Only for Me 1 帰ろうとして見上げた時計は夜の7時半を指していたのに、外に出ると薄明るい赤味を帯びた空が頭上を覆い、肌を撫でる風は妙に生ぬるかった。 自分の車を止めている駐車場まで歩いていき、ドアを開けると篭っていた空気は昼間の暑さを孕んでいて、じわりと汗が滲む。 エンジンをかけたと同時にエアコンの吹き出し口から出てきた風は煙草臭く、それにつられるようにポケットから取り出した煙草を銜え、火をつけた。 自分が吸い込むよりもエアコンから吹き出される風に火を煽られる煙草がジリっと音を立てて短くなる。 何となく車内が煙っているような気がして、窓を開けると同時に、ジーンズのポケットに突っ込んでいたままになっていた携帯がフルフルと振動する。 短く震えた携帯はメールの着信を示している。 尻を少し上げて取り出した携帯の画面に映し出された名前を見て、ほんの少し顔が綻ぶ。 誰が見ているわけでもないのに、急いで顔を引き締めた。 『もう、帰った?』 メッセージを見て、煙草を車内に取り付けられている灰皿でもみ消した。 自分が帰るときにはまだ社にも戻っていなかった年下の恋人の事を思い出す。 地域密着型の出版社に勤める自分たちは、ここのところすれ違ってばかりだった。 住宅情報誌を取り扱う自分と、結婚情報誌を取り扱う恋人の山本悠樹。 物件の動きがある程度落ち着いた5月のGW明けから暇になった自分とは反対に、ジューンブライドのせいか、6月中の休みである日曜日、それ以外でも忙しなく取材に出かける山本を知っていながらも、ゆっくりと会えなかった時間に不満は積もっていく。 今までの生活からすれば、ゆっくりとできる自分の時間は最高の贅沢であった。 毎日、毎日、時間に追われ、気づけば日にちが変わっていた…なんてことはしょっちゅうだった。 それなのに、恋人が出来た途端、その一人の時間が妙に重い。 一人で暗い部屋に帰ることを憂鬱に感じる。 『これから帰る』 浮かんできた不平不満を何とか飲み込み、たったそれだけのメッセージを送り、携帯をパタンと閉じて助手席に放り投げる。 色々と付け加えると言わなくても良いようなことまで、書いて送ってしまいそうだったから。 誰に対してなのか、そんな言い訳じみた言葉を吐いて、シフトを動かし、アクセルを踏み込もうとした瞬間、放り投げた携帯が着信のバイブとイルミネーションを灯す。 小さく舌打ちをして、シフトレバーを戻しながら、携帯に出る。 「もしもし?」 『坂田さん』 「ああ、山本か……」 『山本かって……今どこですか?』 「駐車場」 『じゃあ、待っててください。今、俺も出ますから』 「出るからって……お前社にも戻ってないんじゃないのか?」 『今、戻って来たとこです。フロア見てもいなかったから……荷物置いたらすぐに行くから……待っててください』 言うなり、一方的に電話が切れる。 呆れた振りをして、はぁ〜と溜息は出たものの、それでも口の端がかすかに上がる。 明日も仕事があるけれど、それでもこれから少しの間だけでも一緒にいられると思うと、それだけで本当は嬉しかった。 歩いて帰る山本に合わせ、エンジンを切り、後ろのシートから色々と詰め込まれたカバンを握り締め、車外に出る。 出た瞬間、さっきよりも温度の下がった風が頬を撫でられ、会社までの道を辿る。 どうせ今日は、泊まることになるだろう……そんな期待を込めながら…… 「ご馳走様」 「いいえ。あっ風呂、入るでしょ?」 「……うん」 「じゃあ、準備してきます」 テーブルの上に並べられた皿を重ねながらキッチンのシンクに運ぶ山本に倣って、自分が食べた器だけでも…… と重ねようと茶碗を持った瞬間、それも取り上げられ、山本が重ねていたものに積み重ねられる。 食事を作ってもらい、風呂の準備までしてもらっては悪い……と思い、 「洗うよ」 そう言うと、 「ダーメ」 一刀両断されてしまった。 「じゃあ、俺が風呂の準備する」 「それもダメ。テレビでも見ててください」 手伝うと言って、断られるのはいつものこと。 してもらってばかりが嫌なのに、何にもさせてもらえない。 少し拗ねた感情でテレビを見ていると、キッチンから水の流れる音が聞こえ始める。 テーブルの上に置かれた自分のタバコに手を伸ばし、 100円ライターの安いカチリとした音と同時に深く煙を吸い込んだ。 ぷかぷかと煙をふかし、灰にする行為に特に意味はない。 耳に聞こえるのはジャージャーと流れる水の音。 面白くない感情をごまかすように、タバコを銜えたままでソファに置かれたクッションを抱え、ごろんと横になる。 確かに楽だ。何にもしなくてもご飯が出てきて、風呂の準備をされて、 きっと髪も乾かしてもらって、自分が後することといったら、寝ることくらいだろう……寝ること…… 浮かんだ情景に顔が赤くなった気がして、ガバっと音がしそうな勢いで起き上がり、思わず銜えていたタバコが落ちそうになったから、慌てて灰皿に押し付けた。 ぶんぶんと首を振っていると、何してるんですか?と笑いを含んだ山本の声がして、バカにされた気がして睨みつけようとして見たところに、すでに山本の姿はなかった。 風呂の準備に行ったらしい。 はぁ〜とため息を出して、見つめた先、部屋の隅に積み重ねられた自社のブライダル情報誌があった。 そういえば……山本の書いた記事を読んだことがないことに気づく。 恋人としてそれって……まずくないか?という感情が浮き上がって来たから、急いで立ち上がってその前に立つ。 ブライダル情報誌特有のピンクや花が多くあしらわれた表紙を見つめ、一冊とってパラパラとめくる。 結婚式の記事。 幸せそうに笑う新郎と新婦。 ライスシャワーを浴びたり、ケーキを食べさせ合ったり、楽しそうなスナップが並ぶ。 見慣れた写真ではあるけれど、きっと本人達にとったら、最高の時間なんだろうな……と思い、何冊かとってソファに戻ろうとしたところで、間に挟まっていたのかパサリと薄い冊子が床に落ちた。 付録かなにかだろうか?と手に取って、表紙を見て固まった。 『編集者 あきほ☆いけない残業時間』 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |