時計台の鐘が鳴る 22 夕飯を食べている途中で優達を探しに行っていた父親が戻ってきた。 「良かった、良かった。新井くんからは優がいないって連絡が入るし、宏くんとこからはまだ帰ってこないって連絡があるし……心配したんだよ。でも無事なら良かった」 そう言いながら、優しい眼差しを宏に向ける。 怒られると思っていた優には「……おかえり」ときまりの悪そうな笑みを浮かべて言ったきり、その後は何もなかったように食事に参加した。 新井の席に座った宏のお陰で何とか気まずいながらもそう重い雰囲気にならずに済んだ。 食事が終わって、今度こそ何か言われるとドキドキしていた優だったが、駆けまわったり泣きじゃくったりした上に時間も時間だったので眠たくて早々に宏と風呂に入ってベッドに入り込んだ。 眠りに入る少し前、ベッドの下に敷いた布団に入った宏が「ちゃんと話せよ」と言った声が聞こえた。 その声に瞼を閉じたまま「うん」と言ったことは覚えている。 だけど、その後「俺、明日部活だから、早めに帰るよ」と言った宏の言葉は既に夢の中にいた優の耳には聞こえていなかった。 ぼんやりと覚醒し始め、懐かしさすら感じる見慣れた天井を見上げる。 既に日が高く昇っているのか、カーテンの隙間からは明るい光が入り込んでいる。 「宏?」 ベッドの下で寝ているであろうと思って寝起き特有の声で名前を呼んだのに返事がない。 寝返りを打ってそちらを見ると、既に部屋の隅に畳まれた布団が置かれていた。 ガバリと起き上がって、あんな大きな体が隠れるところなんてないのに部屋の中をきょろきょろと視線を彷徨わせて探す。 「宏」 もう一回呼んでみたけど返事はない。 起きて下に行ったのかもしれない…… そう思って、ベッドから抜け出し、ドアに近づいて薄く開けて見る。 日曜日だからお店は休みで、リビングからはテレビの声が聞こえている。 だけど……その中に人の話し声は聞こえなかった。 ひょっとして……帰っちゃった? そう思うと、急に心細くなった。 昨夜は宏もいてくれたから、気まずいながらもそれなりに落ち着いていられた。 掴んでいたドアノブをそのまま引いて、パタンと閉める。 くるりと向きを変えて背中をドアに預けたまま、その場にズルズルとしゃがみ込んで頭を抱えた。 どうしよう…… もしこのまま下に降りて、宏がいなかったなら…… 気まずい雰囲気が容易に想像出来た。 宏のお母さんみたいに怒鳴りでもしてくれれば、怒られる覚悟が出来る。 でも両親はそういうタイプではない。じっくりと話をしてお互いが納得するまできっと何度でも話し合いの場を持とうとするだろう…… 何と言って良いのかわからないのだ。 父親がオカマだったことをじっくり聞いたからと言って、今更事実は変えられない。 変えられない事実に……何度も何度も謝まる父親が想像出来てしまう…… そう思うと、心が重くなっていく。 胸の中でふつふつと燻る物があって、それを理解しようと思うけれど、簡単に理解したくない。 そうして優自身も、その燻っているものを理解して欲しいような、理解されたくないような気持ちだった。 わからない……自分の気持ちが…… ふと見上げたカーテンにハンガーだけがぶら下がっている 学校から帰るといつもそこに制服を掛けていたから。 ……制服 新井の部屋にそのまま置いたままだった。 昨日の竹波の言葉を思い出す。 月曜日に学校に行くって約束をした。 だから制服が、必要なんだ。 また先延ばしにするだけで、ちっとも状況が改善されることがないとわかっているのに、新たな言い訳を見つけてこの居心地の悪い場所から早く逃げ出したい衝動に駆られる。 急いでパジャマを脱いでTシャツとジーパンに着替える。 ドアを出る前に深呼吸をして、勢いをつけてそのまま洗面所まで走って行く。 「優?起きたの?」 リビングから聞こえた母親の声に、ドキリとして体が跳ねた。 だけどなんとか歯磨きをしながら「うん」とだけ答えると、「宏くん、部活があるからって帰ったわよ」と言われる。 やっぱり…… そう思うと余計にここに居たくなくなる。 適当に磨いてうがいをし、顔を洗って乱暴に拭く。 少し寝ぐせがついていたけど、父親とも母親とも顔を合わせることが嫌で、駆け下りるようにして玄関に向かう。 その音に気づいた母親が焦るようにして「どこ行くの!?」と声を上げる。 「新井くん家!制服取りに行ってくる!」 叫ぶようにして言うなり、玄関を飛び出した。 明るいと思っていた外は、どこかどんよりと曇っている。 それでも気温は高いから、纏わりつくような湿気で少し走っただけでもじわりと汗を掻く。 だけど、それ以上に家より遠くに行きたい気持ちのほうがずっとずっと強かった。 日曜日だから新井はバイトが休みだった。 休みだから、きっと家にいるだろうと思って連絡もせず、ぜえぜえと肩で息をしながらやってくると玄関には鍵が掛かっていた。 薄いドアを叩いて名前を呼んでみたけれど、留守にしているのか返事がない。 新井のアパートの鍵は一つしかない。 優がいる間、外出するならガスのメーターボックスに入れておけと言われ、昨日宏たちが来たときにそうしておいた。 少しだけ期待して、メーターボックスを開けたけれど、その中に鍵は入っていなかった。 ……もう、家に帰ったって思ってるんだろうな コンビニに買い物に行ってるだけかもしれない。 そうだといいな…… 小さな願いを掛けながら、少しだけ待ってみようと今にも軋んで崩れ落ちそうな錆びた手すりに手をかける。 赤茶けたサビでガサガサとした感触を味わいながら、どんよりと暗い雲を見つめる。 西から真っ黒な雲がモクモクと煙みたいに広がって、さわりと流れてくる風に雨の匂いが漂った。 アスファルトの蒸したような匂いに誘われるようにして、ポツリポツリと降ってくる。 手を差し出して当たった雨粒が赤サビのついた手のひらに弾ける。 最初は小さかったそれが、一気にザーザーと音を立てて降りだし、赤いサビを洗い流す。 一瞬にして景色が白い靄に掛かったようになる。急に降りだした雨に、傘を持っていない人が声を上げながら住宅街の道を走っていく。 何をしているんだろう…… 手のひらは既にびしょ濡れで、綺麗にサビは落ちていた。 帰ろうにもこの雨じゃ帰れない。 新井が帰ってきたら傘を借りよう。 ここは新井の家なんだから、そのうちきっと帰ってくる。 それまで……それまで、ちょっとだけ、雨宿り。 そう思って、徐々に強まる雨をうつろな目で見つめていた。 どれくらい経ったのか、1時間か2時間か……朝から何も食べていないことに気づいたけれど、不思議とお腹はすかなかった。 雨足は既に弱まっている。 それでも動けず、ただただ新井の帰りを待っていた優の耳に、その待ち人の声が聞こえた。 廊下から階下を覗くと、見たことのある赤い傘が歩いてくるのが見えた。 帰ってきた! 犬が飼い主の帰宅を喜ぶ心境で、タタタと駆けて階段まで行く。 そうして見えたご主人様の赤い傘の下には、新井だけではなく絵梨奈さんも一緒にいた。 大きなスーパーの買い物袋を新井が下げ、その隣で楽しそうに、嬉しそうに歩いている。 新井も一緒になって笑っているところを見て……優の心は冷めて行く。 二人で話しに夢中になっていて、優の存在には気づいていない。 ここに居ちゃいけない! 咄嗟にそう思ったけれど、既に階段には数メートルの距離に迫っている。 降りて行けば確実に見つかる。 どこか隠れる場所を…… 後ろを振り返ると、一番奥の部屋の玄関先にカラーボックスに植木鉢を並べていた。 そこに! 気付かれないようになるべく音を立てずに走ってカラーボックスの裏側に回ってしゃがみ込む。 意味もなく胸の前で指を組んでお祈りのように祈ってしまう。 見つかりませんように……と。 そうしていると、カンカンと金属の階段をヒールか何かで上がってくる音が聞こえる。 ついでに二人の話声も聞こえ出す。 何も悪いことをしているわけじゃないのに、心臓がドキドキして、うるさい。 目をぎゅっと瞑って息を潜める。 ビニール袋のガサガサと言う音と足音が近づいて、部屋の前で止まる気配がする。 「絵梨奈、鍵出して」 「どっちのポケット?」 「右」 「うっ……はい」 ガチャリと鍵が開く音と、ぎーと言う立て付けの悪いドアを開ける音が聞こえる。 もう部屋に入る……と気を緩めた時だった。 「優ちゃん、帰って良かったね」 「ああ……とんだ厄介者だった」 「ははは、言い過ぎだって!」 「いや、マジで」 バタンとドアが閉まる。 薄い壁を通して話している声は聞こえるけれど、内容は既に優の耳には聞こえていなかった。 聞こえた会話に呆然としつつも、徐々に胸の中がギシギシと悲鳴を上げ始めていることに気づく。 優にとって新井は……家業のバイトの店員で、なんちゃって家庭教師で、自分のことをなんだかんだと受け入れてくれる最後の砦のような存在だった。 何かあれば、匿ってくれるような…… いつの間にか信頼していたのだ。 だけど……新井からすれば優は『厄介者』だったのだ。 止めていた呼吸に苦しくなって、細く息を吐き出す。 その呼吸が、微かに震えていた。 ふらりと立ち上がると、玄関先にさっきの赤い傘が雫を纏って、壁に立てかけられていた。 コンクリートの廊下にその雫が染みこんで、徐々に広がっていく。 優の心に闇が広がって行くように。 そのままふらり、ふらりと階段に向かって歩く。 途中通り過ぎた新井の部屋から、絵梨奈さんの高い笑い声が聞こえてきて、我慢できずに走りだした。 カンカンと音がするのも気にすることなく、階段を駆け下りる。 どうしてこんなに苦しいのか、どうして胸の中がこんなに痛いのか、その意味を考えることを放棄したくて、がむしゃらに走りだそうとアパートの敷地から住宅街の道に飛び出した瞬間。 強い力で右腕を取られた。 「優!」 走り出そうとしていた体が大きく止められ、急激に後ろに引かれたから倒れそうになる。 それを必死に堪えて、こんな酷いことをするのは誰だ!?と振り返ると、こんな所にはいないと思っていた人物がいた。 差していた傘を優が濡れないように差し出す。 「優と入れ替わりに新井くんが制服持ってきてくれたから……」 「父さ……」 「なのになかなか帰って来ないから……迎えに来たんだよ」 優の腕を握る手は強かった。 「帰ろう、優」 「……」 もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。 見上げる父親の眼差しが、思いの外優しくて、どうして良いのかわからなくなってくる。 振りほどいて逃げたいのか、このまま飛び込んでしまいたいのか…… 自分でもわからない。 わからないがいっぱいで、嫌になる…… そうして黙っている間にも、小雨ながらも父親を濡らしていく。 頭に当たった雨の雫が束になって、父親の顔に沿って流れる。 まるで、泣いているみたいに。 「優……帰ろうよ、お願いだから」 懇願にも似た声を聞いて、我慢できずに優は父親の胸に飛び込んだ。 ぎゅっと抱きつくと、片手で優の背中をぎゅっと抱き返してくれる。 「……大丈夫だから」 苦しそうに聞こえた声に、必死で堪えていた涙が溢れ出した。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |