時計台の鐘が鳴る 23





「……聞いてくれるかい?」


優が落ち着くのを待ってから、二人並んで住宅街の濡れたアスファルトの上を歩き出してすぐ、父親が問いかけてきた。
持ってきてくれていた傘を受け取って差し、幼い子供のように泣いてしまった顔を見られるのが嫌なのと、とうとう来てしまった……と覚悟を決めて掴んだ傘ごと返事をしたことがわかるように優は頷いた。

「昔、父さんは自分を女の子だと思っていました」

覚悟を決めたと思っていたけれど、あまりに唐突な始まりに一瞬、優は湿気を含んだ空気を吸い込んでしまった。ヒュっと鳴った喉の音が聞こえたのか、隣の父親がこちらを伺う様子が傘越しに伝わってくる。覚悟を決めたと思ったのは優だけではなく、「続けていい?」と聞く父親の声もまた、ほんの少し震えているような気がした。傘を打つ雨粒のタタンタタンという音のせいだけかもしれないけれど。

「中学校のとき、大好きな男の先輩がいて……その好きが恋愛感情なんだって気づいたとき、もう自分は普通じゃいられないって思った……」

そこからは、父親の半生だった。
真っ昼間の住宅街の道を長い足を優の歩幅に合わせながら進め、淡々と、時折笑いを交えて語られる。
こんなことを子供に聞かせる父親もどうなのか……聞きながら優は複雑な思いを抱かずにはいられなかった。
でも……きっとすごく悩んだ結果、この話をしなければ優に理解してもらうことは出来ないと思ったのだろう。

中学の先輩とは別にどうこうなった訳ではなかったけれど、高校に入って好きになった人もまた先輩で男性だった。おまけにその相手もいわゆる“お仲間”という人で、父親の気持ちに気づき、交際がスタートしたらしい。
だけど、男性ばかりのせいかもしれないが、その世界というのは男女の関係よりももっと軽い感じで付き合っている人が多いらしく、その先輩とは長く続かなかった。そして父親もまた、例に漏れることなく結構遊んでいた。
通っていた高校も有名な進学校で、結構もてたんだよ〜などと言う。当時仲の良かった女子生徒に制服を借り、女装して遊ぶことも覚えて、本当に自分は性別を間違って生まれてきたんだと確信していたそうだ。だけど、成長期だったこともあって女装をするには些か背が伸び過ぎてしまい、変に目立つようになり、そうこうしている内にそれが噂として広まり、父親の父親……つまり優にとっては祖父にあたる人の耳にも入ることになる。
高校3年生のときだったそうだ。それで厳格だった祖父と大げんかになり、諍いが絶えず、理解を示してもらえない状況に志望していた大学を受験することなく、卒業と同時に少し離れたこの街に家出同然で飛び出して来た。だから優が家に帰りたくないって思う気持ちも少しだけわかる……と言った。状況はまったく違うけれど、と。
そこまで話したところで、もうそろそろ商店街が近くなる。だけど話は終わりそうになくて、傘を上げて父親を見ると、「もうちょっと付き合ってくれる?」と聞かれ、頷くと、商店街の手前にある小さな公園に向かった。ブランコと滑り台、砂場だけの小さな公園には、三角屋根を携えたベンチがあり、傘を畳んでそこに二人並んで座った。雨で白く烟る公園の脇の道をシャーと水音を立てた車が時折通り過ぎるだけで、ここまで来るのにも人と行き交うことは少なく、辺りは静かだった。

「どこまで話したっけ?」

「……飛び出してきたところ」

「ああ、そうだったね」

そう言って、遠い記憶を思い出すようにして目を細めて雨に濡れる滑り台を見つめる。
つい先程まで隣を歩いていた時もこんな顔をしていたのだろうか。傘で隠れて見えなかったけれど。

普通の……コンビニなどのアルバイトでも良かったけれど、父親との確執もあり、意地でもそういうお店に勤めだし、色んな人と付き合うようになって、お店を任され、その数年後。
駅の南側の歓楽街に小さなお店を持つ。ここが長谷川の持っていた写真の店だと言った。クリスマスの時で、お客さんには結構好評だったんだよと頬を綻ばせた。同じお店で働いていた喫茶ジンのジンさんをバーテンとして雇い、スタッフの募集をかけて面接に来たスナック・キャサリンのキャサリンちゃんを雇い、このは庵のこのはさんを雇い、そこそこ楽しい生活をしていた頃、道端で泣いていた母親と出逢った。

「……すぐに……好きになった?」

「ユキのこと?」

「……うん」

どうして聞いてみようと思ったのはわからなかったけれど、そうだと良いなと思いながら聞いた。
父親と母親の仲の良さは優が一番良く知っている。一番近くでそれを見てきたのだから。

「うーん……多分、一目惚れだったと、思う。でも気づかなくて」

くすっと笑いながら言われたことに、「気づかないって?」と聞き返す。

「だって、中学生で自分は男の人しか好きになれないって知って、それから女の人に対しては同じ性別だと思って接してきたから、恋愛の対象じゃなかったんだよ。……随分長い間気づかなくて、気づいた時にはユキをかなり傷つけていて……」

そこまで言って、父親は視線を足元に移す。優もその視線の先に目を向けると、ベンチに立てかけた傘から雫が伝って、コンクリートに染みを作っていた。新井のアパートでも見た光景を思い出して一瞬ツクンと心臓が嫌な感じに震えた。新井が言ってた「とんだ厄介者」という言葉が耳の奥で蘇る。その痛みに眉間に皺を寄せたとき、隣から「俺はいつも気づくのが遅いんだ」と独り言のように自嘲混じりに小さくつぶやく父親の声が聞こえて来て、その痛みが一瞬にして消えた。

「ユキの時も……今回の優のことも。辛い思いをしたんだろ……?なのに、気づけない……大切なものだっていつも思ってる。守るのは俺の役目で父親なんだからしっかりしなきゃって。……優にこんなことを言ってる時点で、父親として失格のような気もするけど……」

消えそうな声だった。
雨は音も立てずに降り続いている。細く柔らかそうな白い線を何本も描きながら。
だから、消えそうな声でもその声は優に聞こえていた。


父親は、父親として失格だろうか?


すぐに違うという思いが浮かんだ。
けれどそれを口に出して言えなかった。
自分が今していること自体が、父親を失格だと思わせているのだから。
新井が言った「とんだ厄介者」なのだから……
もし仮に父親が父親として失格なのなら、優は子供として失格だ。

そんな風に思わせたくないし、自分のこともそんな風に思いたくない。

だから、すべてを受入れるように、それでいてすべてを振り払うように

「帰ろう」

そう言ってベンチから立ち上がる。

「家に帰ろう。母さんが待ってる」


一瞬遅れて、父親が優を見上げる。
きょとんとしたまあるい目があって、思わずプッと噴き出すと、「そうだね」と目を細めて父親も立ち上がる。

「お腹すいたね。お昼まだだった……母さん、作って待っててくれてるかなぁ?」

三角屋根から傘を差して、細く降る雨の中を優が先に歩き出す。
だから気づかなかった。

「チャーハンが食べたいなぁ」

そんなことを言いながら、優の小さな背中を心配そうに見つめる父親の視線に。
抱きついた時に言った「大丈夫」という言葉の意味に。








「だから俺は気をつけろって言っただろうがっ!!!」

久しぶりに学校に行くと、案の定、クラスのみんなは腫れ物に触るような対応をした。
表向きは病欠となっていたが、クラスメイトは優がいじめにあって休んだと思っている者が大半だろう。それでも「元気になったんだね」などと声を掛けてくれる子もいる。子供だけど、少しずつ大人の仲間入りをするため、社交辞令などを言ってみたりする……
そんなクラスメイトに優も社交辞令で作り笑いを浮かべて「うん」などと返していただけに、ひどく疲れた。
そうして、やっとたどり着いた家で、一週間も学校をサボった優に対して、母親は容赦がなかった。
英語だけじゃなく、すべての教科を見てもらいなさい。と新井も着いた食卓で言われ、宏と竹波がノートを取ってくれているから大丈夫という反論を言う余地すら与えてもらえなかった。
食後に渋々といった感じで部屋に向かう優の腕を取り、物凄い勢いで主の優よりも先に部屋に駆け込んだ新井に、ベッドに肩を押さえて座らされ、取り調べさながら事の顛末を話し終わった直後に、その怒声を浴びせられたのだ。

「……いつ?」

あまりの怒声に多少ビビリながら、いったいそんなことをいつ言われたのだろう?と疑問に思ったことを口に出すと、一瞬間が開いて、

「いつ?!今、いつって言ったか?」

隣に座って、詰め寄るようにして言われ、逆に怒りが込み上げてくる。

「だって、いつそんなこと言った?覚えてませんっ!」

「お前がびしょびしょに濡れて帰りたくないとかほざいて家に泊まった時だよ」

「……そんなこと言った?」

「言った」

そう言い切って、数分沈黙が続く。
その間、優はぐるぐるとあの日のことを思い出そうと必死になって頭を働かせた。
だけど、どうしても思い出せない。
そうこうしている内に隣からポツリと「寝る前だった」と聞こえた。

「は?」

「いや、ほら、お前あの日疲れてたろ?だから、ひょっとしたら聞こえてなかったのかもしれねぇ」

「じゃあ、俺、悪くないじゃん!」

「まぁ、そうかな?」

「そうかなって……」

非のない自分がなんでそこまで責められなきゃならなかったのだ、と恨めしげな目で新井を見ると、

「でもなぁ〜、あいつ結構デカイ声で文句ガンガン言ってたんだぜ?あの日のお前の格好も結構派手にやってただろ?それが泣いて謝ったから許しちまうって……お前少し甘すぎねぇか?」

「良いんだよ!長谷川くんだって、辛かったんだろうし……謝ってくれたし」

本当は多分、もっと怒って怒鳴って、一発くらい殴ってやった方が長谷川は楽になったのかもしれない……と思わなくもなかった。今日だって、休み時間に宏と一緒だったけれど、慣れない隣のクラスにまで顔を出し、申し訳なさそうにこっそりと謝って来たのだから……
いや、優が殴ったりしなかったから、長谷川は持て余した罪悪感に謝らざる負えなくなったのかもしれない。
そう思うと、これで良かったと言う気もしてくる。

要は、長谷川が二度と同じことをしなければ良いのだ。

そして……長谷川の事だけじゃなく、事を混ぜ繰り返して大事にしてしまったのは、優なのだ。
自分自身にもちょっとした疚しい部分があって、それが長谷川へ甘くなってしまっても仕方がない。
優も優で同じことを二度としないことだ。
昨日見てしまった苦しそうな父親を、もう二度と見たくないのだから……

そこまで考えて「とんだ厄介者」と新井に言われたことを思い出す。
隣で未だにぶつぶつと「やっぱ甘ぇ」と言っている本人は、優があの言葉を聞いてしまったことなんて何一つ知らない。
見つからないようにしたのだから。
居心地が悪くなって、「さあ、勉強、勉強」と気取られないようにベッドから立ち上がり、学習机に向かう。
宏と竹波が取ってくれたノートのコピーを机に置き、教科書と照らし合わせながら、自分のノートに書き込んでいく。
長谷川との賭けはこの際水に流れただろうと思っていたのに、宏と竹波はちゃっかり覚えていた。
優にとっては一週間も休むという不利な状況であったのだけれど、「まさか優、負けるのが嫌で最初から休んじゃったから……とか言い訳にしようと思ってないよな?」などと竹波に言われては、負けず嫌いの血が騒いだのだった。








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