13





前を歩いていた黒田には気づかれていなかったようで、すべて吐き出してすっきりとしているはずなのに、顔が青いままの俺が先に帰ると言ってもうまく言っとくよと言って送り出してくれた。

何でこんなにショックを受けているのかわからなかった。
わかるのは、ショックを受けている自分がいるということだけで、それから先は考えないように思考に蓋をしているようだった。
酔ってふらふらと駅に向かって歩く。
車は会社の駐車場だから、明日タクシーででも取りに行けば良い。

体は酷く疲れているようなのに、家に帰りたくないと思ってしまう。
どこかに行きたい。
だけど……そのどこかが、わからなかった。

駅に向かう途中の自動販売機で水を買い、コンクリートの植え込みの縁に腰を掛ける。
昼間は暑いほどの陽光なのに、吹き付ける風はまだまだ冷たかった。
それでも冷えた水は火照った体と何もなくなった胃の中に染みこんでいくような感じがした。
一度座ってしまうと動けなくなった。
行き交う人の足元をぼーっと見ていると、突然ジーンズのポケットに入っていた携帯がフルフルと震え出した。
一定の時間震えていて、そのまま無視をしていたら、止まった。
けれど、またフルフルと震えだす。
それを四、五回されたところで、鬱陶しくなって通話のボタンを押した。

『坂田さんっ!今どこですか?』

山本だった。
切ろうとした指がそれを拒む。切りたいのに、指が切ろうとしない。
思考と行動が伴わない。

『……坂田さん?今どこですか?』

同じことを繰り返し言った後、

『先に帰るなんてひどいじゃないですか!』

非難される声に、なんで俺がひどいと言われなきゃならないんだと思う。

「……なんで俺が酷いんだよ……」

不満はそのまま口から出てくる。
言いたいわけでもないのに。

『え?とにかく、今どこですか?』

「…らない」

『え?』

「知らない!道!」

『道って……駅方面ですよね?とにかくそこを動かないで下さい。迎えに行きますから』

「来なくていいよ」

『なんで?行きますよ』

「……さっきの子と一緒にいればいいじゃないか……」

『え!?あ……とにかく、そこを動かないで下さい!絶対、動かないで下さいよ!』

念を押すように言われた言葉の後、一方的に切れた電話を耳に押し当てたまま、言わなくて良いことを言ってしまったと思ってももう遅い。
店からそんなに離れているわけじゃないから、すぐに追いつかれてしまうだろう。
それでも、思考と行動が伴わないから、動きたくても動けない。
会いたくないのに、動けない。

山本の顔を見たら、言わなくても良いことを言ってしまいそうで動きたい。
逃げたい。

なのに体はやっぱり動かなかった。




買って半分ほどなくなった水の入ったペットボトルを見ていると、バタバタと走る靴音が聞こえてきた。
その音が近づいて来て、視界の端で止まる。
はぁはぁという息遣いが聞こえたけれど、顔を上げることはしなかった。

「良かった………動くなって言った……」

「はぁ〜またそんな屁理屈を……立派な酔っ払いですね……」

呆れたように言われて、悲しくなってくる。
何だか視界がぶれてきて、涙が出てきたように思う。

そうしていると、目の前にしゃがみこんだ山本と目が合った。
ぎょっとしたのも一瞬で、

「何で泣いてるんですか?ひょっとして泣き上戸?これじゃ喫茶店とか行けないなぁ……家、来ますか?」

家と言われて、初めてあそこに行きたかったんだと思った。
なんでだろう?と思うけれど、家には帰りたくなくて、どこかに行きたいと思っていたところがそこだとわかると嬉しかった。

うんと頷くと二の腕をぎゅっと掴まれて立たされる。
タクシーを捕まえ、先に押し込められるように乗せられたときに、甘い花のような匂いが山本からしてきた。
窓の外はキラキラと綺麗なはずなのに、浮かぶ光景はさっきの居酒屋での山本と女性が抱き合っている姿だった。


そんなに距離があるわけではない。15分ほどなのに、眠りについていたらしい。
山本に揺すられ、支えられながら、先日泊まった部屋の前に来ていた。

だけど……支えられれば、先ほどの香水の匂いはきつく香る。
嫌な匂いではないはずなのに、顔をしかめ、思いっきり手を伸ばして山本を突き放した。

「うわっ!何ですか!?」

「……臭い」

「え?タバコですかね?」

「違う。香水臭い!」

「……あ……とりあえず、入って」

鍵の開いたドアに背中を押されて入り、靴を適当に脱いで上がって、ソファにどかっと腰を下ろした。
その後をくんくんとスーツの匂いを嗅ぎながら山本が入ってくる。

「水……」

「はいはい」

キッチンに入って行く山本が戻ってくる頃を見計らって、手に持っていたペットボトルを飲みだした。

「持ってるんじゃないですか……」

恨みがましい視線を向けられたけれど、気にしない。

「忘れてた。酔っ払いだから……」

「はいはい、すみませんね……っていうかさっき、見られてたんですね……」

コトンとテーブルに水の入ったペットボトルが置かれる。隣が沈む気配がして、体が少しだけ傾いた。
上着は脱いだようだけど、やっぱり山本からは甘い香水の匂いがする。

「……臭い」

「まだ匂いますか?小野田さん…あ、ブライダルに入って来た子なんですけど、酔ったとか言っていきなり抱きついてきたんですよ……」

そんなことだろうとは思っていた。だけど……なんとなく納得がいかない。

「あの子はお前狙いだって、黒田が言ってた……」

「あ……あぁ、まぁ……」

「まんざらでもないんだろ?」

「まぁ、可愛いですからね」

笑顔までつけて言われた言葉にツクンと痛いものが胸を刺す。
それに急激に腹が立った。
酔った思考でまともな事を言わないし、考えないのもわかっている。
だけど、山本のその言葉に無神経な気配があって、腹が立った。
短絡的な思考の中、抑えることも出来ずに言葉が飛び出す

「……お前は俺を好きなんじゃないのか……?」


「え?」

「だから!お前は俺の事が好きなんじゃないのか!!」

「好きですよ!当たり前じゃ……え!?」

「だったら、なんで……女と抱き合ったりしてんだよっ!」

「え!?あ……待って……ちょっと待って!それって……」

「何だよ!」

「坂田さん……それって……嫉妬?」

耳に言葉が届いて、脳で理解するまでに時間が必要だった。
言われた言葉はわかるけれど、意味がわからなかった。

「は?」

「嫉妬ってことは……俺のことを好きってこと?」

腕をつかまれ、揺さぶられる。

「俺のこと好きなんですよね?言って。ねぇ、好きって、言ってくださいよ!」



次の瞬間には、大きくて硬い胸の中に包まれていた。
甘ったるい香水の匂いはかすかに匂う。
だけど…包み込まれるように回された背中の腕や、香水とは違う山本の匂いにさっき刺さった棘がぬけていくような気がした。
そうして、どのくらいたったかわからないくらいそうしていた。
やっと見つけた答えは、子供がお気に入りのおもちゃを欲しているほどの感情だった。


「……好き……かも」

「なんですか、そのかもって?」

耳元で囁くように言われて、

「……お気に入り程度ってとこ、かも」

「また、かもだし……」

言葉にすると認めてしまう。
先ほどの居酒屋での吐き気同様、言葉で伝えれば、自分の中にも何の疑いもなくストンと落ちてきた。
ふっと笑いを漏らし、少し距離があく。


「……キスしても良いですか?」



囁くように言われた言葉に、浅く頷く。


近づいてきた山本の目は黒くて綺麗な目で、その中に酔って潤んだ自分の目が映っていた。


それを見るのが恥ずかしくて、目を閉じた瞬間に、俺の唇に、山本の唇が…降って来た。





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