時計台の鐘が鳴る 15 テーマ曲はダースベーダー。 ダーンダーンダーンダダダーンダダダーンダー♪てな感じに聞こえるのは優だけじゃなく、さっきまで新婚さんごっこを楽しんでいた二人も箸を止めて見つめ合う。 それはもう盛大に。 足音をダンッダンッと踏み鳴らし、鉄の階段の奏でるカンカンなんて可愛らしい音でも、古いアパートを気遣った音でもなかった。 その足音が一度部屋の前を通り過ぎ、慌てて新井の部屋の前に引き返して来た思った瞬間、「新井くん!」とアパート中に聞こえるような声が響いた。 そんな声にも「開いてます」と冷静に声を発しながら腰を上げた新井が玄関に辿り着く前に、壊れるほどの力でガバッと音がしそうなほどの勢いでドアが外側に開けられた。 「ゆ、ゆうっ!」 目が合った瞬間。必死の形相で、必死の声。 乱れた髪に、流れる汗。 あまりの勢いに、ダースベーダーのテーマ曲を頭の中で流していたから、動けずにいた。 その勢いに気圧されていたけれど、ハッと我に返って優は逃げ道を探す。 新井もびっくりして飛び跳ねる。 絵梨菜に至っては動くことすら出来ず、野菜炒めのにんじんを箸で掴んだままだった。 瞬時に考えたのは、ありきたりだがトイレに行こうか、風呂場に逃げ込もうか、ということだった。 だけど、どちらも玄関のすぐ近くにあるから、そっちに行けば捕まってしまう。 窓……という手もあったのだが、2階から飛び降りる勇気はなかった。そこで見つけたのは押し入れだった。 それをたったの一瞬でやってのけたのは、本能によるところだろう。 絵梨菜の横を通り過ぎ、押し入れの襖に飛びつくようにして走っていくのと、武志が靴を脱いで部屋に上がり込むのとが同時くらい。 だけど、一瞬の差で、優は暗く、狭く、暑い押し入れの中に滑り込み、中から開かないようにその辺りにあるものを手前に寄せてもぐりこむ。 「優!」 『帰って』 咄嗟に出た言葉だった。 「優」 『帰って。俺、聞きたくないから』 思ってもいないことが口から出てくる。 困らせたい訳じゃない。 聞かれたくない、知られたくないことが多すぎるからだ…… 「ゆーうぅ〜」 父親のこんな声、初めて聞いた。 泣きそうで情けない声。 「でも……そうやってると、ユキがいなくなったときのことをちょっと思い出す」 なんて言ってるから、案外演技なのかもしれない…… 汗がじんわりと噴き出してくる。 新井の部屋だって涼しくはないけれど、それでもここよりははるかに涼しい風が吹きこんでいた。 「優」 『帰ってよ』 その声に「お前も帰れ」と新井の声がする。 新婚さんごっこの邪魔をしたのは悪いと思うけど、水を差すような一言にカチンとくる。 暑いのもいけないのかもしれない。 「聞いて欲しい」 『聞きたくないって言ってんだろっ!』 初めてこんな口答えをした。自分の記憶にある中で、だけど。 「ゆーうー」 自分で自分の発言にびっくりしているのに、当の父親はそんなことも気にもせず、尚も様々なレパートリーで優の名前を呼ぶ。だけど、 「優!」 とうとう堪え切れなくなったのか、今までに聞いたこともないような怖い声が聞こえた。 「新井くんに迷惑がかかってるんだ。うちの問題だろ……うちで話し合おう」 誰が……誰が問題を作ってるんだ…… 俺なのか? 違う! 『と、父さんじゃないかっ!問題を作ってるのは!』 その発言をした拍子に優の後ろの壁がドンっと叩かれる。 隣人がうるさいと苦情を言っている。 さっきからずっと耐えていてくれたのだろう。 多分、声は筒抜けだ…… 一瞬動きが止まって、狭い押し入れの中で、優の息遣いだけが響いた気がした。 吐き出す息も、吸い込む空気も熱い。 息苦しささえを覚えながら、それでも外の声を待ってみた。 なんて……言うんだろう…… しばらくの沈黙の後、畳の擦れるような音がした。 「優……ごめん」 また、ごめんだ。今日聞いたごめんの中で一番か細い声だった。 もう、嫌だった。 暑いし、埃っぽいし、さっき蚊に刺されたところは盛大に痒いし、暗いし、狭いし…… こめかみから顎に掛けてつつーっと汗が一筋流れた。 それが引き金のように、優の体を動かした。 襖に手をかけてバッ音がしそうな勢いで開く。 眩しさに目が瞬いて、一度ギュッと瞑る。 だけど、すぐに目を開いて、最初に見えたのは……父親のつむじだった。 畳に擦れるんじゃないか……というくらい額をつけて 大きくて、男らしくて、いつかはあんな風になりたいなと思っていた、その父親が土下座…… 急激に情けなくなってきた。 父親が息子に土下座なんてするなっ! そんな気持ちが、どんどん膨らんで目の縁に涙が溜まってくる。 させているのが自分だと思うと尚更に。 「頭、上げてよ……」 「優……本当にごめん。学校で……いじめられたり、してんじゃないかと……」 「そんなのどうでもいいよ!頭、上げろよっ!そんな……そんな情けない父さんなんて見たくないっ」 「どうでもよくない!」 頑として頭を上げない父親の腕を引っ張って立たせようとした。 だけど、やっぱり大きくて、重くて、持ち上がらなくて、ぜえぜえと息だけが上がっていく。 「……帰ってよ……帰って……お願いだからぁ」 どうにもならない状況が苦しくて、泣き叫ぶようにして言うと、やっと顔を上げた。 「一緒に帰ろう」 「……嫌だ」 「優」 「い、やだ……いやだ……」 ひたすら繰り返しながら首をフルフルと横に振る。 汗で濡れた髪がその度に頬に触れた。 首が痒い。 怒りでなのか、泣いているからなのか、さっきの押し入れが暑すぎたのか…… 体温の上がった体に、刺されたところが痒くて我慢が出来ない。 父親の熱い体から手を放して、首に当てる。 色んな感情がそこに集中して、そこにこの状況を作り出した元凶があるような気がして、思いっきり掻き毟りながら「帰ってっ!」と叫んだ。 今度こそ、両隣からドンドンッと壁が叩かれる。 幾つかのピリッした刺激の後に、つーっと首筋を伝うものがあった。 「優!」と言って、父親が手を伸ばそうとしてきたから、一歩後ずさってその手から逃れる。 その瞬間、傷ついた顔をした父親を見た。 「優ちゃん!こ、これ」 ずっと心配そうな面持ちで見守っていた絵梨菜が、咄嗟の動きで駆け寄ってくる。 そっと首筋にタオルを当てながら、「痛い?」と聞かれるけれど、痛さも、あれ程までに感じていた痒さも感じなかった。 されるがままの状態になっていると、今まで黙って見守っていた新井が口を開いた。 「武志さん、今日のところは帰った方が……」 「うん……でも」 ちらっと優の方を向いてくる。 母親が見せた、留守番をする犬の目で…… 「無理矢理連れて帰っても、一緒だと思いますよ」 「そうかな……」 言って、下げていた頭を更に下げてうなだれる。 「タオル、濡らした方が良いかな?血は止まってると思うけど……さっき部屋に来た時も真っ赤になってたもんね」 そう言って、キッチンへと手を引いて連れて行かれる。 その様を父親の目線が追いかけてくる。 そんな目をするな……父親なんだから……手を引っ張って、連れて帰ってくれて良いのに…… なのに、 「そうだね」 絵梨菜にされるがままになっていたら、ぽつんとそんな声が聞こえてきた。 「無理矢理連れて帰っても、一緒かもしれないね……新井くん」 居住まいを正し、父親が新井に向き直る。 その先を想像して、まっすぐに見ることが出来なくて、視界の端にその姿を入れる程度にしていた。 水道の水で濡らされたタオルが首筋に当てられる。 さっき公園で飲んだ水同様、生ぬるいはずのそれは、思った以上に冷たくて、体がびくりと跳ねた。 相当に体が熱くなっているようだった。 「冷たかった?ごめんね」 絵梨菜まで謝ってくる。 もう誰が悪いのかなんてわからなくなってきた。 でも……今一番悪いのは自分のような気がしている。 我儘を言って、みんなを困らせているみたいだ…… タオルの余ったところで、顔も拭かれた。 泣いていたことを思い出す。 「良いのかな?もう充分迷惑を掛けていると思うけど……その……」 「まぁ……仕方ないですよね」 新井が苦笑を浮かべて言っている内容が、自分のことだと思うと嫌になる。 迷惑を掛けたい訳じゃない。 だけど、自分の心がわからない。 さっきまで「帰って」と言っていたのに、心の底の底には、一緒に帰りたいと思っている。 それが、どうしても口に出すことが出来なかった。 ここで帰らないと、もう家に帰れないような気がしているのに…… 「じゃあ……よろしくお願いします」 そう言って、また頭を下げる。 「やめてくださいっ!」 新井も慌てて父親の頭を上げさせ、だけど、やっぱり頑として、もう十分だと思うまで頭を下げていた。 そうして、玄関に向かいながら、 「絵梨菜ちゃんも悪かったね。せっかく二人でゆっくりしてたのに……」 「いえ……」 小さく首を振って、絵梨菜も苦笑いを浮かべる。 小さな玄関に降り立ち、靴を履いたところで、父親が優に視線を寄こす。 何となく、ちゃんと見ていないといけないような気がして、視線を合わせる。 ちょっとだけ、父親が苦笑いをした。 ひょっとしたら、今の自分は……留守番の犬のような目をしているのかもしれない。 「優。新井くんの言うことを聞いて、迷惑を掛けないように……明日迎えに来るから。その時は、ちゃんと話を聞いて。な?」 その言葉に返事をしようとしたけれど、出来なかった。 また涙が滲みそうになって、返事をしたいのに、溢れる涙をこらえていたら何の返答も出来なかった。 来た時とはまったく違う、静かな動作でドアが開かれる。 そうして、「よろしくね」と新井と絵梨菜にまた頭を下げて、玄関を出て、新井の部屋を後にした。 パタンと閉じたドアの音が、妙に寂しかった。 「俺、送ってくるわ。絵梨菜、優のことよろしく」 そう言って、新井も部屋を出ていく。 カンカンと静かに階段を下りていた音が、すぐに二つに重なって遠ざかっていく。 「もう一回、拭いておこうか?汗かいちゃったし……」 首筋に当てていたタオルを絵梨菜が掴んで外した瞬間、それが体を支えていたかのように、優はそこにしゃがみこんだ。 「優ちゃん!」 一瞬倒れたのかと思った絵梨菜が焦った声を出して、横に跪く。 顔を覆って泣いている優を見て、ホッとした声で「優ちゃん」と言って、頭をぎゅっと抱きしめてきた。 どうして、話をきちんと聞けなかったんだろう どうして、父親にあんな悲しい顔をさせてしまったんだろう どうして、自分は本当にしたいことをできなかったんだろう…… 連れて帰って欲しかったのに…… どうして、父親は…… どうして、 どうして…… 自問自答の嵐が頭の中で吹き荒れて、決壊する。 幼子が癇癪を起したように泣きじゃくっているその間、絵梨菜はずっと、背中や頭を撫でてくれていた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |