時計台の鐘が鳴る 20





宏の変貌振りに呆気に取られたのは優だけじゃなかった。
竹波も、聞かれている長谷川も動きを止めた。
熱と湿気を孕んだ風が、4人の頬を撫でながら公園の中を通り抜けていく。
遠くに電車の走り去る音が聞こえた。
今はいったい何時なんだろう……そんなことまで考える余裕が出てきた頃、その声は小さく、そして今にも消えそうな感じで聞こえてきた。

「父さんに、……裏切られたんだ」

そう言って、長谷川はふっと視線を地面に移した。
項垂れる感じが、暗い公園に余計に暗さを運んでくる。

「裏切られたって?」

先を続ける気配を発しない長谷川を促すように竹波が聞く。
その声にも反応をすぐには示さず、また少しだけ時間を置いて、はあという溜息の音が聞こえたと思ったら、長谷川は意を決したように鞄の中から一枚の写真を取り出す。

「これ……内山くんのお父さんだろう?」

今度の声は、まっすぐに届いた。
だけど、日はとっぷりと暮れているし、公園の電灯は頼りになるほど明るくはない。
少し距離があるから見えるはずもない。
でも、その写真に写っている人物を誰だか知っている。
最初は大きく引き伸ばして黒板に貼られているのを見た。
次は白い封筒に入れられて、下駄箱の中に入っていた。
その時制服のポケットへ入れたことによって、後日リビングの机の上で見ることになり、優は家を飛び出した。
そして……さっきまでいたコンビニの事務所の中で白々しい蛍光灯の明かりに照らされたそれを確認した。
それをコンビニの中で取り出して、もう一度鞄の中に入れたから、長谷川が万引きをしたんだと疑われた。
そして、こんなものを他人に見せることなんて出来ない。
ましてやそれを俺達3人に見られたら、自分が嫌がらせの首謀者であると知られることを嫌がった結果、あんなに面倒なことになってしまったのだから。
だから、そこに写っている人物は知っている。
それでもうんと頷くことを良しとしない自分がいて、聞かれているのに返答をしないでいると長谷川は言葉を繋いだ。

「父さんの本棚の本の間に挟まっていたんだ」

写真をじっと見ながら長谷川は話す。
時折公園を抜ける風が、行われている告白の隙間を埋めて密度を増した気がした。
埋まった隙間に息苦しさを感じる。
まるで優の口を通りの悪いマスクで塞がれたように。

「丁寧に白い封筒に入れられて……手紙と一緒に」

そこで顔を上げ、優をまっすぐに見る。

「君のお父さんに書いたラブレターだ」

「……ラ、ブレター?」

問い返す声は、喉の奥に張り付いて、ぎこちない声になった。
だけど、その声とは反対に長谷川の声は、さっきのことを忘れるほどに流暢だった。

「そうだよ。うちの父さんは君のお父さんのことを好きだったんだ」

そう言って、一瞬俯いたけど、次の瞬間くすくすと笑いながら「笑えるだろ?」と言った。
暗い電灯の明かりが、顔を上げた長谷川の眼鏡に反射してきらりと光った。

「え?ちょ、ちょっと待って!じゃあ」

「そうだよ。僕の父親はオカマが好きだったんだ」

竹波の問いを遮るようにして早すぎる返答を長谷川がした。
揶揄の混じった声で。

「許せなかった」

それでも視線は優を捉えたままで、ギラリと光る眼鏡が怖かった。

「僕には自由がなかった。小さい頃から習い事ばかりの毎日で、そのどれ一つも人より劣ることを父親は許さなかった。なのに、父親はどうだ?僕には厳しくしたくせにこんなチャラチャラしたオカマを好き?ふざけるなって言ってやりたい!遊びたいのに遊べなくて、頑張っても頑張っても認めてくれないくせに!裏切られたって思って当然だろ!?手紙の中では、読んでて猫なで声が聞こえてくるみたいな内容で寒気がした。気持ち悪いんだよ!しかもあの日は、君と君の両親とデパートで会って、帰る途中から、君よりも勉強が劣るとはどういうことなんだ?って僕を叱った。その後で書斎に入り込んで見つけたのがあの忌々しいラブレターで…… 君に僕の気持ちがわかるか!?父親の厳しい躾に追い立てられて、自分のしたいことも出来ない僕の気持ちなんて、君にわかるわけがないじゃないか!岸田くんや竹波くんと一緒になって遊んでるのに僕より成績が良いなんて不公平だ!許せなかった!父さんが君のお父さんのことを好きだなんて……こんなに頑張ってる僕が君に劣るなんてっ!不公平で、悔しくて、許せなかったんだよっ!」

自分の言葉に興奮しているみたいだった。
そこまで一気に捲くし立てた長谷川はぜえぜえと肩で息をした。
その隙間に宏が何かを言おうとして口を開いたその瞬間、

「……最初は、楽しかったんだ……君が困ってたり、慌てたり、落ち込んだりしてるのを見ると気持ちがスッキリしたんだ。でも……でもっ…」

言ってる途中から長谷川の顔がぐにゃりと歪む。
再び流れ出した涙を手の甲で拭きながら、

「き、君が、学校を休み出して……ざまぁみろって、思った、のにっ……途中からそれが僕のせいだと思うと、苦しくて、くる、しくてっ」

ひっ、ひっとしゃくりあげる声を挟みながら長谷川は泣き崩れてその場にしゃがみこんだ。

その間、優は聞いたばかりのたくさんの言葉を心の中で繰り返していた。

「当たり前だろ?」

泣き崩れた長谷川に近づき、そっと肩に手を掛けながら宏が言う。

「そんなことしたって、長谷川には何の得もないんだから」

何かを諭すように言っている宏は知らない大人みたいだった。


優は、その光景を夢の中で見ているみたいにただぼうっと見つめていた。






なんでお前が泣いてんの?

まるで……被害者みたいに……





自然と握りこぶしを作っていた。
父親の顔が浮かぶ。
母親の薄いドアを通した弱々しい声が聞こえる。
傷つけた二人の顔と声がぐるぐると頭を駆け巡る。
まだたったの一週間しか離れていないけれど……
その理由がこんな……こんな……被害妄想の塊みたいものだったなんて……

握り締めた手のひらに爪の突き刺さる感触がする。
だけどそれを痛いだなんてこれっぽっちも思わなかった。

「……けるな」

「……優?」

わなわなと震えながら、一歩、一歩と近づく優の異変に気づいた竹波が問いかける。
それがスイッチみたいに、優の頭に一気に血が上った。

「ふざけんなっ!!!」

叫んだ声は、公園の中に響いた。

「ふざけんなよっ!何だよそれっ!」

言いながら、宏の手を払って、しゃがみこんだ長谷川の襟を掴み取る。
きちんとアイロンの掛けられた白いシャツがぐしゃりと皺を寄せたけど、そんなことは気にならなかった。

「ひっ」

「お前の気持ちなんかわかる訳ないっ!じゃあ、俺の気持ちはわかんのかよ!」

そのまま立ち上がらせて、ちょっと失敗したことに気づく。
自分よりも背の高い長谷川をそれでも下から締め上げるようにして睨んだ。
強張った顔はもう怖くなかった。
眼鏡の奥の目が恐怖と涙で揺れている。
それでも腕を引いて、殴る体勢に入る。

「優!」

それを察して、すぐ近くにいた宏が優の腕を取って背中から抱き込んでずるずると引きずって長谷川との距離をとった。
優の手が離れたところに赤い血が点々とついているのを見て、長谷川がまた「ひっ」と悲鳴を上げる。
怯える長谷川の後ろに竹波が寄り添って更に距離を取った。

「宏、放せ!殴ってやる!こんな勝手な奴、殴ってやる!父さんが……っ母さんがっ……お前のせいでどれだけ傷ついたと思ってんだっ!!!」

「ゆう!」

手も足もがむしゃらに動かして宏の拘束をなんとか外そうとする。

「ワンパターンだ」

竹波がぼそりと呟くその声が優に聞こえるはずもない。

「放せってばっ!!!」

振り回していた拳が宏の顔に当たった。
耳の後ろで「いてっ」と小さく聞こえたと思ったら、羽交い絞めのまま優の左右に振りながら、宏が叫んだ。

「痛てーだろうがっ!このバカっ!!!」

耳のすぐ横で叫ばれて、キーンと耳鳴りがする。
バカと言う単語が聞こえて一瞬冷静になりかけたけど、また暴れ出す。
手と足をむちゃくちゃに振り回しながら、放せ!放せ!とわめき散らす。
それでも宏の腕は放れなかった。
ただがむしゃらに暴れたかったのに。
内側に生まれた怒りをどこかに発散したかった。
だけどやっぱり宏の腕は放れない。
放れないから、怒りの矛先が優自身に向けられる。


父さんも母さんも傷つけたのが長谷川だって思いたかった。
違うのに。
本当は、自分が傷つけたのに。
きちんと話し合いさえ出来れば、二人に辛い思いも苦しい思いもさせなくて良かったのに。
それを長谷川のせいにしたいと思った自分に自分が迫ってくる。


お前が悪いんだ。

違う!

被害者ぶってるのは自分だろ。

違うってば!

認めろよ。

違う!違う!俺じゃない!



知らない間に涙が頬を伝ってた。
振り回した頭から汗の雫も飛び散っていた。
何に対して、誰に対して何の感情をぶつけて良いのかわからない。
すべてを受け入れるには優の体も心もまだ小さかった。
入りきらない思いだけが、ただただ涙と声になって溢れ出す。
恥ずかしいことをしているのかもしれない。
中学生にもなってこんなことで泣いているのはみっともないことなのかもしれない。
でも止めることも出来ない。
抑えることも出来ない。


「……れじゃないっ!ずっ……俺じゃないっ」



宏の腕が優の体からするりと離れていく。
支えを失って膝が崩れ落ち、地面に手をついて土と一緒に握り締める。
密着して熱くなっていた背中を風が撫でる。
そこに宏の熱い手のひらがそっと置かれてゆっくり撫でる。
戸惑っているのがわかるようなぎこちない動きだった。
真っ暗で見えないはずなのに、ぽたりぽたりと落ちる涙が地面を濡らしていくのが見えた気がした。









どのくらいの時間そうしていたのかわからないくらい。
泣き過ぎたせいで鼻はつまり、瞼も腫れた。
声を上げて泣いてしまったから喉も痛い。
徐々に理性が戻ってくるほどに羞恥がこみ上げてくる。
このまま穴を掘って地中深くに潜ってしまいたい……そんなことを思っているところでザリっと土を踏む音がした。

「ごめん」

長谷川だった。

「内山くん、ごめん。本当に」

顔を上げるのが恥ずかしくて地面を見たままでいるけど、きっと長谷川は頭を下げて謝っているだろうと容易に想像できた。
それくらいその声には真摯な響きが含まれていた。

「もうしねぇよな?」

宏が念を押すと、

「しない。……出来ないよ」

そこでやっと顔を上げて長谷川を見る。
目と目が合って、「いや、俺も……」と口の中でもごもごと言っていると、

「……ぷっ」

「宏、悪いって……ひひ」

竹波の小声だけどどこか揶揄を含んだ声に顔を向けると、

「見んなっ!こっち見んなって!っはは」

「ひゃはは」

とうとう笑いを堪えることが出来なくて盛大に笑う宏と竹波がいた。







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