時計台の鐘が鳴る 9





握っていたタオルを顔に引き寄せると、新井の手はなんなく解けた。
泣いてる顔なんて見せたくないのに、離れた温かさを寂しいと思う。
それが更に涙を誘って、瞼の縁に溜まっていく。
溢れ出すと同時に押し付けたタオルに染み込んだ。
母親の好きなお日様の匂いのしないタオル。それでも空気を吸い込むとタオルは優しい匂いがした。
雨の音と外を車が走る音。その中に優のすすり泣く声だけが響く。
その音が耳になじんで、少し落ち着き、今度はこの静かな空間が居た堪れなくなってくる。
何か言わなきゃ……と焦り出したとき、新井の声が降ってきた。

「……いじめられてんのか?」

「……わかんない」

ずるっと鼻をすすりながら答えると、不機嫌な声が返ってきた。

「わかんないって……何で制服泥だらけなんだよ?」

「……転んだから」

「じゃあ、ずぶ濡れなのは?朝から天気予報で雨だって言ってたよなぁ」

「朝降ってなかったし……、置き傘、あった……から」

「じゃあ、何で濡れてんだよ……差しゃあいいだろが」

「穴が……穴が、開いてたから……」

「何で穴が開いてたんだ?」

「し、知らない」

優だって知りたいくらいだ。
何で穴が開いていたのか。……水玉模様になるくらい。
はぁと一つ大きなため息が聞こえたかと思うと、

「だーもー!顔上げろ!嘘ついてんのかわかんねぇだろうがっ!!!」

「い、いやだ!」

焦れた新井が優の手を掴む。
タオルで顔を覆っているから、新井の動きが全くわからない。
掴まれた手を右に左に振って避け、狭い玄関で攻防を繰り広げる。
しかも嘘なんて言ってない!

「言うこと聞け!聞かねぇと泊めてやんねーぞ!」

「か、顔、上げたら泊めてくれるの?」

「理由による」

「結局それじゃん!本当は泊める気なんてないくせに!」

優の手を掴んでいた新井の手がタオルを掴む。
そのタオルの厚さが新井に引かれるごとに薄くなって、心許なくなってくる。
それでも必死に端っこを持って抵抗する。
もう既に顔を隠すほどの面積はない。
それでも、それを失くすと死んでしまうと思うくらいに必死に掴んでいた。

「わかったよ!泊めりゃあいいんだろ!泊めりゃあ!」

一際大きな声で新井が叫ぶと、引っ張られているタオルの端が急に離され、弾みで優の体が背中のドアにガタンと当たった。
と同時に、部屋の両側からドン!と壁を叩く音が聞こえ、思わずぎゅっと瞑っていた目を開ける。
目の前に不機嫌で眉間に皺を寄せた新井の顔があった。
蛍光灯に照らされた金に近い茶の髪がキラキラと光っていて、怒りのオーラのようにも見える。
ちっと小さく舌打ちをして、新井の顔が離れていく。

「……素直に理由を言わねぇから、泣く羽目になるんだよ。両隣に怒られちまったじゃねぇか……」

「ほ、本当に、本当に泊めてくれる?」

「ああ。ただし!明日の朝には帰れよ。明日学校だろうが」

ビシッと音がしそうな勢いで目の前に指が突きつけられる。

「う、うん」

勢いのまま頷いた。
けど……学校に行きたくない、と言おうとして寸でのところで口を噤んだ。
その言葉が喉に引っかかっているような気がして、ゴクリと唾を飲み込む。
せっかく新井が泊めてくれる気になったのに、ここでまたそんなことを言おうものなら、振り出しに戻ってしまう。
まだ瞼の縁に残っていた涙を手でグッと擦る。
そうするとホッとしたのか、くしゃみがたて続けに3回出た。

「頼むから風邪はひかないでくれよ」

そう言ってくるりと向きを変えた新井の背中を見る。
ぼーっと見ていると、またくるりと振り返る。

「いつまでそこに突っ立ってんだ?上がれよ」

言われてハッとして上がろうとして、靴を脱いで思い出した。
靴下は見事にドロドロのグシュグシュに濡れていた。
汚すと悪いな……
そう思ったから、その場で靴下を脱いだ。
そうして、そこで優は気づいた。
さっきまでの暗い気持ちは、なくなっていた。









「なんで一緒に入ってくんのっ!!!」

「ガス代がかかるだろうがっ。節約だ!節約!」

「いーやーだーっ!!!」

「そんなでけぇ声出したら、また隣に怒られんだろ!」

パコンと頭を叩かれ、大げさに「痛い」と言いながら、叩かれた場所をさする。
キッと新井を睨み付けると、「言い訳すんの大変だったんだぞ」と睨み返されながら低い声で言われた。

「うっ……」

それを言われると優は何も言えない。
何て言やぁ良いんだよ……と途方に暮れていた新井に、自分で電話しろと言われたのを優は頑なに拒み続けた。
電話口に出た母親に、バイトを休ませて欲しいということと、優を泊めるということをしどろもどろに伝えさせたのだ。
結局母親への言い訳は、明日が英語のテストで碌な点を取りそうにないから特訓するという疑われそうな内容だったが、「宏くんが来るまでには帰ってきなさい」という伝言だけを言い渡し、母親は了承したらしい。
それでいいのか、ユキさん……

「制服、後で洗うぞ」

「……乾くかな」

「わからん。でも、明日そのまま着て行く訳にはいかねぇだろ?」

「うん……」

狭い脱衣所の中で点された蛍光灯の下で見た制服は、思った以上にドロドロだった。
脱いで光に点しながら、さっきまで浮上していた気持ちがまた重くなって沈んでいく。
はぁ〜とため息を吐いていると、「とろとろすんな」と新井に言われ、急いで着ている服を脱ぎ始めた。
シャツをズボンから引き抜き、ボタンをはずす。
ベルトを緩めて、ドロドロになったズボンを脱ぐ。
シャツの下に着ていたランニングを脱いで、最後の一枚であるパンツに手を掛けたところで、それまで感じていなかった視線を感じて顔を上げた。

「……」

「……」

「……なんでそんなに見るの?」

「いや。毛、生えてんのかな?って思って」

「なっ!!!」

一気に頭に血液が集中するのがわかった。
何を言って反論していいのかわからず、金魚のように口をパクパクとさせるだけで、肝心の声は出てこない。
それをいい事に、なおも新井はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。

「だって、お前、発育遅そうじゃん。皮が剥けてるとは思わねぇけど、毛ぐらい生えてんのかな?って」

聞こえてくる言葉にどんどんと血液が頭に昇っていく。
恥ずかしいのと、頭にきたのとで、きっと顔は真っ赤だろう。
だけど、そんなことを気にする余裕はこれっぽっちもない。
パクパクとしていた口をぎゅっと瞑って、

「余計なお世話だよ!バカっ!!!」

言葉を投げつけるように発して、バッと音がしそうな勢いでパンツを脱いで、急いでタオルを掴んで前を隠しながら湯気で白く煙る風呂場に飛び込むようにして入った。
その背中にははははと高らかに笑う新井の声が聞こえる。

ムカつく!ムカつく!!ムカつく!!!

洗面器を掴んで頭からバサーっと湯を浴びて、その勢いのままにボチャンと湯船に浸かろうとして、自分が泥だらけだったことを思い出した。
仕方なく置かれている椅子に腰掛け、見えないように慎重にタオルを腰に乗せた。
更に湯を浴びて粗方の泥を落としたところで、シャンプーを手にして洗っていると、後ろの扉が開いて新井が入ってくる。

「洗ってやろうか?」

「いい」

「洗ってやるって。ここ、洗えてねぇし」

優の返事を待つことなく、大きな手が優の泡だらけの頭に潜り込んできた。
立ったまんまで上からわしゃわしゃと動かされると、案外気持ちよくてされるがままになってみた。

「お前、兄弟いないから、こういうのってあんまし経験ないだろ?」

「うん」

あんまし……というか、ほとんど経験が無い。
物心ついた頃には、一人で風呂に入っていた。
色々な人に面倒を見てもらっていたけれど、一人でシャンプーができるとみんな一様に褒めてくれた。
「すごいね、優ちゃん。一人でちゃんとシャンプーもできるのねぇ」なんて言われると嬉しかった。
褒められることは素直に嬉しい。たとえシャンプーハットを10歳まで被っていたとしても。
だから、こういうことには慣れていない。
慣れていないけど、気持ち良い。

「よし。流すから目、ぎゅっと瞑れ」

「う、うん」

ザバーと豪快に頭から湯を掛けられた。
予想していたけど、予想以上の豪快さに呆気に取られていると、すぐにリンスを塗られ、また同じようにして湯が掛けられる。

「次、体」

「そ、それはいい!自分で洗う!」

さっきの発言があるだけに、何をされるかわかったものではなくて、急いで言うと、「あ、そう?」と拍子抜けするくらいにすんなりと言われた。
後ろに立ったままで、湯船に洗面器を突っ込んで、湯をかけるから優にも湯が飛び散った。

「座るとか、何かして!」

壁にかけられた青いナイロンタオルを取りながら告げると、「狭くて座れねぇよ」と返ってきた。
そして、新井はひょいと優の横を通り抜けると、ザブンと湯船に浸かって優に湯を入れた洗面器を渡してくる。

「極楽。極楽」

おじいちゃんのように言った新井がおかしくて、プッと噴出すと、「笑ってんじゃねぇよ」と言われる。
それでも不機嫌なわけではないようで、勉強を教えてもらっているときのように鼻歌を歌い始める。
風呂場に反響するからか、いつもよりは上手に聞こえる。
ボディーソープをナイロンタオルに取って、居た堪れなくなってくるりと背中を向けると、「女の子じゃあるまいし」と声が聞こえる。
新井の鼻歌は聞こえるけど、どうにも恥ずかしい。
その恥ずかしさを隠すようにして優は口を開いた。

「新井は兄弟いるの?」

「いる」とか「いない」とかの返答がすぐに返ってくるだろうと思っていたら、なかなか返事が返ってこない。

「ねぇ」

家のボディーソープと違って、やたらと泡立つ泡にぶくぶくと埋もれながら、焦れて聞くと、

「……お前、俺のいないところで俺のこと呼び捨てかよ?」

低い声で言われて、ハッとして、洗っていた手が止まった。
仮にも年上である。いや、仮でも何でもなく正真正銘の年上である。
そういうのって失礼なのかな?とは思ったけれど、さすがに新井に「新井くん」と言うのも、ましてや「新井さん」なんて呼ぶのも癪に障る。

「うん」

何でもないことのように、止まっていた手を動かし始めて頷くと、

「うんじゃねぇよ!うんじゃ!」

声と同時に背中に湯がバシャバシャとかけられる。
本気で怒っているわけではないらしく、笑いながらかけてくる。
その声にホッとして、「やめてよー!洗ってる意味がないじゃん!」と振り返って叫ぶと、

「毛も生えてねぇくせに、呼び捨てとかすんな!生え揃うまで新井様と呼べ!」

見せ付けるように仁王立ちになった新井を見て、やっぱり新井は『新井』のままで良いな…と思っていた。









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