夕暮れに待つ 2





 我が家の家系図を辿ると、先頭には鎌倉時代に名を馳せた坊主が出てくる。江戸時代まで神や仏に信仰が厚かったようだが、明治の神仏分離令によりお家が分解すると、信仰以上に先代達の関心が深かった日本伝統の芸道が表に立ち始める。
 本家は今でも寺であるが、十三の分家はそれぞれに長けた芸道で財を築いていた。
 氏族のなかで最も都心に近い土地に定着している我が家は、受け継がれた芸道と不動産の賃貸収入だけで生活できるほどの豊かさであった。
 世間から見れば苦労を知らない貴族に見えるかもしれないが、内情は至って平凡、大きな名前を掲げてお高く装っているだけで普通の人と変わらない。ただ少しだけ違うのは、作法に厳しく、家の古い決まり事に執着する点であろうか。
 決まりに従い兄は早い時期に許嫁を決められたが、次男坊の私には関係のないことだった。兄とは違い自由な選択権があった。たとえ家の芸道を誰よりも愛でていたとしても、私は家を出なければいけなかった。
 独り立ちの決意が持てない私とは違い、兄は一度だけ社会を経験したいと言って期限付きでサラリーマンになった。父と母、祖父母までが二つ返事で承諾したのは、兄への絶対的な信頼と、家を出て行く様子のない私が残っていたからであろう。
 『いっそお前が継げばいいものを……』
 兄だけでなく、家族の皆がそう思っていたとしても、口には出せない縛りの中で生きている。
 そんな人生を恨むことはなかったが、何かを望むこともなかった。ただ私は、私として有り続けるだけだ。
 私が進学だけを決め、ずるずると家に留まっていた頃、前触れ無く訪れた珍客によって私の人生は大きく変わろうとしていた。
 昭和の富裕者を連想させるような帽子にネクタイ姿の小柄な紳士と、紳士よりも少しだけ背が低い中学生が突然うちを訪問する。
 二人は目元がよく似ていたから親子であることはすぐに分かった。しかし、平凡すぎてぱっとしない紳士に比べ、連れの中学生はよく目立った。透き通るような肌の白さや愛らしい表情は母親譲りらしい。応接間に座っても落ち着き無くきょろきょろと家の中を見渡していたが、うちの両親は彼を微笑ましく眺めていた。
 私は挨拶をしただけで席にはつかなかった。どこの誰で、どんな用件で尋ねてきたか知らないが、私には関係のないことだった。
 自室に下がろうとした私の後ろに、何故か中学生の彼が金魚の糞の様にくっついていた。驚く私とは対照的に、彼はきょとんと目を瞬いた。

「こら菖蒲。ここに大人しく座っていなさい」
「…………はい」

 紳士に窘められ、彼は渋々と椅子に腰掛けた。
 『菖蒲』―――。いい名前だ。
 扉の前で彼を見ていると、その彼と目が合う。まっすぐに向けてくる綺麗な瞳が印象的だった。





 月見の間に入ると、菖蒲は侍女を手伝って生け花の準備をしていた。道具の並びがまだであったが、私が来たことで侍女は黙って下がった。
 開け放たれた月見窓の向こうは薄闇に溶け込んでいた。黒とも灰とも言えぬ空に白い月が満ちている。
 菖蒲は部屋の隅の間接照明に光を灯してから私の前に正座した。 
 静寂の気配だけを察して私は動き始める。
 鋏が鳴る。
 キンと反響した高音は、いつまでも空気を揺らした。螺旋を巻く渦を感じる。しかし心は無心に近い。花に向ける意識にだけ集中していた。
 落ち着きのない菖蒲もこのときばかりは口を閉ざし、息を殺していた。
 私が花だけ見つめているとき、菖蒲が何を見て何を思っているかは知らない。
 神秘的なほどまっすぐに伸びた茎を剣山に立ててゆく。
 派手な飾りはいらない。時間を費やさず、たった三本立てただけで私の作品は完成する。
 私が菖蒲を見ることで、菖蒲は終わったことを悟るが、しばらくは静寂から抜け出せず、花の立ち姿に呆然としているようだった。
 器の正面を菖蒲の方に回す。

「どうだ?」

 そう訊ねると、菖蒲は照れくさそうに笑った。

「綺麗です、すごく。池のほとりに本当に咲いているみたい」

 菖蒲の感想は単調だ。すべて「綺麗」でまとめてしまう。
 書道、茶道、華道の教室を開いているが、菖蒲のような幼稚な感想を述べる生徒は一人もいない。褒め言葉をごてごてに飾り、よく分からない感想を言う者が多かった。
 菖蒲の言葉は単調であるが邪気がない。素直な心情を恥ずかしがることなく開示する。

「菖蒲の番ですよ」
「はい」

 長い袖を肘まで捲し上げ、やや力の入った肩で菖蒲が鋏を持つ。
 まだ目が離せる状態ではないが、形は随分様になっていた。言葉で教えられた通り、見て教わった通り、菖蒲は真剣に花を活けはじめた。
 見た目は出会った頃と変わらず幼いままだ。落ち着きも忘れっぽさも、何一つ改善されていない。しかし、ふとしたときに垣間見える変化が、喜ばしいことであっても私には少し複雑だった。
 私の倍以上の時間をかけても、五歳児が描いたような絵にしか菖蒲の花は仕上がらない。同じ素材、同じ道具を使っても、活ける人によって花の表情は変わる。

「……で、…できました」

 不格好であることが分かっているのだろう。菖蒲はぎこちなく器を回して、花の顔を私に見せた。
 込み上げた笑いを堪えることが出来なかった。咳でごまかそうとしたが意味がない。菖蒲がショックを受けている。

「コホン。そんなに悪く無いですよ」
「でも、時雨様のお手本と全然違いますっ」
「中心の長さが違うからそう見えるだけです。あと、これは葉に癖がありましたね。この部分を取り除けば良くなりますよ」
「…………」
「自分でやってごらんなさい。もう少しですよ」

 器を菖蒲に戻す。
 菖蒲はすぐには取りかからず、少し身を引いて自分の活けた花を見つめていた。
 慌てん坊の菖蒲は直感的に動くことが多く、焦るあまり元から無いに等しい美的感覚が削がれることがよくあった。だから、一呼吸おいて自分で考えることを指導した。菖蒲はその教えを守っている。だから私が口を出す必要はなかった。
 菖蒲が不格好だと思えば考えればいいのだ。少し考えるだけで、答えは自ずと出てくるだろう。
 注意は絶えないが、教えることはもう限られてきている。
 三年の間で目に見える成長は確かにあった―――。

「どうですか?」

 手直しされた花がゆっくりと姿を見せる。
 上出来にはほど遠いが、菖蒲らしい素直さと自然の風情が出ていた。

「いいでしょう」

 私の一言で菖蒲の肩から力が抜ける。安堵と嬉しさが折り混ざった、柔らかい笑みを見せた。

「この花は時雨様のようですね。とってもお似合いです」

 まっすぐに伸びた茎の上に、前に垂れ下がる大きな花弁。何よりも目を惹かれるのは花弁の深い藍色であろう。

「……。どうしてそう思うのですか?」

 菖蒲のお喋りに私が付き合うことは珍しかった。だから菖蒲は、理由を訊ねた私を不思議そうに見ていたが、すぐに顔を綻ばせ楽しげに声を弾ませた。

「時雨様はいつも姿勢が良く、背筋をまっすぐされています。それに、この花のように清楚でとても綺麗です」

 花と私を交互に眺めながら、菖蒲は素直な思いを口にする。
 間接照明の柔らかい光に浮かび上がる菖蒲と、その前で優雅に花弁を広げる藍色の花を一枚の絵として眺めていた私は、虚ろに答えていた。

「そうですね」

 私の活けた花を月見の間に飾る菖蒲がこう言った。

「時雨様、この花の名前はまだ聞いておりませんでした。なんというのですか?」

 菖蒲の活けた花を両手に抱え、自室に戻ろうとしていた私は、菖蒲に視線を向けるだけでその問いに答えを返さなかった。





 菖蒲と初めて出会ったのは今と同じ時節―――。庭に藍色の菖蒲が咲き誇っていた。


「父上、今なんと申されました?」

 自室に下がって一刻と経たぬうちに、私は来客のいる応接室に呼び戻された。
 席はサイドの一人掛けしか空いておらず、私が腰掛けたのを見計らって父が何食わぬ顔をして言った。

「時雨。こちらはお前の許嫁になる」

 指し示されたところにいるのは、見目は愛らしいが中学生だが、小柄ながら立派に男子の学生服を身に着けた少年だった。

「なんのご冗談ですか?」

 何かの言い間違いとしか思えない私は、父の言葉を疑った。しかし父は真剣だった。父だけではない、母も、対面に座る紳士も、笑みを絶やさない中学生も同じだ。
 何一つ理解できなかったのは私だけだった。


 まるで始めから決まっていたような話しぶりであったが、実際は私が自室に引っ込んでいた間に決まったことらしい。
 来客の紳士と中学生は、はじめから縁談の申し込みに来たらしかった。年頃の子供は男子しかいないというのに、その時点でふざけた話であるが、厳格な両親が来客の話に耳を傾けたのは、彼らが旧摂家の血筋だったからだ。
 摂家とは鎌倉時代に摂政関白を任せられ、君主に変わり国事行為を代行してきた家柄である。明治維新後は公爵の階級を得、長い歴史のなかで政治に介入し、天皇家との繋がりが深かった。
 そんな由緒ある血筋の方々を前にして、両親は彼らの言葉を真摯に受け止めたという。それが両家息子の縁談だ。
 笑止千万な話だった。『両家息子の縁談』などという言葉は日本に存在しない。そんなこと出来るはずがなかった。
 しかし、由緒正しい旧摂家の方々は頭の中身が柔軟らしく、「結婚は紙切れで保証されるものではない、繋がっているという事実が重要なのだ」等と都合のいい言葉を並べた。両親は『両家の繋がりを深めたい』なんていう、今では時代遅れな餌に食らいつき、二つ返事で了承してしまった。

「とは言っても菖蒲はまだ15歳で、ちょっと教養に欠けるといいますか、今のまま輿入れというのは、こちらの家名に傷をつけかねませんので……」

 菖蒲の父親は遠回しな言い方をしたが、興奮しきりの両親は「そんな滅相もない!」と恐縮していた。

「具体的なお話はこれからゆっくり詰めて行くとして、お願いばかりで申し訳ないのですが、菖蒲にこちらの作法を施してやってはくれませんでしょうか……?」
「あぁ、構いませんよ。私どもは喜んでお引き受け致します」
「そうですか。それは有り難い。では……」
「ちょっと待ってください!」

 反論できないまま話がまとまりかけたとき、私は咄嗟に叫んでいた。
 両親が決めたことに非を唱えることはできなかった。まして相手は旧摂家の血筋だ。私が強固に反対しても無駄だろう。だから私は、ある条件を出した―――。





「ご馳走様でした!」

 祖父母と母を交えた夕食が終わると、菖蒲の迎えが到着する。
 家を離れるのに寂しがる菖蒲を、私以外の皆が温かく励ましていた。

「菖蒲、忘れ物だ」

 菖蒲が車に乗り込む前に、透明のソフトケースを手渡した。

「なんですか、これは?」
「大事なプリントだから、家に帰ったらちゃんとご両親に見せない」

 明日行われる保護者集会を今頃知らされても困るだろうが、知らないままよりはマシであろう。

「はい!」

 気持ちのいい返事をすると、菖蒲は車に乗り込んだ。エンジンのかかった車の窓から顔を出す。

「時雨様、一緒に入っているこの封筒もですか?」
「それはお父上に渡して下さい」
「分かりました」

 何も知らない菖蒲は、走り出した車から見えなくなるまで手を振っていた。
 重厚なエンジン音が聞こえなくなると、夜の静寂から虫の声が聞こえ始めた。
 梅雨もこれからだというのに湿気た空気が肌にまとわりつく。門扉を潜り、母屋に向かって飛び石の間を歩いていくと、池の近くで見頃となった菖蒲の群衆が闇夜にひっそりと隠れていた。池から反射する月光を浴び、美しい藍色を隠した今も神秘的な姿で目を潤した。

「菖蒲……」

 あなたと出会って三年が経とうとしています。
 暑い夏が来て、実りの秋が来て、寒い冬が終わる頃、あなたは卒業ですね。
 進路の相談を、当人ではなく私に先に相談に来るお父上の心情が嘆かれます。
 お父上はどうも、はじめに交わした約束の合格点がこのままずっと得られないと思われているようです。
 悪戯にあなたを試したわけではなく、私ははじめからあなたを娶る気なんてなかったから敢えて無理な条件を出しました。
 周りが不安難色を強めても、あなたは頑張れば報われると信じていましたね。
 温室で育てられたあなたが厳しい指導に音を上げず、うちにふさわしい人間になろうと努力していました。それは、この三年間誰よりも近くてあなたの成長を見てきた私が一番分かっています。
 梅雨が明けたら夏です。あなたはもう夏休みのことしか考えてないようですが、その前に進路面談があるそうですよ。
 今度は悪い冗談だと笑われないように、お父上任せではなくご自分の力で進路を開いてくださいね。
 預けた封筒にはお父上宛に私の考えを綴りました。無事に届くことを祈ります。
 来年の春にはあなたを迎え入れられるように、私は万全の用意を進めておきます。


-END-



ひろ姐さんに捧げます。

2009.05.31 happiness child 



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