便乗 自由登校だと言っても、どうせ家にいたってすることと言えば勉強しかない。 家と塾の間に学校があるから、19時から始まる塾に行くにも学校からのほうが近かった。 野球の推薦で決まった田中は、練習をするために来ているようだが、グラウンドの方にいるから教室に来ることは滅多にない。 専門が決まった岩田と山下もたまに顔を出すくらいで、こちらもあんまり来ていない。 小椋も午前中には学校にいるが、午後から家庭教師がつきっきりで教えてくれるようで、昼休みに一緒に弁当を食ったら帰ってしまった。 教室に入りこむ冬特有の午後の柔らかな日差しに、誘われるのは眠気で、机の上に参考書を開いたままうつらうつらとしていると、教室の入り口から「すみません」と小さく女子の声が聞こえた。 それでも眠気に勝てなくて、他にも誰かいるだろう……と思っていたら、少し近くからまた「すみません」と声が掛けられる。 その声は酷く弱々しくて、なんだか心細そうな感じだったから、スッと息を吸って、目を開け、開ききらないままの目で教室の前の入り口を見つめる。 ぼんやりとした目で見つめると、視線が合ってもいないのに、その子はまっすぐ俺のほうに向かってくる。 「あの……」 少し離れたところから、先ほどと同様にか細い声で話しかけられ、やっと焦点の合った目で見れば、見たこともない女子だった。 自分のことを差し置いて言えば、大人しそうな子だな…と思う。 肩までの黒髪をぱっつりとおかっぱに切りそろえられ、スカートの丈も短くない。 「あの…」 もう一度そう言って、一歩一歩近づいてくる。 他の人に……そう思って教室を見れば、自分以外に人はいない。 確か午前中には10人ほどいたはずである。 ひょっとしたら、図書室にでも行ったのかもしれなかった。 いないのであれば、その女子が話しかけているのは自分しかいない。 仕方ない……と向き直った俺を見て、その子はまた一歩と歩みを進め、俺が座っている席の机二つ分のところで足を止めた。 少し俯き加減で眉間がよったまま見上げるようにしているから、一瞬睨んでいるのか?と思ったけれど、そうではなかった。どちらかと言えば泣き出しそうな……困った顔。 「あの……今日、岩田さんって……」 岩田の名前が出てきたことに一瞬ビビッて、心臓がはねた。 「えっ……岩田…は、今日は来てない、けど……」 その子が岩田とどんな関係なのか?とか、どういう用事なのだろう?とか、 色々な推測が瞬時に回る。 その思いが溢れるような返答で、訝しんでいることが明らかに相手に伝わっていた。 「あ……そうですか…」 それでも立ち去ることもなく、その子はそこに佇んでいる。 「えっと……竹中さん、ですよね?」 今度は自分の名前を言われて、もっとビビった。 いったいこの子は何なんだ……ちょっとした恐怖心が持ち上がる。 そう思うと、見た感じも何となく日本人形のようで、ホラーっぽい雰囲気がなくはない。 いると思っていたクラスメイトが消えていたり、見たこともない女の子が登場するあたり… 「あっ……あの、よく岩田さんと一緒にいるから……それで名前を…」 ああ、そうか。瞬時に色々な妄想をしていた自分を少し恥ずかしく思いながらも、コクンと一つ頷いたところで、5時間目の予鈴が鳴る。 その鐘に、彼女がハッとして動き出す。 机二つ分の距離を一気に詰めて、 「これ、岩田さんに渡してください。お願いします!」 机の上に小さな紙袋が置かれ、そのままの勢いでその子は駆け出し、途中いくつかの机の角にぶつかりながらも教室を出て行く。 呆気に取られていた俺の耳に、バタバタと廊下を駆ける足音が小さくなっていくのが聞こえた。 しばらくぼうっとしていると、5時間目の始まる本鈴が鳴った。 あたりが急激に静かになる。 机の上に置かれた紙袋を見つめる。 文房具屋とか雑貨屋などのラッピングコーナーなどで売られているような、青のチェックの紙袋。 手にとって、左右に振ってみると、かさかさと音がする。 手作り……なのかな? そこで漸く、今日がバレンタインだったことを思い出す。 そうか、あの子は岩田を…… 良くない感情が持ち上がり始め、このまま捨ててしまえと心の中で唱える自分がいた。 名前もクラスも言わなかった相手だ。 見ている奴なんて誰もいなかった。 それなら捨ててしまえば良い…… しかし、それ以上に湧き上がった感情のほうが遥かに大きなものだった。 2月に入ってから、数えるほどしか岩田とは会っていない。 受験だからとお互い連絡を控えているような節もある。 だったら……岩田に会う絶好のチャンスなのかもしれなかった。 机の上に置かれた紙袋を掴んで鞄を持って席を立つ。 誰もいない廊下を走って下駄箱まで行き、切れる息を整えながら駅までの道を歩く。 携帯を取り出し、メールを送る。 もし自分が岩田に渡す立場だったら、きっとこんな文章は送れなかった。 誰かからの頼まれものだからという大義名分があるからこそ出来た。 心の底から彼女に感謝した。 時刻表を調べて電車の時間を確認すると、少しだけ余裕がある時間だった。 駅前のコンビニに入って、小さなチョコレートを二つ掴んでレジに向かう。 とことん便乗させてもらっている自分が情けなくもなったけれど、それでも抑えることが出来なかった。 ホームで電車を待っているほんの少しの時間に、岩田からメールが来た。 家まで来てもらうのは悪いから…と、待ち合わせを俺が使っている駅にした。 終着駅の岩田と学校のある駅のちょうど中間だからだろう。 二駅ほどしか離れていないから、行動に移しだしてから鳴り止まない心臓が、更にドクンドクンと響きだす。 たった二両しかない電車がホームに滑り込む。 ドアが開いても誰も下りない。昼間の電車はがらりとしていた。 空いている席に腰掛けて、掴んだままの紙袋をそっと開ける。 金色のハートの形をしたシールは剥がしづらかったけれど、震える指先でなんとか開けて中をのぞく。 手作りらしい小さなチョコが3つ個包装されて入っていた。 その中にこれを入れても良いのだろうか…?と思いながらも、今日何度となく思った思いに押されるようにして入れて、そっと閉じてシールを貼る。 何度もシールの上をこすって、開けたことがばれないようにと思いを込める。 それでも、そのチョコレートが異質なものであることに間違いはない。 そういえば……手紙も何も入ってなかった…… あの子の気持ちは伝えられるのだろうか。 誰からかも、気持ちですらも届かなくても良いのだろうか…… 自分がしていることも同じようなことなのに、それが酷く悲しく思えて、見慣れた流れる景色をぼうっと見ていた。 駅に電車が着くと、岩田が既にホームに来ていた。 制服ではない岩田を見るのはすごく久しぶりで、背が高くてガタイが良いからか、ダウンジャケットにジーパンと言う姿でも自分には眩しく見えた。 窓ガラス越しに目が合うと、ニッと笑って手を上げる。 つられるようにして笑顔になった。 プシューという盛大な音と共に扉が開く。 「悪いな」と言いながら岩田が近寄ってきた。 「勉強してたんだろ?」 駅のホームのベンチに促され、腰を掛けると「で?」と聞かれた。 頼まれたものを渡すだけなのに、色んなものを便乗させてもらったから何となく後ろめたくて、 それでもこれを渡すために会ってくれたのだから…と意を決して紙袋を差し出す。 「これ?」 「……うん」 「竹中、から?」 「えっ……あ…違うよ、何か女子から……」 「女子から?」 「そ、そう!」 「ああ、バレンタインだからかぁ〜」 「う、うん」 「誰かわかるか?」 「えっと……名前は言ってなくて……髪がおかっぱで、スカートが長くて、に、日本人形みたいな…」 「ああ、小沢さんだ、それ」 「小沢さん……」 「部活の後輩。って俺はほとんど出てなかったけど」 「部活……岩田、部活に入ってたのか?」 「ああ。二年のときは時々だべりに行ってたけど、三年になったらまったく顔を出してない」 「何の部活?」 「囲碁・将棋部」 「囲碁…将棋……」 「一年のときの担任が顧問で、無理やり入れられて…工場でおっちゃん達が休憩にやってたから、子供の頃に教えてもらったくらいだったし、元々興味があったわけでもないから行ってなかったんだ。だけど、どうしてか部の慣習で、バレンタインとホワイトデイだけはきっちりするから、小沢さんはわざわざ持ってきてくれたんだな…… 竹中も忙しい時期に悪かったな」 「い、いや…。じゃ、じゃあ、その子が岩田を好きってわけじゃ…」 「ない!ない!」 大げさに顔の前で手を振る岩田を見て、ホッとするような、浮かれて便乗させてもらった自分が恥ずかしいような複雑な気持ちになる。 「渡したいものがあるって言われて、俺はてっきり竹中が何かくれると思って喜んでたのに……ちょっとがっかりだなぁ」 などと嬉しいこと言ってくれる。 便乗ばかりさせてもらってた自分に、ほんの少しだけ勇気を出してみようか……と思わされる。 「あの、さ」 「ん?」 「な、中に」 「うん」 「二つだけチロル、入れといた」 言って、無性に恥ずかしくなって下を向いた。 あやしまれるかも知れないのに、言ってから恐怖と羞恥が一気に上ってとてもじゃないけど顔を合わせることなんて出来そうに無かった。 受験が忙しくて切りに行っていない前髪が長くて顔が隠れていたことに感謝した。 「そうなのか!?ありがとう」 そう言って、肩をバシバシ叩かれる。 「痛い!痛い!」と言いながらも、顔には笑顔が飛び出していた。 これは、恋愛なんかじゃない。 岩田は友情として、俺を壁の外に出してくれた友人として喜んでくれているだけだと思うのに、それを言っても怪しむどころかそういう反応をしてくれる岩田の気持ちが嬉しかった。 「これから、塾か?」 急にトーンを落として言われた言葉に、現実が突きつけられる。 「いったん帰るけど……」 「そっか……」 そう言っていると、時間がたっていたようで、次の電車が近づいてくる音が聞こえた。 ライトを灯して近づいてくる電車が恨めしくも思える。 立ち上がった岩田に倣って、自分も立ち上がる。 ガタンガタンと近づく電車の音をなんとはなしに聞いていると、岩田がこちらに向き直った。 「これ」 ジャケットのポケットから取り出して、目の前にぶら下げる。 「受験、頑張れよ」 学業成就と書かれたお守り。 「ありがとう」 と言って受け取ったとき、滑り込んできた電車の風が二人の間を駆け抜けていく。 プシューと音を立てて開いた扉から、2人ほど客が出てきた。 電車に乗り込む岩田を目で追う。 「これ、わざわざありがとうな」 「う、うん。こっちこそ、これ、ありがと」 「じゃあ、勉強頑張って!」 「うん」と言って大きく頷いたとき、プシューと音を立てて扉が閉まった。 ニカっと笑った岩田の顔に、二つの三日月が浮かぶ。 焼き付けておこう…… 苦しい思いをするくらいなら、遠く離れて綺麗な思い出だけを胸に生きていくのが幸せだと思った卑怯な自分に、 逃げ出すことしか出来ない自分に……その笑顔は眩しいくらいに光っていた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |