11 ついさっきまで先日大熊に呼び出された会議室には山本の声が響いていた。 普段20人以上で使うような会議室は、部屋の半分だけに明かりが点けられ、ホワイトボードには山本が書きなぐった文字が躍っていた。 そこに今、大熊と二人でいる。 木崎さんと山本は取材があるとかで二人して飛ぶように駆け出していった。 「良く考えたなぁ」 大熊がホワイトボードと昨日作った企画書を交互に見ながら感心したように言う。 「俺じゃないですよ。ほとんど山本です」 「そうか……」 地域密着型なのに、大手の情報誌が介入してきた頃から、対抗するように当たり障りのない記事が増えたのが気になる。 そう言ったのは山本だった。 当たり障りのない良いところだけでなく、周辺の環境や学区を踏まえた上で、今まで不動産屋に任せっきりになっていた「紹介する物件選び」を提案する。 もちろん不動産屋の協力なくしては出来ないことではあるが、それでも与えられた物件の紹介ではなく、載せる物件をこちらが選ぶ。 そうすればもっと熱のこもった記事が書けるのではないだろうか? プラスして定期購読の申込書や読者プレゼントに使っているアンケート、期間限定でホームページにも同様のアンケートを載せ、読者のニーズを聞いていく。 それを記事にするのだから、当然目が行く。 何も難しいことはない。 欲しいと言っているものを記事にするだけなんですよ。 笑いながら言ってはいたけれど、10年編集の仕事をしていて、すっかり忘れていた。 長くやっていれば長いだけ、馴れ合いは起きてくる。 これくらいでいいか…という妥協も。 それが入社1年目も山本には、ひどく退屈な気がしたのだろう。 「最初は不安がっていたくせに…少しは見直したか?」 最初に嫌がったのは「山本」だったからで、別に企画に対しての不安ではなかった。 でも、大熊にすべてを話すこともないし、山本という人間は昨日一緒にいてそれなりにわかった。 だから敢えて反論もせずに 「そうですね」 大熊の言葉に同意していた。 会議室の片づけを済ませ、鍵を二階の事務所に返しに行ったついでに、別館にある喫煙室にタバコを吸いに行った。 中途半端な時間だけに他には誰もおらず、西向きの部屋には春の日差しが入ってくる。 それでも換気の意味で少しだけ開けた窓から入ってくる風は、肌に触れると冷たかった。 外を見ながら、ぼーっとしてタバコを銜えていると、背後でドアの開く音がした。 「お疲れ」 入って来たのは黒田だった。 「ああ、お疲れ」 隣に並び、上着の中に手を入れ、タバコを取り出す黒田を目で追ってから、視線をまた窓の外に移した。 その瞬間、すいっと冷たいものが首筋に触れる。 ビクリと体が飛び跳ねた。 「な、何?」 触れられた辺りを右手で抑えながら言えば、 「はぁ〜、あきほちゃんはいつからそんな不埒な子になっちゃったんだろう……」 「ふ、らち?」 「ああ、そんなとこにキスマークなんてつけて、俺はショックだよ」 キスマーク? 言われた言葉を反芻する。 「何?虫に刺されたとか、古い手を使ってもダメだぞ。この時期に虫なんてそうそういないんだからな」 覗きこむように言われた言葉の意味はわかるけど… 「つけられるようなことしてないし……」 「うっそだ〜。で?どんな子?かわいい?」 「本当だよ!してないし!それにここ何年も彼女なんていないし、そんなこともしてない!」 言った後で激しく後悔した。 自分で言って、自分の言葉に情けなくなってきた…… 「そんなにムキになるなよ。彼女じゃなくったって、出来るし……でも、それはキスマークだよ。誰につけられたんだ?お兄さんに白状しなさい!」 詰め寄られ、肩を抱かれて揺さぶられても、そんなことはしていないし、そんな相手もいない。 何でだ?どうしてだ?と考えているところに、ふと昨夜の事を思い出した。 体が重い…… そう思って一度だけ目を覚ました。 寝返りを打とうとした体が動かすことが出来ないというジレンマに、開けたくもないのに、瞼をうっすらと開けた。 月の明かりなのか、近所の街灯の明かりなのかわからなかったけれど、入り込んでくる明かりは薄暗かった。 そこに見慣れないカーテンが目に入って来て、ああ山本の部屋に泊まったんだったと思い出した瞬間、ウエストの辺りに感じていた重量感が何であるかがわかったような気がした。 横向きで眠っている自分の背中がいつになく温かいと感じていることとか、首筋に感じるくすぐったい寝息とか…… ソファで寝るとか言っていた誰かが、自分のすぐ後ろでくっつくようにして寝ているのだと思ったけれど、心地よい温かさと、まだ寝ていたいと思う気持ちから、磁石のN極とS極のようにくっつこうとする上瞼と下瞼に逆らえることはなくて、また深い眠りに入ってしまった…… 次に目を覚ましたときは既に朝で、起き上がったときに山本は朝食を作ってくれていた。 だからすっかり忘れていた…… 「ああ!」 「何?誰?白状する気になった?」 黒田が目をキラキラと輝かせながら聞いてくる。 まさか山本だなんて言えないし、会社に一緒に行くと駄々をこねる山本を振り切って朝から結構な運動をさせられたのだ。 キスマークは寝ているときにあいつがつけたに違いない。 確信したけれど、それは何があっても言えない。 「虫だ」 「は?だから、そんな手は通用しないって……」 呆れるように言った黒田の言葉を無視して、 「虫だよ。すごく質の悪い、虫だ」 それからも納得の出来ない黒田が何度も何度も聞いてきたが、頭の中ではどうやって山本にこの怒りをぶつけよう……そんなことばかりを考えていた。 [*前] | [次#] ≪戻る≫ |