5 見上げた表示は最上階の5Fで止まっている。 階段を登るべきか…このまま待つべきか…… 考えてる暇はないから、と階段へと走り出したその腕をいきなり掴んだのは……黒田だった。 「おはよ」 「お、おはよ!手!手を放せ!!」 払いながら言ったのに、まったく放す気配はない。 「大丈夫だって。後3分あるから」 「だ、だって!こんな時間に来たことなんかなかったん……」 だぞ!って言おうとしたら、エレベータのドアが開いた。 「ほらな」 得意気な笑みを浮かべ、そのまま俺の腕を掴んでエレベータの中に引きずり込む。 「何?寝坊?ご丁寧に寝癖までつけちゃって……」 4Fのボタンを押しながら、黒田に言われ、このあたりだろうと手で押さえながら無言のままに頷く。 掌にピコンと跳ねた数本の髪の毛の感触が当たる。 後で、トイレで直さないと。 「良く見りゃ目のしたのクマもひどくなってるし……」 「え?」 「昨日、早く帰ったんじゃなかったのか?」 「そうだけど……」 チン!と音を立てて開いたドアを待ちきれないというように、黒田を置いて自分の席まで急いで向かう。 チラッと見た大熊の席は不在。良かった〜とホッと一息ついたと同時に机の上の原稿の多さにうんざりした。 残り二回の掲載だからか、余っている物件にとにかく人を入れたいと焦る不動産屋の企みがありありとわかるそれの量。 前回載せた物件が余っていれば余っている分だけ、誌面に出ているものとの差し替えが少なくなる。 そうすると仕事の量は少なくて済むのだが、それではうちの本を見て契約してくれた読者が少ないということで、この量からすると、結構入ったという事か……久しぶりに早くは帰れたものの、結局今日は遅くなるのだ……と暗い気持ちになってしまう……。 編集の工程は重なりながら行われていく。 先の発行を優先しながら、時間を見ては、次の発行に手をつけていく。 その他にも、引越し業者に広告のページを載せてもらったり他の部署の本の紹介ページを作ったり…… 大熊が登場し、朝礼が始まり、終わるや否やトイレに駆け込んだ。 外に出るわけではないし、取引先と会うなんてことも滅多にない。 だけど…ピコンと跳ねた寝癖だけは、どうにかしておきたかった。 真正面から見た感じではわからない。 ってことは、後ろか?と思い、右を向いたり、左を向いたり…… …………見えない。 水でさえ濡らせばどうにかなるか……と思い蛇口を捻ったところで、ドアが開き、今一番に会いたくない人物が入ってきた。 「あ!坂田さん!おはようございます!」 鏡越しにとびっきりの笑顔を貼り付けた山本に言われ、慌てふためいて忘れていた冷たい感触が胸の中に広がりだした。 「……おはよ」 表情をいくらか殺した声で言ったにも関わらず、関係ないといった調子で、 「寝癖直してるんですか?朝礼の時から気になってたんですよ。ここじゃ見えないでしょ?俺がしますよ」 出しっぱなしにしていた水をいくらか手につけ、そっと頭に触れてくる。何度か繰り返したところで、 「坂田さんと似て、結構頑固ですね〜」 などと言われたら、 「うるせぇよ!自分でする。この辺だろ?」 水をつけた手で頭を触ろうとした。 「あ!あ!ダメですよっ!俺がするからっ!」 手を握りこまれ、丁寧に丁寧に髪の毛を撫で付ける。 ひんやりと頭が濡れてくるのとは逆に俺の顔は赤く、熱く変化して行く。 そんな自分が見ていられなくて、下を向けば、 「やりやすくなりました」 笑みを含んだ声が聞こえた。下を向いたままに 「もう、いいだろ?」 「待って!あと少し…」 そう言って、触れてきたのは……うなじだった。しかも、唇で!!! 「何やってんだよ!!!」 「いや、だって……ついつい、ね?」 ね?じゃねえぇよ!!! うなじを押さえて鏡を背にして、山本と向き合う。 悔しいけど、見上げるようにしてきつく睨み上げれば、 「はは。真っ赤ですね。かわいいなぁ〜」 またしても、気に入らない言葉を吐き出す。 「うるせぇ!」 ドカっと脛を蹴り上げてやれば、 「っつーーー!」 一瞬見えた痛さに歪んだ顔を俯けて蹲った。 その隙に横をすり抜け、ざまぁみろ!と言ってトイレから逃げ出した。 赤くなった頬を水で冷えた手でパチパチと押さえながら自分の席に向かう。 まだ朝なのに、今日一日分の体力を使った気がしたが、机の上の原稿が更に増えている事実を知れば、そんなことも考えていられないと、きゅっと心を引き締めた。 社員3名に長期のアルバイト5名、短期のアルバイト3名の総勢11名で、本を作り上げていく。 誌面の構成やその他諸々は編集長の大熊がやり、カラーページやデザインページのように作業自体が重たいものを社員と長期アルバイトで、物件だけを紹介するようなレイアウトの決まったものを短期のアルバイトに任せている。 指示を出し、今日しなければならない目標を掲げ、それに向けて、各々が割り当てられた作業へと入っていった。 春の陽気に、昼飯後ともなれば眠気を伴うのは当たり前である。 しかも、昨日早く帰ったにも関わらず寝不足の体を持つ俺は、やばいやばいとは思いながらもうつらうつらと頭が船を漕ぎ始める。 そこに、 「坂田!」 大熊の声が聞こえ、 「は、はい!!」 思わず立ってしまえば、 「驚かしたか?ちょっと話があるから、会議室へ」 まさか……まさか……さっき寝そうになっていたことを咎められるのだろうか? と内心ビクビクしながらも、大熊の後について5階の会議室へと向かう。 先にドアを開け、入った大熊はホワイトボードのある一番前の席に腰をかける。 カタカナのロの字形に配置された会議用の机に、この部屋の持つ独特の匂いは、「きちんと感」があって馴染めないから好きではない。 出来れば一つの机を囲む形を取る2階にあるミーティングルームが良かった……。 「まぁ座れ」 そう言って、斜め前の椅子を指す。 「失礼します……」 声が小さくなったのは、ビクビクしているからだ。情けない…… 「忙しいところ、呼び出してすまなかったな。シーズンの特集も今月で終わりだろ?」 「はい」 「でだ、先週の会議で次の特集はブライダルと合同で「愛を育み、愛を深める、二人だけの世界へ!新婚物件特集」に決まった」 「……はい」 相変わらずなネーミングセンスだな…ちなみに今回は、「さあかっこいい部屋でエンジョイ新生活!新しい君を発見だ!学生物件特集」だった。 二人だけの世界ってできちゃった結婚の場合はどうすんだ?とか新しい君を発見したのは良いけど、学生だ。 家に帰らないこともあるだろ?そういう親の心配とか考えないのか……と思ったけれど、口にするのは恐ろしいので黙っていた。 そして俺の目をじっと覗き込む大熊の目に嫌な予感が煙のように立ち登りだす。 「うちの担当はお前、坂田で行こうと思ってる」 「……はい。それは構いませんよ。呼び出されたことで、どうせ俺だろうとは思ってましたから……」 「そうか。それは助かるよ。で、ブライダルの方は、」 更に俺の目を覗き込んで…だから、嫌な予感がするんだよ! 「山本だ」 ほらーーーー!!! [*前] | [次#] ≪戻る≫ |