夕暮れに待つ 1 朝から降り続いた雨が上がり、空にようやく爽やかな青を望むことができれば、たちまち陽の光は弱まり、外の世界は刻一刻と色を変え始めた。 障子の外では、時間を止めたように静寂な庭園が真っ赤に染まっている。池の周りで飛ぶのはカゲロウか。小さな羽がきらきらと反射していた。 雨で湿気ていた和室に涼やかな風が流れ込む。垣根の向こうの往来からは帰宅中の子供の声、ランドセルを揺らす音が響いてきた。ちゃりんちゃりんと自転車のベルが鳴る。 わざわざ時計を見なくてもおおよその時間は知ることができた。 庇の下はすでに暗い。その先の赤い光もそう長くは続かない。 意識する前に溜息が零れ出た。 憂いを払うため卓子の上にある文を今一度読み返す。自ら認めた文を読み返すのは三度目だった。何度読み返しても書き直しが必要とは思わない。しかし、文を折り畳んで封をするには、少々躊躇う部分があった。 静かな部屋に一人でいても、すぐそばに聞き慣れた日常の音があった。夜更けの静寂さとは違う、生きた音だ。 騒がしいのは苦手だが、躍動を宿した音は嫌いではない。穏やかな気分になれる。 読み返すことに意味を持たない文から顔を上げ、夕暮れに染まる庭を眺めた。世界は穏やかな空気に満ちているのに、胸にざわつくものを抱えているとどうしても落ち着くことができなかった。 一人の時間は嫌いではないが、待たされる立場はどうも我慢できない。別に私が短気だからではない。約束と時間厳守を口うるさく注意しても守ることができない者に待たされているからだ。 平常心を保つのに苦労する。意識をしなくても溜息が零れた。 この数年で、私は随分修行をさせられている。それが自分にとって必要かどうか疑わしいから溜息も出るというもの。 本来、精進しなければならないのは私ではなく私が待つ者である。しかしその者ではなく己の精進が際だつのはどういうことなのか。 廊下から響いてくる騒々しい物音に、眉間をぐっと押さえていた。 忙しそうな足音が近づいてくる。廊下側の襖がぴしゃーんと開かれ、勢いで駆け込んできた者は、敷居に足を取られ文字通り私の目の前に転がってきた。 「イタタタ…」 畳の上で擦れた額を手で押さえ、涙目の菖蒲が顔を上げる。私の方を見て無邪気に破顔した。 「時雨様〜、ただいま戻りました」 いつものおっとりした声で緊張感のないことを言った。 菖蒲は私を見るとどうも楽しくなるようで、私の前ではいつも笑っている。笑顔を作ることに疎い私は少々見習わなければいけないかもしれないが、菖蒲の問題は空気が読めないことだ。今、私がどんなに厳しい顔を作っていても、菖蒲はその私を見て嬉しそうに笑う。 「菖蒲」 お叱りモードで名を呼ぶが、菖蒲にはまったく効果がない。 「はい。時雨様」 返事が素晴らしくてもこの場では褒めるに値しない。怒られることにまだ気付かない菖蒲の瞳はきらきらと輝いている。頭を抱えたくなった。 「菖蒲。今が何時か分かりますか?」 荒げたくなる声を我慢して冷静を装うが、菖蒲がきょとんとした顔をしたので自分のこめかみに青筋が出来たのが分かった。 怒りが顔に出たらしい、ようやく菖蒲の顔に緊張感が走る。 「あ、……えっ、と……」 菖蒲は学生服の胸、ズボンのポケットを手で探り、次はバックの中を漁り始めた。いろいろな物が出てくるが目的のものは見つからない。 畳の上に散らかり始めた菖蒲の私物は、学校生活に到底必要と思えないものばかりだった。何故菖蒲のバックからはお菓子とゴミしか出てこないのだろう。そう思って眺めていると、皺くちゃになったプリントが近くに飛んできた。卓子越しに拾い上げて広げてみると、保護者集会のお知らせだった。開催日は明日の日付となっており、配布日は、二週間前の日付だ。 「ハァ……」 盛大に吐き出した溜息は、バックを必死になって漁る菖蒲には聞こえないようだった。 今更無駄ではあるが、プリントの皺を卓子の上で伸ばした。菖蒲は空っぽになったバックを畳の上に叩き付け、もはや埃しか出てこないのに、それでも時計を必死に探している。 「電話はどうしました? そちらに何度か連絡したのですよ」 近代の電子機器は嫌いだが、携帯電話という便利なものは私も使用している。しかし菖蒲のように常時持ち歩いているわけではないし、連絡を受けることはあっても自分からすることは稀だった。 菖蒲は悲しげに眉を下げた。 「朝急いでいて、今日は家に忘れてきました……」 「時計は?」 「……ないみたいです」 時間を守れない菖蒲には日頃から時計を身につけるようにしつこく言っているのだが、守れた試しがなかった。 忘れっぽい、ドジ、要領が悪い、のんびり屋。それが菖蒲だ。 分かり切っていた結果に怒る気も失せてしまう。 「学校が終わってからこんな時間まで何をしていたのです。教室があることを忘れていましたか?」 過去にこんなことは何度もあった。しかし菖蒲は、すぐに頭を振って否定した。 「いいえ。いいえ、時雨様。僕、ちゃんと覚えていましたよ」 「では、どうして遅れたのかちゃんと理由を話なさい」 「…………はい」 何度も同じ失敗を繰り返し、同じ数だけ反省する菖蒲の姿に悪意はない。自然体だった。邪気のない真っ白な心を持っているのが菖蒲なのだ。 それにしても、欠格しすぎている菖蒲の日常や常識は、頭痛の種だった。 「あのですね……」 「菖蒲、ちょっと待ちなさい」 もはや何から注意するかは判断付けにくい。勢いに任せていると、始めは自分が引っ張っていても知らぬうちに菖蒲のペースに巻き込まれてしまう。 理由を追及しながら話を中断させる私を、菖蒲は不思議そうに見つめてくる。 私の心を掻き回す原因が、自分であると気付いていないのが厄介だ。 「話を聞く前にやることがあります」 「はい。なんでしょう」 遣いを頼まれるかと思ったらしい菖蒲はすぐに膝を立てた。数少ない褒めるべき点は、疲れを知らないフットワークの良さであろうか。 私は人差し指を立て、菖蒲に向けた。 「先に、そこに散らかっている物を綺麗に片づけなさい」 そう言われてはじめて部屋の惨状に気付いたらしい菖蒲は、慌てて自分が散らかした私物をバックに詰めていった。 ドジで抜けていて手を焼く。 うちに菖蒲が通うようになって、三年が経とうとしていた。初めて会ったときは中等部の紋章をつけていた菖蒲が、今では高等部三年のバッチをつけている。 周りが見えなくなるくらい片づけに精を出す菖蒲に、成長した様子はうかがえない。今も、昔と変わらない幼子のような顔をしていた。 菖蒲が片づける間に、私は文を三つ折りに折って封筒に入れた。茶を運んできた侍女に卓子の片づけとプリントを保護する入れ物を頼む。 「着替えてきますから、月見の間で待ちなさい」 「えっ。月見ですか?」 畳の上に這い蹲る菖蒲の手元には、計画性無く物を詰め込まれたバックが悲鳴を上げていた。 本気で分からないと言う顔を向けてくるから、私も呆れ顔を取り繕ったりしない。 「今日はなんのためにうちへ来たのですか?」 「………い、け花です」 「そうですね。月見の間に飾る花を生けますからそこで待ちなさい」 「はい、時雨様!」 元気よく返事をする菖蒲を確認し、侍女が隠れて微笑むのに気付かない振りをして部屋を後にした。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |