時計台の鐘が鳴る 18 あまりにショックな出来事だったから、眠りになんて就けないと思っていたのに、達った体は思った以上に体力を消耗したようで、新井が風呂から出てくる頃には、既に眠りに就いていた。 だから、気まずい空気を味わうことになったのは次の日の朝で…… 「も、もうっ、信じらんないっ!」 日の光が燦々と降り注ぐさわやかな朝の光景にそぐわない優の声がボロいアパートに響く。 目を開けた瞬間、新井の顔が目の前にあって、一気に昨日の夜のことを思い出し、慌てて壁際まで非難してから叫んだ言葉。 その言葉にパチンと開いた新井の目の間に、皺が寄るのにそう時間はかからなかった。 「……何が?」 もそもそと起き上がって、胡坐をかくとぼさぼさの頭をぼりぼりとかき始めた。 掠れたその声に怒りの色が混じっていた。 それでも納得が出来なくて、言葉を繋ぐ。 「きっ、き、昨日、あ、あ、あんなことしてっ……いっ、一緒の布団とか……」 反論せずにはいられなかった。 あんなことをしておきながら、一緒の布団で何事もなかったような顔をして…… 新井の手が頭から首に移って、Tシャツをめくって腹に潜り込み、脇腹をかきだす。 「……当たり前だろ?」 「当たり前じゃないっ!」 新井の手が脇腹から背中に移る。 その手の動きを無意識に追ってしまうのは、防衛本能なのだろうか…… 「当たり前だろ。俺の布団なんだから」 「うっ……」 そこで一つ欠伸をして、目を擦る。 「……気に入らないんなら、……出て行ってくれてかまわねぇよ」 「……」 はぁっと息を吐き出して両手で顔を擦って、手をどけると……いつもの顔になっていた。 そしてまっすぐに見つめて、 「俺は全然困らないから」 不敵ともとれる笑みを浮かべて言われた言葉に本気の色は含まれていなかった。 だから……少しだけホッとした。 ホッとしたのに、言葉がうまく出てこなくて、言い返すことの出来ないまま、新井の動向を目で追ってしまう。 布団から這い出し、キッチンへと向かう背中。 足首に浮かぶアキレス腱が綺麗だなぁとぼんやり見ていると、 「ほら、ぼーっとしてねぇで、コーヒーくらい淹れろ。何もしねぇなら追い出すぞ」 言われてハッとして、急いでインスタントコーヒーを淹れるために立ち上がってキッチンへ向かった。 小さな棚の前に立ち、その中にあるマグカップを取り出す。 不揃いのマグカップは、ファーストフードのマークの付いたものや、どこかの店の開店記念の品なのか、お店の名前がプリントされたものなんかもある。 この一週間で、新井が気に入って使っているものはファーストフードのものらしく、優は何の変哲もない白いマグカップを使っている。 やかんを火にかけ、湯が沸く間にインスタントコーヒーの粉を入れようと棚に手を伸ばしたとき、新井の肩と優の肩がぶつかった。 「ひやっ!」 咄嗟に出た声は自分でも想像していなかったくらい大きかった。 「うわっ!?」 びっくりした新井が手にしていたドレッシングの瓶を落とす。 『あったか亭 うらら特製ドレッシング』とラベルの貼られた瓶がゴロゴロと床を転がる。 昨日のペットボトル同様に。 「朝からでけぇ声出すなよ」 その瓶を追いかける新井を見ながら、やっぱりここの床は近々抜けるんじゃないのかと思ってしまう。 そして、シュンシュンと音を立てだしたやかんと一緒に、優の頭も湯を沸かすやかんのように徐々に熱くなっていくのを感じていた。 用意が出来、小さな折り畳みテーブルの上には、ここのところ見慣れつつあるタッパーばかりの朝食が並べられていた。 向かい合わせに座って、朝食を食べ出すも、新井の顔がまともに見られない。 そして……どうにも気まずい空気が漂って、食事の間、優は口を開かなかった。 口を開かないどころか、顔を上げることが出来ない。 意識せずにいられなかった。 あまりに優が何も言わないので、居たたまれなくなったのか、新井がパチンとテレビをつける。 助かった……と思い、目を向けると朝の情報番組だと思っていたら、土曜日の朝で、芸能人が旅に出かけて温泉に浸かってのんびりとした風景が映し出される。 『あぁ気持ち良い〜。何だか色んなことが洗い流されていく気がするわ〜』 テレビから聞こえてきた中堅どころの女優が言う言葉に、優もここのところの色んな出来事や昨日の新井とのことを洗い流したいと切に思った。 「で?お前、今日どうすんの?家に帰るのか?」 未だにもそもそと食べていると、朝食を食べ終え、出かける用意を済ませ、玄関に向かいかけた新井が振り返って言葉をかける。 「……」 フォークでマカロニサラダのマカロニを刺そうとしていた瞬間だったから、その言葉にツルンとマカロニが逃げてしまった。 「昨日あんなことしちゃたしぃ、でも、うちには帰れないしぃ、どうしよう〜、ってか?」 図星を言われたことと女の子みたいな言い方にムッと来たから、持っていたフォークを放り出して、未だに出しっぱなしにされた布団の上に転がる枕を掴んで新井に投げつける。 「おわっ!」 叫びながらも余裕な顔で枕を受け止めた新井を睨み付けると、まともに視線がぶつかってしまった。 その途端に顔に血液が集中し出すのがわかり、ぷいっと目線を逸らしてしまう。 「さっきから黙りこくって」 畳の擦れる音がして、新井が近寄ってくる気配した。 「俺は……謝らねぇよ」 わざと優の顔を覗き込むようにして言われて、ほっぺを新井の指先が突いて離れた。 「……っ!」 ドクンと一つ大きく心臓が跳ねた。 目をぎゅっと瞑ってやり過ごす。 そんな優の反応を新井が見ているとも知らないで…… 「……お前だって気持ち良かっただろ?」 言われた言葉に、もう一つの枕を掴んで新井に叩きつける。 まともに命中したはずなのに、枕だから大したダメージもないまま、「はは、照れんなって」と笑いながら優から距離を取った。 「じゃあ、俺はバイト行ってくっからぁ」 再び玄関に向かい、パタンと閉まった音が聞こえるまで目を閉じる。 はあ〜と出したため息に熱がこめられていることに戸惑いを覚える。 そして……ドアを閉めた先で、新井も同じくはぁと息を吐き出して、「調子、狂うんだよ……」と呟いていた。 朝食の後片付けを済ませ、布団をしまって掃除機をかけたら、いつも通りすることがなくなってしまった。 出かけようと思っていたのに、そんな気分になれなくて、でも部屋にいると昨日のことを思い出してしまうから、どうにも落ち着かない気持ちで優は床に寝転んでいた。 昼過ぎに母親が訪ねて来たけれど、それにもおざなりな対応をし、新井が帰ってきたらどうしよう……とそればかりを考えていた。 夕方近くなり、住人達も帰ってきたり、また出かけたりと、薄い壁を通して、廊下を行ったり来たりと足音が忙しくなっていた。 その中で、新井の部屋の前に留まる二つの足音。 トントンと控えめな音に、いつもやって来る人物とは違うものを感じて、息を潜める。 『いないのかな?』 『いや、新井くんが昼間はだいたい部屋にいるって言ってたけど……』 ぼそぼそと聞こえてくる声にバッと音がしそうな勢いで起き上がる。 たった一週間なのに懐かしく思えた。 壁が薄いことをいつも嫌がっていたけれど、この時だけは、その薄さに感謝したかった。 立ち上がったところで、またトントンとノックの音が聞こえ、『優?』と竹波の声がする。 玄関まで駆け寄って、ドアを開ける。 「優!」 声と同時に抱きついてきた竹波を受け止め、その後ろに立つ宏を見る。 「……心配かけさせやがって…」 言われた言葉に素直に「ごめん」と謝ると、手に持っていた袋を持ち上げ、「お見舞い」と「ノートのコピー」と言った。 そしてお見舞いの方の袋には、お見舞いのはずなのに「ミート藤井」と書かれていて、思わず頬が緩んでしまう。 「ゆ〜う〜!会いたかったよ〜」 まるで会えなかった恋人にでも抱きつくようにして叫ぶ竹波を引き剥がし、「上がる?」と聞くと、「いいの?」と問われ、自分の家でないから上げて良いものかどうなのか……と逡巡していたら、近くの公園に行こうと宏に言われ、3人でそこに向かうことにした。 よくよく考えてみれば、外に出るのも一週間ぶりで、何となく新鮮は空気に心の中がすっきりとしていくのを感じる。 ずいぶんと日が長くなったことも知った。 夕暮れに近づく空は、薄いブルーから赤に変わりつつあり、何となくもの悲しい雰囲気がする。 それでも一緒にいる2人が優のいなかった一週間の出来事を面白おかしく話してくれたから、そんなことを感じることはなかった。 向かった公園はあの日、新井に見つかった公園で、何となく日の当たらない当たりに蚊が潜んでいそうな気がして、そう広くはないけれど広場に面したベンチに3人並んで腰掛けた。 かさぶたになっていた傷も、もうすっかり跡形もなく消えていた。 お見舞いの品のミート藤井のメンチカツは、いつも食べているアツアツではなかったけれど、それでもぎゅっと詰まった牛肉と噛り付いた瞬間に溢れてくる肉汁に満足の笑みを浮かべ、腹に収めたところで竹波が口を開いた。 「病気ってことになってる」 「……うん」 「けど……色々あったじゃん?だからみんな噂とかしてる」 「……うん」 予想はしていた。 どんな風に言われるかまではわからないけれど、きっといじめっぽいことがあったのと関係している……とかなんとか言われてるんだろうなってことを。 確かにそれが発端ではあったけれど、今はもう何をどう収拾して良いのか自分でも分からなくなっていた。 「犯人も……わからないままだ」 「そうそう。優が学校に来なくなってから、何も起きなくなったんだ」 「そう」 犯人か……と口の中で小さく呟く。 いったい誰が何のためにあんなことをしたのだろう? それさえなければ……父親ともあんな風になることはなく……新井とだって…… そこまで考えて、昨夜の光景が浮かびそうになったから、優は慌てて手を振って打ち消そうとした。 頭の中で考えていることが、漫画の噴出しのように飛び出して、それが2人に見えるはずもないのに…… 「な、何!?」 竹波がびっくりして声を上げたから、「蚊!蚊がいたんだよっ!」と慌てて誤魔化す。 「ここに居ても、蚊に血を吸われるだけだな……喉、渇いたし、コンビニでも行くか」 宏の提案に急いで賛成して公園を後にする。 空はブルーから紺に変わり、西の空だけが赤く染まっている。 「俺、コンビニがどこにあるかも知らない」 「一週間もここに居たのに?」 竹波に言われて、この一週間、どれほど自分のことしか考えていなかったのかを思い知り、苦笑を浮かべる。 「宏は詳しいの?」 優の問いに宏がうんと頷く。 「ほら、吉本のばあちゃんいるだろ?」 「ああ、足の悪い」 「ばあちゃん家がこの辺で、時々母ちゃんに惣菜の宅配頼まれて持って来てるから」 「えらいねぇ宏は〜」 そう言って、竹波が優に視線を寄越すから、「俺だって、時々は手伝ってたもん」と返す。 小学生のときは時々弁当の出前をしていたりもした。 おばちゃんや、小さな子供のいる若い主婦ばかりのバイトだったから、優が家にいるときは、駆り出されたのだ。 それも新井が来てからは、引き受けてくれている。 何かあったら危ないから……とか言って、距離によって違うらしいが、概ね出前一回200円とか何とかで話をしていたのを思い出す…… ……カネゴンだ。いくら苦学生だからって……と呆れていると、 「そこの角を曲がったとこにコンビニが…」 宏が先を促して、少し先にある角を指差した。 そして、ちょうどその時、その角の向こうから、 「待ちなさいっ!!!君は何をやったかわかっているのかっ!!!」 ものすごい怒号が聞こえて、思わず3人とも体を跳ねさせて足を止めてしまった。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |