揮する」

「……本当に?」

「さあ」

「さあって……」

「でも、俺はそうやって塾にも行かずに大学に合格した」

そう言われると、妙な説得力があるように思う。
新井が中学や高校の時にどれほどの成績だったのかはわからないけれど、現に国立大学の学生であることは間違いのない事実なのだ。

「……うん、わかった」

「おう」

少し恥ずかしかったけれど、机に向き直って素直に声に出してはノートに書き写す。
単調だった作業が少しだけ、脳の中に入って来たような気がした。








「まるっと。……っふう〜」

一週間分の五教科をたったの数時間で書き終えるのがそもそも無理なのだと判断した優は、キリの良さそうなところでシャーペンを置いた。
置いたと同時に右手のダルさを感じる。あまりに集中していたせいで、そんなことにも気づかなかった。
ギシギシと音がしそうな指を開いて、ぶらぶらと振りながら、やけに静かなことにはたと気づく。大きくはないけれど、それなりに声を出しながらやっていたから、自分の声以外の音を聞くほどの余裕はなかった。新井の調子っぱずれの鼻歌も、とうに聞こえなくなっていた。
ふと後ろを振り返ると、新井が雑誌を膝の上に置いたまま、ベッドに凭れて眠っている。蛍光灯の灯りの差し加減なのかもしれないが、何となく疲労の色を滲ませているように見える。
昨日の夜、優も昼間に父親と話をしたことでホッとしたのか寝付きは驚くほどに良かった。新井の家で、小さな布団で一緒に寝ていたとき、悩んでいたり、一日中外に出ることなく狭いアパートの部屋にいたこともあって、ぐっすりと眠っていたとは言い難い状況だった。寝付けなくてゴロゴロと寝返りを打っても、新井は微動だにしなかった。だけど、動かなかったからと言って、熟睡していたかどうかはわからない。優がそんな状態だったのだから、新井だって同じだったのかもしれない。

ギシリと小さな音を立てて椅子から立ち上がり、吸い寄せられるようにして新井のそばまで近寄ってみる。
寝顔なんて泊まっていた一週間に何度も見た。なのに、近づくほどに心臓がドクンドクンと疼きだす。近づきながら、どうしてだか「起きないで」と心の中で願ってしまう。今はその顔をゆっくりと見てみたかった。起きているときは憎らしいことを言ったり、嫌な笑みを浮かべていることの方が多いけれど、眠っている新井は、疲労の色を浮かべてもやはり整った顔立ちをしていた。新井の顔に蛍光灯を背負った優の陰が差し、優がしゃがみ込むとまた光が差す。それでも新井は起きなかった。ホッとしたけれど、心臓の動きはさっきよりも激しくなっていた。

髪、けっこう傷んでる

近くで見ると、金に近い茶色の髪の毛先が傷んでいた。
どうしてこんな色にしてるんだろうと思いながら、そうっと手を伸ばして恐る恐る一房つまんでみる。
見た目よりは触り心地の良い髪を少しだけ引っ張ても新井は起きなかった。


『とんだ厄介者』


ふいに昨日言われた言葉が浮かんで、さっきとは違った意味で心臓が動き出す。
きゅうっと掴まれたように萎んで、次にどくどくと血液を送り出すと嫌な感じでサーっと血の気が引いていく気がした。

そうだよな……厄介者だったんだから、疲れたよな……

申し訳なさも相まって、何だかとっても惨めな気持ちになってきた。
一気に落ち込んで、優の小さな口の隙間からはぁと知らず溜め息が漏れる。
ごめんなさい……と口の中で吐き出して、指先から毛束を離した。
それでも新井は起きない。
嫌なことを言った口を見ると、少しだけ隙間が開いていて、スースーと息が漏れている。
さっきまで整った顔立ちだと思っていたのが、急にマヌケな顔に思えた。
優がこんなに落ち込んで、聞こえなかったにせよ謝罪の言葉を述べたのに、当の本人はマヌケな顔をして眠っていると思ったら、急激に怒りがこみ上げてきた。サーっと引いていた血の気が、今度は一気に上昇してくる。自分勝手だとわかっているけれど、どうにもこうにも腹が立つ。

何かあったら泊まりに来いって言ったのは新井なのに……
厄介者だと思うくらいなら、とっとと追い出せば良かったんだ!
あ、あんなことまでしておいてっ!

決して自分はしたかったわけじゃない!断固としてそう思ったら、体は勝手に動いていた。
机に向かってペン立ての中から油性マジックを掴みとる。
そのまま新井の前に立ち、キャップの蓋を取りながらしゃがみ込み、さあ落書きをしてやるぞ!とペンを新井の顔に近づけたその瞬間、優は「ひゃあっ」と悲鳴を上げて尻餅を着く。
さっきまで閉じていた目がパチリと開いていて目があった。
その目がまた閉じて行こうとするから、ちょっとだけ安心する。
だけど、次の瞬間、一度閉じた瞼がカッと音がしそうな勢いでまた開いたと思ったら、地の底を這うような声が聞こえた。

「……てめぇ、何しようとしてたんだ?」

動かない思考の中で、危険を察知して急いで持っていたペンを背中に隠し、キャップを閉める。

「何隠した?」

「べ、、別に」

言いながら、頭の中ではヤバいヤバいと声を上げる。新井の怒りのオーラが見えるような気がして、ジリジリと後ずさって距離を取る。こういうことがある度に逃げるけれど、優が一度として逃げ切れた試しはない。それでも優は距離を取りたくて仕方ない。さっきは「起きないで」と思うほどに近寄りたかったのに。
新井が膝の上の雑誌をパタンと閉じた。その動きに過剰にビクンと震えて次の行動を予測して、立ち上がろうとした時、新井の手が優の細い足首を掴んだ。

「ぎゃーっ!」

「うるせぇっ!人の寝顔に落書きするなんざ百万年早ぇんだよっ!」

「そんなことしようと思ってないっ!」

咄嗟に口から嘘がこぼれ、掴まれた足をガンガン振って新井の手から逃れようとするけれど、フローリングの床はつるつると滑ってどうにもふんばりが効かない上に、掴まれた足首を新井が引き寄せようとする。

「い、いやっ」

「嫌じゃねぇっ!」

掴まれていない方の足もジタバタと動かすけれど、それ以上の力で引き寄せられて、近くなった距離に怖くなって目をぎゅっと瞑って身を硬くすると、そのまま新井が太ももの上にどかりと乗る。

「うっ……重っ」

「ふふん」

得意気な鼻息が聞こえてそうっと目を開けてみる。
蛍光灯の灯りを背負った新井の陰が見えて、更に優は両手を胸の前に合わせて身を硬くした。
見上げた光景は場所は違うけれど、つい先日同じ角度で新井を見上げた。
口角だけが上がった嫌な笑顔が見えて、条件反射のようにカーっと体が熱くなる気配に怖くなる。
あの感覚が今、こうやって蘇ってくるのがすごく怖い。
でも……それと同時に期待している自分もいた。

「ご、ごめっ」

咄嗟に謝ろうとした言葉が次に取った新井の行動で発することなく消えた。
胸の前で交差した手の中に、油性マジックを握ったままだったのを思い出し、熱の気配は去っていくけれど、別の意味で恐怖が湧き上がる。

「何だこれ?」

「ちがっ」

ぎゅっと握って離さないようにしても大学生と中学生じゃ勝てるはずがない。
それでも一本一本と離されていく指が力を入れて何とか抵抗した。

これを離してしまったら、きっとすごい酷いことをされる!

「俺に勝てると思ってんのか?」

「い、いやっ!思って、ない、けどっ」

「けど、なんだ?でも……こっちがお留守!」「ん?……ひゃん!」

あまりに必死になってマジックを握っていたから脇が甘くなっていた。
その甘くなった脇に新井の手が伸び、急に擽られたから変な声が出た。
ほんの一瞬攻撃が止んで、動きが止まったと思ったら、今度はさっき以上の激しさで脇から脇腹にかけてを擽られる。

「ぎゃははははっ、いやっ、やめっ……ふぁんっ」

やめて欲しいのに声も出ない。緩まることのない攻撃に苦しさで目尻に涙が浮かぶ。
時折変な声が出るのが嫌だけど、とっても苦しいけれど、それでも優は思っていた。

これで日常が戻ったと。

大袈裟に笑いながら、身悶えながらも、怖さと期待を打ち消した。
これで大丈夫。
今まで通り。

「や、やめっ……んっ……はっ、はっ、んんっ、ぎゃははははっ」

自分の笑い声で聞こえていなかった。
新井が「……変な声出してんじゃねぇよ」と拗ねたような声を出したことを。
そうして、いつもの通り「静かにしなさい!」と母親の声が響き渡るまで、その攻撃は止まなかった。
だから余計に、安心していた。





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