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腹の中が煮えくり返ろうが、頭が沸騰していようが、目の前に積まれている原稿は進めなくてはならない。
着ていたシャツの第一ボタンまで留めれば見えないと黒田に言われて、拘束感を味わいながらも仕事をしていれば、すっかり熱も冷めてしまった。
昼間とは違う空気があたりに漂いだし、一人一人と作業を終えて帰っていく。
今週を乗り切れば、学生物件の特集は終わる。
それが皆の心を一つにしているようで、進めている作業は相変わらず黙々としたものだったけれど、どこか明るい雰囲気もある。
みんな疲れているであろう。大熊も終わったら打ち上げを兼ねて皆で飲みに行こう。と言っていた。
不景気で苦しいながらも売り上げ目標は達成されていた。
あと少し……あと少しだ。

気づいたときにはフロアに自分一人しかいなかった。
閑散としたフロアにたった一人でいるとどうしても思い出すのは山本の事で、冷めてしまっていた熱も沸々と蘇ってくる。
何もしないと言ったくせに、キスマークをつけられた。
トイレの鏡で確認したくても見えない場所につけられたようで確認できない。
これでは明日着る服も同じようなものにしなければならない。
明日もこの拘束感を味わわなければならないのかと思うと急に苦しくなってきて、誰もいないことを理由にボタンを外し、緩めた。
どのくらいしたら消えるものだろうか……社会人になってからつけられたことなんてなかったから。
見えないから余計に不安になる。
考えたところで不安になるだけだからと、休憩を兼ねて給湯室にコーヒーを淹れに行く。
そこでも結局、二人でコーヒーを飲んだことを思い出し、考えなくても良いのにうじうじと山本のことを考える。

ソファーで寝ると言ったくせに、同じベッドで寝ていた。
友達ならそれもあるだろう……
だけど、友達はキスマークなんてつけない。
ドライヤーで髪を乾かしたりしない。
触れてくる指先に、見つめてくる視線に、慈しむような片鱗を…見せたりはしない。

自分に隙があるのだろうか?
自分を好きだと言って来る相手に無防備なのだろうか?
見込みもないのに気のある振りをしているように見えるのだろうか?

でも……楽しかった。
一日一緒にいて、楽しかったと思う自分がいる。
友達で良いではないか……

腹を立てたり、山本を庇うような気持ちになったり忙しい。
自分ひとりで相手の事を考えても答えなんて出ないのは知っている。
延々と悩まなければならなくなることも。
ため息は深く、この時は自分自身がどうしたいのかもわからないままだった。






学生物件の特集も終り、次々と出される原稿は、新婚物件特集の原稿で、営業も編集も自分たちの目から見たお勧め物件だった。
アンケートで集めた地域を不動産屋で空いている物件を問い合わせ営業と組んで直接見に行き、地域の環境や感想を書いていく。
数自体は少ないけれど、自分の目で見た記事はやっぱり当たり障りのないものでも、他社を意識したものでもなく、単純に自分が結婚したらこういうところに住みたいと思う皆の気持ちが出ているようで、読んでいて面白かった。
ブライダルの方も同じことをしていた。
住宅の方の営業と編集は、さすがに住宅業界に携わっている分、的を外すようなコメントは少ないけれど、ブライダルの方は面白い。
住宅業界に携わっていない、所謂読者と同じ目線で見ている記事の方が新しい発見があって目から鱗のようなコメントが並んだ。
それをまとめ、誌面にしていた楽しい作業はあっという間に終わってしまった。
そして今日は無事に印刷所に原稿を持ちこめた。
気づいたら季節も春へと変わっていた。
いつもなら学生物件の特集が終わったところで打ち上げがあるのだが、今年は特集も自分たちでやった分時間が合わず、そうしている間に新入社員が入って来た。
という事で、結局新社員の歓迎会も合わせて行われることになった。
ブライダル課と一緒に……

入れ替わりの激しいこの会社で10年というとかなりのベテランの域に入ってくる。
近くに来るものは後輩と呼ばれる人が多く、そうなると勧められる酒が多くなる。

「新人の田中です!あきほさん、どうぞ!」

「二年もバイトしてたくせに……」

「いや、社員としては新人ですから……」

差し出したグラスにビールを注ぐ田中くんは七五三か成人式か……アルバイトをしていた田中くんの正式な採用があり、結局編集の新入社員が一人増えてアルバイトが一人減っただけ。つまり実質何も変わらないということになった。
普段見慣れないスーツを着た田中くんはどこか子供っぽくも見える。
俺がスーツを着てもこんなもんだろ。

「黒田さん。今年のブライダルの新入社員の小野田さんって子。めちゃくちゃかわいいんですよ」

田中くんは小さな声で言っているようだが、はっきりと聞こえる。
黒田も黒田で

「知ってる。ロングの黒髪の子だろ?チェック入れてるけど……山本にべったりなんだよな〜」

言われた方を見てみれば、山本の周りにはいつの間にか新入社員も含めて女の子が集まっている。
何だか気に入らない。
ふいっと目を逸らせば、

「えっと……坂田さんですよね?俺、住宅の営業で角野って言います。宜しくお願いします。」

「俺は、ブライダルの三木です。部署は違いますが、宜しくお願いします」

「ああ、こちらこそ。宜しく」

という感じで、何だか急にビール瓶を片手に持った新入社員に挨拶をされだした。
当たり前だ。自分は編集の窓口である。
来週から原稿の出稿の仕方などを教えなければならないのだ。
そりゃあ挨拶にもくるよな……他部署はどうかと思うけど。

「黒田さん、あきほさんのまわり……男ばっかですね」

「ああ、さっき木崎さんが住宅のべっぴんさん見ておいでって言って回ってたからな。
女だと思って来てみたら男だったけど、ありゃ本当にべっぴんさんだって思って話かけちゃうんだよ」

俺の知らないところでこんな会話がされていたなんて知る由もなかった。

ひとしきり勧められるままに飲んでいたら、

「あきほちゃん?何かやばくない?」

黒田にそう聞かれたときには既に許容量を超えていた。

「……うん。やばい気がする……」

声に出して認めた途端、言いようのない吐き気がこみ上げてきた。
慌てて口を押さえた。
その気配を感じ取ったであろう黒田に肩を抱かれながら、トイレに駆け込む。
便器を抱え込み胃の中にあったものをすべて出し切れば、急激に楽になった。

「大丈夫か?」

「うん。楽になった。ありがとう」

トイレの洗面台で口を濯いでフロアに戻る。

ふと背後に人の気配を感じて振り返った。
振り返らなければ良かったと後悔しても遅かった。

手前にある男子トイレの奥、女子トイレの入り口付近は少しだけ奥に入り込んだところにあるようで、ちょっとした死角になっていた。

そこで

山本が……

女の人と抱き合っていた――






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