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「じゃ、坂田さん……お先に失礼します……」

「ああ、お疲れ……」

先日軽口を叩いていたアルバイトの田中くんが死んだ魚のような目をして帰って行った。
黒田から急に渡された原稿は5回もの修正をされ、最初に田中くんが作っていた原稿とはまったく違うものが出来上がったところで、OKが出た。
厳しい現実を突きつけられ、夢を抱いていれば抱いている者ほど落ち込む。
自信を失くしてマフラーに顔を埋めながら猫のように丸めた背中で帰って行く田中くんは、これっぽっちも魅力を感じないけれど、それでも「帰って行く」という行為をしているだけで、少しだけ羨ましくなった。

週末の〆切まで行けば、今期は後二回の発行。
という事は、この修羅場をあと二度ほど味わわなければならないってことだ……。

田中くんが帰ってしまえば、フロアには俺一人となった。
省エネと節約を兼ねる意味で、エアコンも電気も自分のいる部署のみにする。

席に戻り、ディスプレイとにらめっこをしながら、右手でマウスを動かした。
前回載せたイメージパースを使ったところに、出来上がったばかりの新築マンションの写真と入れ替えれば、デザインがそのままでは変だなと感じたので、記事の部分との調和を取りながら修正していく。
給湯室の冷蔵庫がヴーンというモーターを動かす音と、時折自分が打ち出すキーボードの音だけがフロアの中に響いていた。


実は……、この時間は嫌いじゃない。


集中力が一気に高まり、自分だけの世界にのめりこんで行く。
この時間じゃなければ出来ないであろう発想が浮かぶから。

今日も、これは行ける!というデザインが浮かび、夢中になってマウスを動かし、キーボードを叩く。
一度集中してしまえば時間の感覚はあっという間に体からも脳からも抜け落ちていく。
どれくらい経ったのかわからない耳に、チン!という音が急に聞こえ、エレベータのドアが開く。
その音に

「ひっ!!」

声と同時に体がびくっと跳ね上がった。
ドクドクと血液を送り出す心臓のまま、音のした方へ顔を向ければ、大きな荷物を持った山本だった。

ちっ……山本、か……

心の中で毒を吐きながらもホッとした俺と目が合った瞬間、先ほどの俺のようにびくっと体を跳ね上げさせ、立ち止まり、小さくはぁと一息吐き出して、意を決したように歩み出した。

「……お疲れ……っす」

「……お疲れ様……」

電気を点けることもせずに、奥のブライダル課のデスクへと向かう。
どさっと肩に担いでいた大きな荷物を作り付けの棚に引っ掛けるまでを目で追ってから、手元の資料へと目を向ける。
さっきまでの集中力はどこへやら……
資料にある文字も写真も、目の上をさらさらと流れて行くようだった。

「一人ですか?」

聞こえた声に、またしてもびくっとしてから、顔を向けずに、

「う、うん」

そう答えれば、山本が近づいてくる気配がした。
その気配に体が硬直するのがわかった。
逃げ出したい…と思ったところで、

「ちょと話をしても良いですか?」

「はぁ〜。どうせ、嫌だって言ったってするんだろ?」

大げさにため息をついてから問えば、

「はは、良くわかってますね」

そう言って、隣の席の椅子を持って来て、すぐ横に腰をかけた。

「何?」

「いや……あんまり話したことなかったなぁと思いまして」

「そりゃそうだろ?部署も違えば、歳だって十歳も違うんだ。接点なんて何一つないよ」

「そんなことないですよ。同じ会社で同じフロアで……10ヶ月もあなたを見てきたんですから。」

見てきた…という言葉に、顔に血液が集中するような気がして、視線を自分の足へと向けた。

「俺……やっぱり坂田さんが好きです」

俯いた耳にそんなことを言われて、どうすれば良いのかわからなくなる。
体温が上がって、更に血液が集中する。

「俺のこと……嫌いですか?」

嫌いか……?

「……嫌いも何も、お前のことなんて何にも知らないよ」

「そうですね……。じゃあ、友達からって訳には行きませんかね?」

「……とも、だち?」

「だって、俺は10ヶ月丸々坂田さんを見てきたけど、坂田さんは俺のこと何にも見てないじゃないですか?」

「そりゃ……そうだけど……」

「だから、これから、10ヶ月……じゃ長いですね。そこまでは我慢できないかもしれないですけど、とにかく俺を見て下さいよ」

「はぁ?何言ってんだよ。何で俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」

山本の顔を見て言えば、

「お願いしますよ。俺を見て、やっぱりこいつはダメだって思ったら……そのときは言ってください。俺、今度こそ、……諦めますから」

きっぱりと言い放つ山本に、俺も真剣に答えなければならないような気がしてきた……

「…………ったよ」

「え!?」

「……わかったよ……」

「本当ですか!ありがとうございます!」

そう言って、抱きしめようとする。
それを阻止しようとして慌てて手で硬い胸板を押し返す。

「ちょ!待てよ!友達からだぞ!それと、過剰なスキンシップはやめてくれ!」

今度はその手を握ってくる。

「嬉しいなぁ。じゃあ、坂田さん、よろしくお願いしますね。とりあえず、携帯の番号とアドレスを……」

山本が内ポケットから携帯を取り出す。

渋々と俺も、ジーンズの尻ポケットから携帯を出して、そのまま山本へ渡した。

「勝手に入れろ」

そのまま、30分ほど他愛ない話をして、そろそろ俺も仕事をしなきゃ本当に泊り込みになってしまう……
と思い、渋る山本を無理矢理追い返す。

「わかりましたよ……。帰りますよ……」

渋々というのがあからさまにわかる態度で椅子を元に戻す。
その動作を目で追っていれば、またこちらを向いた山本が、すっと大きな手を顔にかざしてきた。
何をされるのか!と目をぎゅっと閉じれば、そっと目の下を優しく撫ぜられた。

「クマ、出来てます……」

うっすらと目を開ける。
その隙間からきれいな黒い目が見え、その中に間抜けな面をした自分が移りこんでいた。

「あまり無理しないで……じゃ、お先です」

そう言って、エレベータへと向かっていく山本の大きな背中を見つめた。
パーテーションの影になって、山本の姿が見えなくなる。エレベータのドアが開く音がして、山本が乗り込み、フロアに元の静けさが戻ってきても、俺はしばらくそうしてそこを見続けていた。







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