時計台の鐘が鳴る 14




ごめんって言った。
父さんは、ごめんって。

走りながら、さっき父親の発した声がそのままに何度も何度も頭の中で繰り返す。
母さんの「優!」と叫ぶ声も。
それを払うようにしてがむしゃらに腕を振る。足を上げて前に進む。
苦しい……

どうして何も聞かずに飛び出してしまったのか……

ごめんの先に続くはずだった言葉を聞くのが嫌だった。
だからと言って、あんな風に飛び出してしまったら、父さんも母さんもきっと心配する。

それがわかっているのに、あの場にいることが出来なかった。

日曜日でもそんなに遅い時間じゃないから、通りにはまだたくさんの人がいた。
向かいからやって来る人たちを避け、歩いている人の背中を交わしながら、それでも足を止めることなく走り続けた。
だけど、時々、誰かとぶつかって、「すみません」と発したはずの言葉も、その人に聞こえることなく通り過ぎる。
優の走る速さに言葉が連れ去られるように。
生ぬるい風が出ている肌を撫で、内側から発せられる熱が汗となって皮膚を流れた。

苦しくて、苦しくて、止まりたいのに止まれない。
捕まりたくないはずなのに、追ってきて欲しいと思っている。

相反する気持ちが……
たくさんの気持ちが、体の中で生まれては弾けて散っていく。

聞きたかったはずなのに、聞きたくなかった。
心配するとわかっているのに、飛び出した。
捕まえて欲しくないけど、追いかけて欲しかった。
子供でいたいけど、子供扱いをされたくはない。
助けて欲しいけど、知られたくない。
わかっていたけど、真実を知りたくなかった。
苦しいのに、止まれない……



でたらめに走って、息が上がって、商店街から遠のくようにして住宅街に入り込んだ。
やっぱり苦しくて、後ろを振り返ったけれど追ってくる気配がなかったから足を緩めた。
はぁ〜っと腹の底から息を吐き出し、その勢いのまま大きく息を吸い込んだ。
それでも呼吸は苦しくて、ハアハアと夏場の犬みたいに息をした。
口の中にかろうじて残っていた唾を飲み込んで、テーブルの上に置いてきた麦茶を思い出す。
飲んでくれば良かった……
夕飯を食べた直後に走ったから、右の脇腹が痛む。
そこを右手で抑えたまま、お腹を抱えるようにして公園を探して歩いた。
いきなり飛び出してきたから財布なんて持っていない。
だけど喉が渇いていた。公園に行けば水飲み場くらいあるだろう。
流れる汗をTシャツの肩で拭って、ここがどこだか確かめようとした。
見たことがあるようでない住宅街。
汗をかいてべたついた肌を、住宅街の間を縫うようにして吹いた風が撫でていく。
等間隔に設置された街頭の明かりを頼りに、また随分と歩いたとき、やっと小さな公園を見つけた。
思い切り水を飲んで、ついでに顔も洗う。
タオルやハンカチもないから、Tシャツのお腹の部分で顔を拭いた。
そうして、決して明るくはない電灯の脇にあるベンチに腰を下ろして、空を見上げる。

これから、どうしよう……

いつまでもここにいるわけにもいかない。
でも、どこに行けば良いのかわからない。
探しているだろうか?
探しているに決まっている。
母親も優を追いかけようとして、玄関に向かったけれど、父親に「優が戻ってくるかもしれないから…」と止められて、渋々家に留まっている。それが夜道は危ないからという意味を持っていることを母親も知っているから……
そういうことが容易に想像できた。
優が知る限り、父親は男らしくて、優しかった。
小さな頃から大きな声で怒られたこともなければ、手を上げられたこともない。
優しくて、大きくて……母親を、優を、大切にしてくれているのは、充分にわかる。
だけど……オカマだったのだ。
あの「ごめん」でそれがわかってしまった。
見えていたものが少しだけ滲んで見える。

こんなにショックだったなんて……思わなかった。

滲んだものを誤魔化すようにして瞬きを数回した。
住宅街のどこかの家で犬の鳴き声が聞こえた。
それを合図にそこら中の犬が鳴き始める。
それを飼い主が咎める声もする。
人気のない公園に一人。公園のフェンスに沿って植えられた木々は、手入れをされていないのか鬱蒼としているのが家々の明かりで影になって見える。
電灯に照らされ、それでもくっきりと見えないブランコや滑り台をぼんやりと見て、近くの道を走る車の喧騒を聞いていた。
その喧騒の中に、自分の名を呼んでいるような声が混ざってる気がした。

「――ぅ」

気がしていたものが確信に変わる。

「ゆーうー」

誰の声かすぐにわかった。
見つかりたい気もしたが、見つかりたくない気もした。
だけど、父親よりは数段気が楽だった。
明らさまに見つかるのは何となく気に入らなくて、ベンチから立ち上がって、電灯の明かりが届きにくい滑り台の階段に腰掛ける。
自分から出ていくことは間抜けに思えて、だけど、そのまま通り過ぎられるのも嫌で……
相反する気持ちが、ここでも生まれる。
やっかいな自分の思考を、持て余してしまう。

「優ー」

また名前を呼ぶ。
少しだけ必死で、少しだけだるそうな声。

「……どこ行ったんだ、あのガキ。ったく……」

悪態が聞こえて、頬が緩んだ。
顔を洗った時に髪の毛も濡れたのか、雫がつつーっと汗と一緒に顔のラインに沿って流れた。
それを肩口で拭う。
公園の中を歩いてくる足音がザッザッと聞こえる。
息を顰める。
近づいたと思ったら、遠のく。
滑り台の階段は公園の外側に向かっているから、歩いている人物の気配は背中で感じることしかできない。
それに耳を澄ませ、神経を尖らせて集中していた。

「優ー」

大きくはなく、気の抜けた声。
少し離れたブランコの辺り。
ギッと音がして、キーキーと錆びた鎖が小さく鳴った。

新井がブランコに……

頭に思い浮かべると、実に似合わない。
想像すると吹き出しそうになって、慌てて浮かんだものを打ち消す。
そこに……突如として嫌な音が耳のすぐそばでした。
夏の夜に安眠を妨害する例の虫。
音を立てないように、手で払う。
だけど、またすぐに「ブーン」と耳のそばで音がする。
追い払っても追い払っても聞こえてくる羽の音。
一匹どころではなく、数匹いることが分かる。
幾度となく繰り返しているうちに首の辺りに痒みを感じた。
見つかりたくないけれど、見つけて欲しい優にとって、絶好のチャンスのような気もしたし、また、絶命のピンチのような気もした。
でも、何しろ痒いのだ。黒と白の縞模様の腹が優の血液で満腹になっていくところを想像する。
余計に痒くなってきた。
我慢できない。
音を出来るだけ小さくして、そっと手を近付けて痒みを発するその場所を抑えようとしたその時、

「おい」

ぱっちん

間抜けすぎるような肌をたたく音を盛大に低い声が遮った。
たらふく優の血を吸った蚊が手の中でつぶれたのかどうかもわからない。
その手を首筋に当てたまま、ギリギリと油を注されていないブリキの人形が首を動かすようなぎこちない仕草で恐る恐る声のする方を見れば、日本アルプスか日本海峡か……
とにかくそこには、深く深く眉間に皺を寄せた新井がいた。








「ほら」

玄関の三和土に立っていると、新井がいつかのあの日のようにタオルを投げて渡した。

「でも、良かったね。優ちゃん、見つかって」

「ああ」

汗を拭っていて、手のひらに血が付いているのを見つけた。
どうやらさっきの蚊を潰してしまったらしい。
だけど、首には我慢できないほどの痒みが走っている。
引きずられるように連行されている間も、痒くて痒くて掻き毟ってしまった。
それなのに、まだ痒い。
渡されたタオルで手を拭いたけれど、こびりついた血はなかなか取れなかった。

「武志さん、すぐ来るって」

「電話したのっ!?」

「当たり前だろうが」

「……」

「まぁまぁ、とりあえず上がったら?新ちゃんも、ご飯途中だったでしょ?」


新ちゃん……あの時は新井くんだったのに……優が三和土に立っている理由。
それは、連れて来られた新井の部屋に、絵梨菜さんがいたからだ。
薄いブルーのワンピースに、ピンクで胸にチューリップのアップリケを付けたかわいらしいエプロンをしていた。

「温め直すから。優ちゃんは食べた?」

「……はい」

「そう。じゃあ、何か飲む?暑かったでしょ?ジュースが良いかな?って新ちゃん家の冷蔵庫にジュースがあるかどうか。発泡酒があるのは知ってるんだけど……」

そう言って、玄関脇に置かれている冷蔵庫を開けて、中からコーラの缶を取り出した。

「あった。良かったね。ほら、上がって、上がって」

手を引かれて、無理矢理上がらされそうになったから、急いで靴を脱いだ。
仏頂面をしている新井の横にポンポンと肩を押さえて座らされる。
折りたたみの小さなテーブルの上に缶をゴトンと置いて、キッチンへと行ってしまった。

絵梨菜さんが何かを炒めているジュージューと言う音が聞こえる。
あの日会った通りに可愛らしい人で、良いにおいも健在なのに、新井の部屋にいることが何となく許せない。
「新ちゃん」と呼んでいるのも、何となく気に入らない。
でも……彼女なんだ。新井の。

「で?もう少ししたら、武志さん来るけど……帰るんだよな?」

公園で見つかって、どこかでホッとしていた。
新井なら、嫌だと言えば泊めてくれるような気もした。
先日もそんなことを言ってくれたから。
帰りたくない。
正直な気持ちだった。
既にオカマだったという事実を知った今、何を話せば良いのだろうか……
写真の出所を聞かれたら困る。
それに伴って色々とされていることも白状させられるかもしれない……
気が重い。
だから、新井で良かったと思った。
いくら人通りの少ない住宅街といえ、往来でするような話でもなかったから、新井の部屋に着いたら、何となく打ち明けてみようか……と黙って引きずられるままについてきたら、絵梨菜さんがいたのだ。
これでは何も話せない。

帰りたくないのに、状況を考えると、帰らなければならないような雰囲気だった。

「はい。優ちゃんとこに比べたら、おいしくないかもしれないけど……」

おいしそうな湯気を立てた野菜炒めを筆頭に、卵焼きやほうれん草のおひたし、味噌汁などが狭いテーブルに置かれる。

「んなことないって。絵梨菜の料理、いつもうまいよ」

優しい笑みを浮かべて答えた後、いただきますときちんと言って、箸をとって新井が食べ始める。
その向かいに腰を下ろし、上目使いじーっと新井の顔を見て、飲み込んだのを確認してから「どう?」と聞いている。

「うまい」

「良かった〜。こっちは?」

などと、新婚さんごっこのようなやり取りにも居た堪れなくなって、缶のコーラをちびちびと飲む。
そこに……今にも崩れそうな新井の住むアパートの階段を、誰かが崩壊するんじゃないのかと思う勢いで上ってくる音が聞こえてきた。

「誰か」だなんて……見なくてもわかる。きっと父親だ。







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