時計台の鐘が鳴る 10 「あっ」 「何?」 入れ替わって優が湯船に浸かり、今は新井が髪を洗っている。 ぶくぶくと立つ新井の頭の泡を見ていて、忘れていたことを思い出した。 「制服、洗わなきゃ」 「あ?ああ、そうだったな」 一瞬手を止めたけれど、すぐにシャカシャカと洗い始める。 思い出すと居ても立ってもいられなくなってきて、バスタブの縁まで寄って、俯いている新井の頭に話しかけた。 「明日も着なきゃいけないから」 「うん。知ってる」 そんな優の焦りを察することなく冷静な声が返ってきて、何となくイライラっとする。 ドロドロのままに帰って親に心配を掛けるわけにもいかないし、びちゃびちゃなまま着て学校にいくわけにもいかない。 そんなことをすれば、今日の明日で、何を言われることになるのか…… 湯船に浸かっているのも良くないのか、一気に頭に血が上って声が高くなった。 「知ってるじゃなくてっ!洗わないと乾かないよ!」 「わーかってるって。洗面器に湯、入れろ!」 言葉と同時に泡立った手に握られた洗面器が目の前に突き出される。 「シャワーで流せばいいじゃん」 「……もったいねぇだろうが」 下を向いたまま、ぼそりと告げる新井の声が低くて怖い。 急いで洗面器を掴んで湯船の中から湯をすくって、差し出されたままになっていた手に渡した。 ザバンと湯が跳ね、新井の足元に泡が流れていく。 空になった洗面器を受け取って、湯をすくって新井の手に渡す。 それを数回繰り返し、リンスを施して、また湯を浴びる。そこでやっと新井は顔を上げた。 流れる湯が目に入るのか、片方の目だけをぎゅっと瞑って、金茶の髪をかき上げる仕草に、ドキリと優の心臓が跳ねた。 白く煙る狭い浴室の明かりは、少しオレンジがかっていて、水滴がキラキラと新井の髪のように金色に光る。 先ほど優が体を洗っていた青いナイロンタオルで、同じように洗い出した新井の体もキラキラと光っている。 着やせするのか、一見、細くガリガリに見えていた体には、うっすらとだが綺麗に筋肉がついていた。 その体が白い泡に徐々に隠されていく。 湯気の中に、ボディソープの香りが濃く香りだす。 艶かしく洗っているわけではなく、男らしくガシガシと洗っているのに、それに合わせて心臓が…………ドキドキとして、頬に血が、……上って…… なんと言うか……これが、大人の色気ってやつなのかも…… ぽや〜んと見えていた視界に、ハッと気づいて、咄嗟に視線をはずした。 急いで横を向いてプルプルと頭を振っていると、「そんなことしてっと、のぼせるぞ」と言われ、振るのをやめた瞬間、くら〜っと視線が揺れる。 くすくすと笑う新井の声を聞きながら、バスタブの縁に掴まって、落ち着くのを待っていると、「湯」と言って新井が洗面器を差し出してきたから、我に返って、湯をすくって手渡した。 ザバンザバンと湯をかけ終え、すっくと新井が立ち上がり、浴室の扉を開けて出て行く。 その背中を見ていると、つられるようにして白い湯気も浴室から脱衣所に流れていく。 幾分クリアになった視界にさっきまでのドキドキが少しだけ落ち着いてくる。 なんだったんだろ……さっきの…… そんなことを思っていると、手に制服と洗濯洗剤を持って新井が戻って来た。 腰に白いタオルを巻いていて、それにもどこかホッとしている自分がいる。 「結構派手に汚れてんなぁ」 「……うん」 バスタブで洗うと言う新井に追い立てられるようにして、脱衣所に逃げ込む。 どうやって洗うのか気になって後ろから見ていると、「クリーニング屋でバイトしたことがあるから大丈夫」と言われた。 型を崩さないように慎重に扱ってくれている。それに安心して、バスタオルを取って体を拭く。 さっきまでのボディソープではない洗剤の香り。 持っていたバスタオルを顔に当てて、鼻から空気を吸いこむと同じ匂いが広がった。 「電気、消すぞ」 「うん」 部屋の電気が消えると、真っ暗になって、新井がもぞもぞと隣に入り込んでくる。 苦学生だとアピールしてやまない新井の部屋に客用の布団があるだなんて思っていなかったけれど、まさか二人で同じ布団に寝るとは思わなかった……。 しかも敷きっぱなしにしてある、せんべいもせんべいのぺったんこの布団。 「もうちょい、そっち行け」 「もうギリギリだって!」 「んなことねぇのは俺が一番良く知ってるんだよ」 そう言ってぎゅうぎゅうと押してくる。 布団と畳みの境目ギリギリまで追いやられ、背中を新井に向けるようにして横を向く。 いつもよりもずっと早い時間に布団に入っているけど、色んなことがあって、瞼は少し重たくなっていた。 しーんと静まり返った部屋の中に、隣の部屋のテレビの声と、未だに降っている雨の音がぴちゃりぴちゃりと聞こえる。 「なぁ」 「……ん」 「何があった?」 「……」 「そんなに言いたくねぇのか?」 「……新井には関係ないじゃん……」 「呼び捨てにすんな。新井様って言えって言っただろうが」 「嫌だ」 言うと同時にパコンと後頭部を叩かれる。 痛くもないのに「痛い」と声を上げると、背中で新井がもぞりと動く。 「俺の下の名前、知ってるか?」 唐突に投げかけられた質問が、後頭部のすぐ後ろでしたから、新井が同じ向きを向いたのがわかった。 「……しんいち」 「漢字は?」 「知らない」 「新しいに一で新一」 「……」 頭の中で『新井新一』と変換してみる。 ……おかしい。 『新』の字が二つ。 世の中に色んな『しんいち』と書く漢字があって、あえてその漢字を選ぶことがあったりするのだろうか? だけど、人の名前に使う漢字には色んな意味がある。 意味があってその漢字を選んだのなら、それを優がおかしいと思うことの方がおかしいのだ。 そんなことを思っているところに新井がまた言葉を紡ぐ。 「小学校2年生のときに、母親が再婚して、新井って苗字になった」 ああ、そうなんだぁと落ちていきそうな瞼に抵抗しながら思った。 「小学生ってそういうのが一番のからかいのネタだろ?『しんしん』ってパンダみたいだとかってからかわれたんだ」 「……うん」 新井の声が遠くなっていく。 「母親も結構気にしててさ。だから絶対に負けるわけには行かなかった」 何に対して負けるわけにはいかないのだろう…… 「だから、お前も負けるなよ」 ……何に? 俺は、何に負けたり勝ったりするのだろう…… 「聞いてんのか?」そう言って、新井が肩を押したけれど、「ん」と答えたのがやっとで、とてもこの眠気には勝てそうになかった。 「聞けよ」とまた体を揺すられたけど、それもただの安眠妨害にしか思えなくて、「んん」と手を払いのけた。 だけど……ここに泊めてもらって良かった。 それだけはわかった。 きっと家に帰っていたら、こんな風に眠りに着くことすら出来なかったような気がする。 「ありがとう」なんて恥ずかしくて言えないけど、いつか新井にちゃんと話そう…… そんなことを思いながら、眠りの世界に入って行っていたから、まだ新井が話している声が聞こえてなくて、後であのとき言っただろ!と怒られるなんて思いもしなかった。 翌朝、起きて用意が整ったのはギリギリの時間で、降り続いていた雨に赤い傘を押し付けられながら「早く行け」と追い出した新井に、礼を言いそびれたのを思い出したのは、優の家の前で母親と話しをしている宏の背中が見えたときだった。 父親にも母親にも言わなかったし、聞かなかった。 そうして、心のどこかで、このまま普通の日常に戻ることを期待していのかもしれない。 でも……それは甘い考えだった。 「……ない」 靴を履き替えようとして、下駄箱を開けたら上履きがない。 綺麗さっぱり姿を消した上履きの代わりに白い封筒が一つ。 恐る恐る手にとって開けてみると、昨日黒板の横に貼られていた、ミニスカサンタの写真だった。 一気に怒りがこみ上げてきて、見ていた写真を封筒ごとぐしゃりと握りつぶす。 わなわなと震えているところに上履きに履き替えた宏がやってきて、声が掛けられた。 「どうした?」 宏の声が聞こえても、そこから動くことが出来なかった。 背中越しに下駄箱の中を見た宏が、「今度はシューズか……」とぼそりと言った言葉に、何となくうんと頷いたのがやっとだった。 今、口を開いたら、言葉と一緒に涙まで出そうだった。 「……事務所行って、スリッパ借りて来てやるから、待ってろ」 な?と顔を覗き込むようにして言われて、下を向いた。 昨日から、視線をまっすぐ向けることが出来なくなっている気がする。 その言葉にもうんと頷くだけで反応して、気持ちを落ち着かせるために下駄箱の隅に身を寄せた。 だけど、手の中に握りつぶした写真がある限り落ち着くなんて思えなかった。 そして、ゆっくりと握り込んだ手を解く。 徐々に見えるミニスカサンタをじーっと見て、直感的に父親だと思った。 見れば見るほど、父親に似ている。 笑った時の目の細さや顎のライン。隣に並ぶ人がいないから背の高さなどはわからないけれど…… 「優」 戻って来た宏の声に持っていた写真をポケットにねじ込み、急いで下駄箱に向かうと、ぽんと床に病院などでよく見るビニール製のスリッパが放られた。 「ありがとう」と礼を言いながら履き、一瞬悩んで履いてきたスニーカーを手に持つ。 「持ってくのか?」 「……うん」 夜の間に新聞紙をつめ、さんざんな文句を言いながらも朝にドライヤーで乾かしてくれた新井の気持ちを思うと、失くしたり、昨日のように濡らされることが嫌だった。 ちなみに、新井に借りた赤い傘は、母親にバイトに来たときに渡してもらうことにして、自分の傘を持ってきた。 「これ、使え」 持っていたスポーツバッグから、スーパーのレジ袋を出して宏が渡してくれる。 「部活で汗かいたもの入れるのに持って行けって母ちゃんに言われたから」 それをありがたく受け取り、スニーカーを袋に入れる。 「しっかし、誰だろうな……その犯人」 「……うん」 犯人なんて言葉を聞くと、ドキリとする。 『卑劣』なんて難しい言葉が頭に浮かんで、確かに血が上ったけれど、確かに人のものを隠したり、傷つけたりするのは良くないけれど…… それでもその人物にとって、優が良くないことをしたのか、はたまた単に気に入らない存在なのかはわからないけれど、理由があったように思う。 歩くたびに、ビニールのスリッパのペタンペタンという音と、レジ袋のカシャカシャと言う音がする。 雨で廊下が湿っていて、必要以上に底が張り付くスリッパは歩きにくい。 それでも必死に歩いて、階段を上ろうとしたところで、竹波がおはようと声を掛けてくる。 「優、シューズどうしたの?」 「……さあ」 「さあって……」 「誰かに、隠されたか、捨てられたか……」 優に代わって、宏が言うと、「だから気をつけろって言ったのに……」と、何とも言えない顔で優を見る。 「そのレジ袋の中身は?」 「スニーカー」 「失くされないために?」 「そう……昨日、びしょびしょに濡らされてたし……」 「昨日!?」 その返答に声を上げたのは宏だった。 「昨日、新井くんとこに泊まったってユキさんに聞いておかしいとは思ってたけど……本当はもっと何かされてたんじゃないのか?俺、お前に何かあったら、言えって言ったよな?!」 必要以上に詰問口調で聞いてくる宏に圧倒され、びっくりして仰け反った拍子、一瞬階段から落ちそうになって慌てて竹波が支えてくれた。 「昼休み、話聞くから」 それだけ言って、一つ飛ばしに階段を駆け上って行く宏の背中を、竹波と一緒にぽかんと見上げる。 その背中が……すごく怒っているように見えたのは、錯覚でも何でもなかった。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |