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「別の……人に……」

「なんだ?山本じゃ不満って顔かそれは?そりゃ、新人だけど、もう10ヶ月、そろそろ11ヶ月だ。何か形に残ることがしたいって思う頃だろ?」

「……それはそうですが……」

「これは山本が提案したんだ。会議でも堂々としたものだったぞ」

「はぁ……」

「見た目も男前だし、器量もある。俺から見ればそれなりに骨のある男だと思う。まぁ今回は、先輩として後輩に良い勉強をさせてやるってことで、どうだ?」

肩をがしっと掴まれ、ぎゅっと力を入れられれば、断ることなんて出来なくて、

「……はい」

素直に返事をしてしまった……。

「じゃ、これ企画書。来週までに目を通しておいてくれ。来週の月曜日に、木崎さんと俺を入れて4人で詳しい打ち合わせをする。頼んだぞ!」

それだけ言って、肩から手を放し、会議室から大熊が出て行く。
慌てて俺も後を着いて行けば、

「そういやぁ、お前。さっき、居眠りしてただろ?トイレで顔を洗ってから来い!」

やっぱり見られてたか……

先を歩き階段へと向かう大熊の名の通りの大きな熊のような背中を見やって、階段横にある5階のトイレに入る。
社長室が奥にあるせいか、ここのトイレは必要以上に綺麗で、ほとんど誰も使わない。
他のフロアのトイレにはない洗面台に置かれた花を見ながら、蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。
まだまだ水は冷たくて、目も覚めていく。手も冷えていく……。

濡れたままの顔を上げて鏡を覗き込む。
今朝、山本に触れられた項が、ツクンと疼くような気がしたけれど、気づかない振りをして押し込め、
ハンカチで顔を拭き、トイレを後にした。






怒涛のような原稿の量に、社員もアルバイトも死んだ魚の目になっていく。
輝きを失った目は白く濁っていて、その下のクマが日に日に濃くなっていく。
自然に皆の口数も減る。黙々と作業だけを繰り返す日々。
連日連夜に徹夜にも近い状況を乗り越えた週末の土曜日にやっと原稿を印刷所へと持ち込むことが出来た。
既に定まっている意味を成さない定時が過ぎていたこともあり、アルバイトの皆には早々に帰ってもらった。

原稿を持ち込むとき、念の為、印刷所の方でも一度校正を入れる。
プリンタと印刷機では小さいけれど違いが出る。
印刷機で印刷されたものをもう一度見て、間取りの帖数表記などで潰れてしまった文字はないか、細かいイラストや文字が見えにくくはないか…というチェックをする。
そのとき、何か不備があればすぐに直せるようにと会社の方で社員に待機してもらっている。
直したデータをすぐにメールで送れるようにと。
今回は特に修正もなく、待たせていた唯一のイラストレーターでもある飯田にも悪いと思い、急いで社に戻る。

戻って来てみれば背中を丸めた飯田が机の下で携帯を弄っていた。

「ごめん。遅くなって。特に修正はなかった。俺らも帰るぞ」

帰る用意をしながら言えば、涙すら流さん勢いで顔を上げ、

「ど、どうしよう、坂田さん!俺が毎日忙しいから、ゆめこちゃん、怒っちゃったみたいで……コージと一緒に食事に行くって…」

「行くなって言えば良いじゃないか?」

「言いましたよ〜。今が一番大切な時期で、子供の頃からの夢だった「アイドルになる」ってところまであと一歩なのに。パパラッチに写真なんて撮られたら……」

「そうだな。ほら、帰るぞ」

興味がある振りですらするのが鬱陶しくて、おざなりな返答をすれば、あまりにがっかりとうな垂れる飯田。
だけど、ちっとも可哀想なんて思わない。
だって、これはゲームの話だから。
恋愛シミュレーションだか、アイドル養成シミュレーションだか良くは知らないのだが……

イラストレーターの飯田はもちろんの事だが、編集という仕事は外の世界に出て行くことはほとんどなくて、女性と知り合う機会なんて皆無に近い。
独立を夢見て色んなイベントに顔を出している飯田からすれば、三次元の女性と出会うよりも、二次元の女の子と出会う確率の方が断然高い。
だから、熱を上げるのもわかるのだが……

ゲームの中のアイドルの卵がパパラッチに写真を撮られてアイドルになれなくても、飯田の人生がうまくいかなくなるわけではない。
眠れないほど落ち込むことは…ひょっとしたらあるかも知れないけれど、それでも、また一から始めれば良いのだ。
ゲームにはリセットボタンもある。

放って置いて帰ろうとしたところで、エレベータの扉が開き、外の空気を纏った黒田が急いだ足取りでこちらに向かって来る。

俺の顔を見た黒田の顔が、明らかにホッとしたのを見て…嫌な予感が浮かんできた。

「あきほちゃ〜ん。良かったぁ〜。まだいて」

的中。

「何だよ?」

「これ、この原稿……カラーページの締め切りは過ぎてるってわかってるんだけど……次のだから、まだいけるだろ?な?」

白い封筒をかざし、無理矢理に押し付けてくる……

だから、早く帰ろうっていったじゃないか!と含んだ目で飯田を見れば、鞄を手に、

「じゃ、じゃあ、俺はお先に失礼します!坂田さん、黒田さん!お疲れ様でした!」

ガバっと音がしそうな勢いで大きくお辞儀を一つして、脱兎のごとく一目散に目の前からいなくなる。
それを目で追っていると、黒田に強く腕を握られる。

「な?まだ行けるよな?」

それを断ったところで、結局は週明けに詰めてやらされてしまうのだろう……と思うと、
嫌々ながらも今夜の晩飯の調達と引き換えに、俺はその原稿を作成してから、帰ることにした。





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